ビッグローブ版
三田用水の物語

Story of
the Mita Irrigation Water

     
   

  


三田用水が流れていた鎗ヶ崎の高架鉄樋
(出典:目黒区ホームページ・無断転載禁)

   
三田用水・道城口分水の上流部を歩く -New! 

 <2024>
 10月1日 三田用水・道城口分水の上流部を歩く-New!  
 <2023>(b5)
 
8月5日 講演録(高輪女性防火の会)三田上水と三田用水の話(上)川のルートと流れの仕組み
8月28日 同講演録(下)川の流れと人々の暮らし         
 7月23日 [講演と展示]玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(1)報告
 7月25日 同[講演と展示] (2)展示パネル
 <2022> (b4)
12月31日 三田用水の駒場分水は今も現役だった。
 <2021> (b3) 
 3月21日 <三田用水の4つの遺構>についてのシンポジウム報告-「我が町の玉川上水関連遺構100選から」-
<2017> (b2)
 
11月21日 三田上水の地下ルートを「貞享上水図」でたどる (前編) -白金猿町から二本榎、伊皿子、そして聖坂へ-
 
 11月21日 同「貞享上水図」でたどる(後編)-三田町、松本町、西應寺町、そして品川の八つ山下へ-
 4月1日 TUC講演録「三田上水と三田用水」-渋谷、目黒、白金の丘を流れた川-
         
 2月4日 東京都庁「三田上水と三田用水」展示パネル紹介
<2016> (b1)
 10月15日 三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
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三田用水は玉川上水の分水で、下北沢村(北沢5丁目)の取水口に発し、白金猿町(高輪台)を経て目黒川に注いでいました。その歴史は古く、寛文4年(1664)に幕府が開削した「三田上水」に始まります。この上水は享保9年(1724)に農民に払い下げられて名前も「三田用水」に改称し、江戸・東京南部の発展に様々な形で貢献した後、昭和50年に311年の歴史を閉じました。平成28年(2016)に「玉川上水・分水網の保全活用プロジェクト」が日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産2016」へ登録されたのを機会に、三田用水が農業の発展のみならず近代産業の成立や人々の暮らしに与えた影響を調べてみたいと思い、このサイトを設けました。「あるく渋谷川入門」と並んでご覧下さい。



2024.10.01


(目次)

はじめに

1.御用水、農業用水としての道城口分水

2.工業用水としての道城口分水

3.三田用水が流れていた目黒新富士の麓

4.道城口分水と渋谷川支流はどこを流れていたか?

5. 渋谷川本流までの道城口分水の水路

おわりに 近世・近代・現代を語る道城口分水

 

はじめに

三田用水の道城口分水は火薬庫分水とも呼ばれており、渋谷区教育委員会の「渋谷区文化財マップ」には「道城口水路(火薬庫口)」と併記されています。道城口分水が設けられたのは江戸中期で、目黒の高台で三田用水から分水を受け、三田村や下渋谷村の田畑に水を配った後に渋谷川本流に注いでいました。分水口の場所は、後に中目黒・別所坂の脇に建てられた「目黒新富士」の南側にありました。。幕末になるとその中目黒に火薬庫が置かれ、明治になると海軍や陸軍の火薬製造所が建設され、火薬製造に使う工業用水として道城口分水が使われました。この頃から地元で火薬庫分水の名が広まったようです。ここでは、とくに必要がない限り道城口分水の名前を用います。

ところで、道城口分水の農村部の流れを伝える資料には昭和10年の「渋谷区地籍図」などがありますが、火薬製造所の構内の流れは軍事機密の関係でよく分かっていません。さらに、この地には道城口分水の受け皿となった渋谷川の支流(谷間)があったはずですが、火薬製造所や海軍技術研究所の建設で土地が大きく改造されたため、地上から消えてしまった様です。このように正体がおぼろげな道城口分水ですが、限られた史料や古地図、地形データを手掛かりにして、また実際に現地を訪れて、当時のルートや渋谷川支流との関りを考えます。




1.  御用水、農業用水としての道城口分水

幕府が寛政3年(1791)に編纂した『上水記』によると、道城口分水の始まりは古く、三田用水の前身である「三田上水」の時代まで遡ります。『上水記』中の「三田上水の事」には、享保4年(1719)に下渋谷村の道城池と田子免池(たごめいけ)に「御用水」を流したとあります(注1。『渋谷の湧水池』によると、田子免池は今の渋谷川・上智橋(渋谷区東2丁目-23-14)の近くにあり、将軍吉宗の時代に鷹狩りや贈答に使う白鳥を飼育していました(注2。道城池も同じ目的で使われたのでしょう。池の場所ははっきりしませんが、JR恵比寿駅西口の商店街の土地にかつて道城寺というお寺があり、その境内と伝えられています(注3。このお寺の池が道城口分水の名の由来です。享保7年(1722)に「三田上水」が廃止され、農民に払い下げられて三田用水になると、分水の目的は「農業用水」に変わりました。田子免池の「御用水」は三田用水猿楽口分水になり、道城池の「御用水」は同道城口分水へと姿を変えて、渋谷川沿岸の田畑を潤すことになりました。

 

『御府内場末往還其外沿革圖書[3]拾六中』(弘化3年)の部分。国会図書館所蔵。図の左側に上(北西)から下(南東)に三田用水が流れ、その右側の新富士の下に道城口分水が、その下の左側に別所上口分水が描かれている。図の右端に渋谷川(図では新堀川)、左端に目黒川が流れている。地名その他は筆者。


上の古地図は、江戸幕府が編纂した弘化3年(1846)の『御府内場末往還其外沿革圖書[3]拾六中』です(注4)。幕府がこの地に火薬庫を作ったのは安政4年(1857)ですから、その11年前の姿です。三田用水が目黒村の田畑や入会地の中を上(北西)から下(南東)に向かって、薄くですが描かれています。用水の左側には今も急坂で有名な別所坂が、右側には目黒新富士があります。目黒新富士は、択捉(えとろふ)探検で有名な幕臣近藤重蔵が文政2年(1819)に別邸内に建てた富士塚で、当時は江戸の富士講や見物客で大いに賑わったそうです。


図を見ると、新富士の下から道城口分水が渋谷川(図では新堀川)に向かって東の方向に流れ出しています。図では水路が途中で消えていますが、この先で渋谷川支流の上流部に注いでいたと考えられます。三田用水の分水の多くは、地元を流れる自然の川に接続されて沿岸の田畑を潤していたからです。この図には渋谷川の支流は描かれていませんが。なお、三田用水の道城口より下流の左側には、目黒川に下る別所上口分水が途中まで描かれています。




 

歌川広重「目黒新富士」『名所江戸百景』。絵の左が目黒新富士で、その麓を流れるのが三田用水(左から右へ)。遠くに品川沖の海が広がり、その奥に本物の富士山が見える。「江戸東京博物館デジタルアーカイブス」より。


もう一つ、この辺りの土地の様子を細かく描いた錦絵があります。歌川広重の『名所江戸百景・目黒新富士』です。絵のモチーフは左側に配置された大きな目黒新富士で、それを満開の桜と三田用水の流れが際立たせています。三田用水は絵の左下から右中程に向かって流れており、川の右下には目黒川に面した崖線の一部が見えます。三田用水が幾重にも曲がっているのは絵師の創作でしょう。絵の左下には、お花見に集まった人々と縁台が描かれています。眼下に広がる目黒村の田んぼや目黒川の流れ、そして品川沖の海や富士の眺めは絶景だったのでしょう。道城口分水は新富士の反対側に位置していたので、その姿が拝めなくてちょっと残念です。この場所には「3. 三田用水が流れていた目黒新富士の麓」で訪れますので楽しみに。

 

. 工業用水としての道城口分水

ここで、幕末からの道城口分水の歴史と周りの地形について触れます。嘉永6年(1853)にアメリカ海軍のペリー提督が浦賀沖に来航しました。農民が管理する道城口分水が始まって約130年後のことです。危機感を持った幕府は、千駄ヶ谷にあった焔硝蔵を安政4年(1857)に目黒村に移して、火薬の保管と共に水車による火薬製造を始めました。目黒村が選ばれた理由は、多くの人が住む市中から離れていたことと、火薬を作る水車の動力となる三田用水が通っていたからです。地元の農民は分水を田畑の灌漑に使ってきましたから、幕府の命にさぞ困ったことでしょう。人が亡くなるような爆発事故も起きました。


 

図は明治初めの海軍火薬製造所の全景と三田用水、そして道城口分水の流れ。「文明開化期」『東京時層地図』より。分水口は目黒新富士の麓から下流の構内に移されている。工場内の赤い〇が移された分水口。空色の△が目黒新富士。印は筆者。



明治新政府もこの地を幕府から引き継いで火薬製造に力を入れました。上図は『東京時層地図』(明治13-19年測図)にある海軍火薬製造所です。道城口は、江戸後期には目黒新富士のすぐ南側に設けられていました。小坂克信氏の論文「近代化を支えた多摩川の水」によると、明治10年頃(1877)の道城口は、火薬庫の敷地と北側の隣家(津田達蔵私有地)の間にあり、水路もそこから表門に通じていたとあります(注5)。この地図で見ると、海軍火薬製造所の北側の「畑」とある土地を横切っていたのでしょう。しかし、同年に水路と土橋を道路にするために道城口を火薬庫の工場内(下流)に移しました。この地図はその直後に作られていますので、分水口が移された後の姿を描いたものです。目測ですが、下流(南)に約300メートル動いたようです。

 

ところで、この地図によると火薬製造所は海抜30メートルの高台にありました。当時の微地形は分かりませんが、おそらく丘や谷などの豊かな起伏があったのでしょう。道城口分水が構内の通路に沿って斜めに流れていますが、川の傾斜はどのぐらいだったのでしょうか。そもそもこの流れは人工の水路でしょうか、それとも自然の小川や谷を使ったのでしょうか。疑問が次々と湧いてきます。いずれにしても、構内を流れる開渠の道城口分水を描いた地図はこれ以外にありません。なお、製造所の右上に描かれた何本かの茶色い等高線は、この土地の地形を考える大きな手掛かりになるため、4.で再び取り上げます。

 

明治11年に海軍の火薬製造所の建設が始まりました。目黒区のホームページによると、明治13年に完成した工場は「東西1町16間、南北4町10間」、メートルで東西138メートル、南北455メートル、面積62790平方メートル(約19000坪)と巨大なものでした。明治18年に操業を開始し、やがて動力は蒸気機関となり、明治末には電気に切り替わりました。分水の用途は、火薬製造に使う水車から、ボイラー、冷却水、消防水、雑用水などに変わりました。明治26年に所管が陸軍になり、軍用火薬や鉱山用火薬の製造を行いました。明治31年の「東京砲兵工廠目黒火薬製造所敷地図」を見ると(注6、工場の敷地はさらに大きくなり、分水網は水道のように構内に配管されました。



明治末期の火薬製造所の構内。構内に多くの建物と土塁がある。三田用水は地図の左上から右下に横切っている。道城口分水の姿はない。「明治のおわり」『東京時層地図』より。構内の赤い〇が分水口、空色の△が目黒新富士(筆者)。

 


上図は『東京時層地図』の「明治のおわり」(明治39-42年測図)の火薬製造所です。敷地は東と南に延び、最盛期は今の恵比寿南3丁目から中目黒2丁目を経て新茶屋坂通り南の三田3丁目まで広がっていました。構内の土地の凹凸はならされ、たくさんの建物が並び、敷地の真ん中を開渠の三田用水が左上から右下に横切っています。火薬の爆発事故に備えて、土塁や堤が建物の周りを物々しく囲んでいます。赤い丸印は明治22年当時の道城口の場所で、前掲小坂氏の論文を参考にさせていただきました(注7。開渠の道城口分水の姿はもはやありませんから、埋樋や鉄管に変わったのでしょう。 

 

陸軍の火薬製造所は大正12年に廃止され、代わって昭和5年には海軍技術研究所が入り、艦船等の開発を手掛けました。敷地は数メートルも削られて海抜25メートル前後の平らな土地になり、その上に艦船の実験に使う長さ247メートルの巨大な水槽棟が建てられました。この土地の微地形は完全に消滅したのです。「昭和戦前期」(昭和7年)の地図を見ると、構内には三田用水の姿もありません。里美晴和「艦艇装備研究所今昔()」によると、昭和4年に三田用水の水路が暗渠化され、全て地下に埋設されたためです(8)。この貯水槽ですが、戦後に防衛装備庁の艦艇装備研究所が引き継いで今に至っています。NHKの「ブラタモリ」によると、大水槽の4割は今でも昔の三田用水(これは道城口分水でしょう)の水だそうで(9、信じられないような話ですが本当です。

 

時は移りますが、昭和50年に防衛庁技術研究本部が三田用水を東京都水道に切り替え、道城口分水の歴史は終わりました。享保4年(1719)の幕府の「御用水」から256年の間、地元の農業や工業の発展に役立ったことになります。この道城口分水の終了を以って、三田用水本流の歴史も幕を閉じました。三田用水が始まって251年、その前身である「三田上水」の開削から数えて311年目のことです。

 

. 三田用水が流れていた目黒新富士の麓


道城口分水の流れと散歩のルート。まずJR恵比寿駅西口から別所坂上の「テラス恵比寿の丘」(目黒新富士)を経て別所坂児童遊園まで。次に、道城口分水が流れ下った旧正門まで。そこから分水の流れに沿って恵比寿駅まで。図の緑色の線で囲んだ土地は明治31年当時の目黒火薬製造所の敷地。

 


さて、いよいよ現地の訪問です。私たちは江戸末期の道城口分水のルートを探るため、古地図や資料を携えて別所坂の上(目黒区中目黒1-1)に向かいました。三田用水はここを流れていたからです。先ずJR恵比寿駅西口を西側に出て、駒沢通り(416)の南側を通る商店街の道を歩き、「恵比寿南2丁目」の信号に来ました。ここで注意してほしいのは、駒沢通りの隣りの「恵比寿銀座通り」は戦後にできた新道で、その一本南側の裏道が道城口分水の水路とほぼ重なっていることです。この流れについては5.でも説明します。

 

「恵比寿南2丁目」の信号を渡り、次の「恵比寿南3丁目」の信号を越えると、道は上り坂になりました。左に緩やかに弧を描いています。都心に弧を描いた道がある時はたいていが江戸や明治からある古道です。坂の途中の右側に馬頭観音が祀られていて、案内板にはこの道が麻布経由で江戸市中に入る最短の道であったと記されていました。やっぱりです!今は住宅街の静かな坂道ですが、江戸時代は、この先にある目黒新富士に参拝する人々で賑わったことでしょう。坂の上か下にお茶屋などがあったかもしれません。

 

信号から300メートルほど歩いて坂を登り切った右側に、T字型をした秀和恵比寿レジデンスがありました。すぐ先が急傾斜で有名な別所坂です。先ほどの信号と坂の上では約12メートルの高度差があり、途中から少し息が切れました。三田用水は、秀和レジデンスの西側の駐車場の敷地を北西から南東に向かって流れていました。北の青葉台、代官山から南の目黒へと続く険しい崖線の上に沿ったルートです。

 



手前は別所坂の上。急傾斜のため階段になっている。左側の建物が「テラス恵比寿の丘」で、ここに「目黒新富士」があった。建物の脇を南(写真の奥)に向かう通路が三田用水のルート。その先で別所坂児童遊園に繋がっている。


道路を挟んで秀和レジデンスの左手(南側)には「テラス恵比寿の丘」というマンションがありました。目黒新富士があった近藤重蔵の屋敷跡です。『東京時層地図』の「明治のおわり」を見ると、三田用水は代官山がある北西から東南に流れてきて、別所坂の上で向きを南に変え、今の「テラス恵比寿の丘」の西側を約100メートル進んで、別所坂児童遊園の土地に入っていました。そして、遊園の端で向きを再び東南に戻し、その後は防衛装備庁(旧海軍技術研究所)の北側の「空地」を横切っていました。三田用水の水路の海抜ですが、秀和レジデンスの西側、「テラス恵比寿の丘」の西側、児童遊園の東端、防衛省北側の「空地」はどれも30メートル前後で、三田用水が高台の尾根を流れていたことが分かります。


「テラス恵比寿の丘」の西側にある通路。奥は別所坂児童遊園。三田用水はここを南に流れ、児童遊園の敷地を越えて防衛装備庁の北側の「空地」に入った。


私たちは「テラス恵比寿の丘」の西側を通る通路に入りました。フェンスの扉から児童遊園の入口までが約60メートルで、ややS字型に蛇行しており、西側は崖になっていました。三田用水は、この通路の土地を南に向かって流れていました。崖の向うは建物に遮られて何も見えませんが、広重が描いた「目黒新富士」の現場を歩いていると思うと心が躍りました。児童遊園の入口まで来ると、周りの視界が一気に開け、大橋の高層ビルが目の前に現れました。快晴の朝ならば南西の方に富士山が見えることでしょう。

 

遊園は高台の一角と西側の崖を使って作られており、途中から階段になっていて、降りた所で別所坂からの道と繋がっていました。遊園が海抜約30メートル、下の道が約10メートルで、階段は細くて急で長く、降りるのが怖かったです。児童遊園の高台には「目黒新富士」の記念碑があり、説明板に富士塚が昭和34年に取り壊されたと記されていました。ここで富士塚の写真を皆様にお見せしたいのですが、不思議なことに見つかりません。入手したらこの稿に追加します。

 

私たちは、何とか下の道に降りた後、S字型の別所坂を登って坂上の「テラス恵比寿の丘」に戻ることにしました。コンクリートの登山道のような細い坂道でした。そろそろ別所坂の階段だ、と思っていたとき、なんと上から大きなトラックがバックして下りて来ました。私たちはビックリして傍の塀にへばり付きました。トラックは何回も切り返しをしながら下り坂の角を回って下りていきましたが、こちらは命からがらでした。



4. 道城口分水と渋谷川支流はどこを流れていたか?

いよいよここから「本の丸」です。三田用水の道城口分水はどこから流れ出し、どこで渋谷川支流と合流していたのでしょうか。また、分水の受け皿となった渋谷川支流はどこから流れて来たのでしょうか。分水の流れの手掛かりは、前に紹介した弘化3年の『御府内場末往還其外沿革圖書』と小坂氏の論文の「道城口」に関する記述にありました。それらを総合すると、道城口分水は目黒新富士の南側の土地で三田用水から分かれて、東の旧正門の近くへと流れ下っていました。弘化3年の図は分水が途中で切れていますが、その先で低地部を流れて渋谷川に向かっていたことは、前の昭和10年の『渋谷区地籍図』に残っています。



 「テラス恵比寿の丘」の隣りにある「全国小売酒販会館」の南側フェンスから防衛装備庁の北側の「空地」を眺める。左手端に防衛装備庁の建物が見えるが、この「空地」の奥(西側)を三田用水が右から左に流れ、その中程辺りに道城口分水の分水口があったようだ。分水はこの「空地」を東の端の旧正門に向かって流れ下っていた。


私たちは「テラス恵比寿の丘」の東隣りにある「全国小売酒販会館」の駐車場に入らせていただき、南のフェンスから目の前に広がる「空地」を眺めました。正面(南)の奥に防衛装備庁の建物が見えましたが、明治の初めまではあの辺りに大きな高台があったと思うと、感慨がありました。やや西の遠くには目黒清掃工場の白い煙突も見えました。「空地」を下った東の方にはこんもりした緑の林がありました。その先に昔の旧正門があります(後で現地に行きます)。「空地」は矩形で23段に分かれているようで、いちばん西側は児童遊園と同じ高さにあり、そこを三田用水が流れていました(写真の右から左へ)。その中程に道城口分水口があり、「空地」を横切って東に下っていたようです。

 

「空地」の高度を調べると、西側の土地が海抜約3031メートルと高く、次の段で2728メートルに下がり、旧正門が20メートルで、門に近づくにつれて大きく下がっていました。分水口から門までは約250メートルです。この土地が改造される前の微地形は分かりませんが、現在の高度とあまり変わらなかったとすると、初めは緩やかに流れ、次第に勢いを増して、最後はどっと渋谷川支流に流れ込んでいたのでしょう。

 

なお、弘化3年の古地図では、道城口分水の先に別所上口分水が描かれています。分水口の場所は「空地」の左(南)の端と思われます。目黒川までのルートですが、目黒に火薬製造所ができる前は、分水口からそのまま崖下に流れ落ち、田んぼで分流されて目黒川に注いでいたようです。崖下の田んぼに滝のように落ちる歌川國長の「鑓崎富士山眺望之図」が残っています10。この分水はやがて田道口に統合され、火薬製造所の要請で付け替え等が再三行われたため、水利を巡って農民との間で争いが起きました。地図の別所上口分水は「東京時層地図」の「明治13年-19年測図」を参考にして書きました。




 

海軍技術研究所(現防衛装備庁艦艇装備研究所)の旧正門。現正門の隣りにある。道城口分水は海軍技術研究所の小高い敷地から流れ出て、北の低地に向かっていた。周囲の地形を見ると、門の辺りが谷間の出口のように感じられる


ところで、分水口の受け皿になった渋谷川支流はどこから流れてきて、どこで道城口分水と合流していたのでしょうか。そのヒントを得るために、「空地」の東の端にある防衛装備庁の旧正門まで先回りして行くことにしました。別所坂の上から馬頭観音を祀った坂を再び降りて「恵比寿南3丁目」の信号に出て、ここを右(南)に折れて約150メートル歩くと、旧正門に着きました。今の正門の少し手前(北隣り)で、道路より1メートルぐらい高い所です。フェンス越しに敷地の中を覗くと、メルヘンのようなこんもりした緑の林と二本の小道がありました。先ほど「空地」の下に見えた林です。

 

さて、旧正門の前で地形の観察です。道路まで降りて北を向いて立つと、足下の土地が窪んでおり、また辺りの土地が南(防衛装備庁の高台)から北(恵比寿駅)に向かって下がっていました。そのまま恵比寿駅の方まで低地が続いています。西側は高い崖が延び、東側は土地が緩やかに高くなっていて、北に向かって谷間が開いている感じがしました。旧正門の前はちょうど谷間の出口のようです。

 

これを裏付けるデータが、前出2.の「明治13-19年測図」にありました。茶色で描かれた高度差5メートルの等高線です。旧正門の辺りから当時の火薬製造所に至る200メートル前後の間に、指先の形をした4本の等高線が、重なるように火薬製造所の高台に迫っていました。線の間隔は隣りの猿楽口分水ほど狭くはありませんが、谷間が南の高台から北の低地に向かって開いており、そのちょうど中程を小川が流れていました。かつて渋谷川の支流がここを流れていて、それが江戸中期に道城口分水の受け皿となり、明治になって火薬製造所の土地改造で姿を消したと考えられそうです。

 


防衛装備庁の大水槽棟の下の地層ボーリングデータ(1961年)。4メートルの関東ローム層の下に4層になった9メートルの軟弱な粘土層がある。東京都建設局「東京の地盤(GIS版)」より。


実は、この土地の微地形が分からなくても地層の特徴が分かれば、渋谷川支流の手掛かりは得られると考えていました。しかし、防衛装備庁の高台を掘ったボーリングデータを探したところ、僅か1件しかありませんでした。標高23メートルにある大貯水槽棟の地下なのですが、4メートルの関東ローム層の下に、軟弱なN値(強度)10以下の粘土層が4層・9メートルも積もっていました。淀橋台の高台ならば、ふつうは関東ローム層の下に渋谷粘土層、上部東京層、東京礫層が並んでいるはずですが、このサンプルは関東ローム層の下に水を通さない粘土層だけが数万年分も積もっていました。この土地の地下にどのような異変があったのでしょうか。

 

湧水は深い東京礫層から地上に噴き出すことはよくありますが、粘土層からはなさそうです。しかし、地下水が粘土層の上を伝わり、崖や斜面から湧き出てくることはよくあります。この高台の地下一帯が大水槽の下のように粘土層で覆われているならば、ここから生まれた湧水が小川に育って、渋谷川支流になったとしても不思議ではありません。サンプルがもう少しあれば地下の様子がはっきりするのですが。



5. 渋谷川本流までの道城口分水の水路



道城口分水の全体図と散歩のルート。分水は「空地」を東に流れ下りた後、防衛装備庁の脇にある旧正門近くを北に流れてJR恵比寿駅西口に向かった。その後は駅の東側に出て、河岸低地を東に流れ、新橋の手前で渋谷川に注いでいた。大正時代になると分水ルートが短縮し、渋谷橋の東(恵比寿東公園の脇)で渋谷川に落ちていた。


ここからは、防衛装備庁の脇にある旧正門前から道城口分水の流れを歩きます。この分水の歴史を眺めると、古くは目黒新富士の南側に分水口がありましたが、2.で見たように明治の初めに火薬製造所の敷地内に移り、その後も何回か場所が変わったようです。いずれにしても、旧正門の辺りから渋谷川本流までの流れはいつの時代もだいたい同じでした。

 

『渋谷区文化財マップ』によると、分水は旧正門前の道路の東側にある裏道に入り、そのままカルピス恵比寿ビルの敷地内を北に通り抜け、さらにマンションや商業ビルが建つエリアを横切って「恵比寿南2丁目」の信号に出ていました。明治44年の『郵便地図』や昭和10年の『地籍図』も、ほぼ同じルートを辿っています。以前にカルピスの方が、正門から公道を北に流れた後にカルピスの敷地に入っていたと証言されていましたが、これは昭和の話で、時代によって流れが変わったことも考えられます。

 

私たちは、『渋谷区文化財マップ』のルートに沿って旧正門前の東側にある細い裏道に入り、北に進みました。この道は周りの土地より低い所を通っていました。数十メートル歩くとカルピスの敷地の塀に行き当たりました。分水はそのまま通り抜けていきましたが、私たちはここから左に右にと何回か曲がりながら「恵比寿南2丁目」の信号まで辿り着きました。分水はこの信号の辺りを駅の方に曲がり、賑やかな「恵比寿銀座通り」ではなく、その南の裏道に向かいました。裏道は銀座通りより数十センチ下がっており、分水名となった道城池がこの少し先にあったことも頷けます。

 

『渋谷の水車業史』によると(注11、恵比寿南2の信号の辺りに明治12年創業の糠屋(ぬかや)水車がありました。米搗きの水車で、「三田用水の水は昼間は火薬庫で使うため、水車は専ら夜間のみ動く時代が続いたので、「ぬかやの夜回り」とか「おいらん水車」とか呼ばれ」とありました。火薬製造所ができて昼間の給水が途絶えた訳ですから、水車業者だけではなく、農民も夜に働く機会が増えて大変だったでしょう。明治以降は道城口分水に3台の米搗き水車があり、当時の農民や水車業者が限られた水を最大限に使っていた様子が偲ばれます。

 

裏道を抜けると、目の前が恵比寿アトレのビルで、すぐ左にJR恵比寿駅西口がありました。分水はアトレビルを通り抜けて駅の東側に出ていました。私たちはアトレビルの前を通り、角のレストラン・シェイクシャックの前で散歩を終了しました。寄り道をあちこちでしましたので、全長は2キロメートルを越えました。

 

恵比寿駅から渋谷川本流までの区間は、本ホームページなどで紹介していますので、ざっとご説明します(注12。道城口分水は、駅前の道を線路に沿って約150メートル南に流れた後、セブンイレブン恵比寿駅前店の角を左(東)に曲がり、さらにバス通り(305号)を越え、恵比寿スバルビルやウノサワ東急ビルなどが並ぶビジネス街に入りました。明治のおわりまでは民家も少ない農村でしたが。分水はこの道に沿って東に向かい、「恵比寿橋南」の信号のすぐ先で左側の細い裏道に入りました。そして、道なりに左に折れて渋谷区新橋出張所の脇を通り抜け、今のあいおい損保別館(渋谷区恵比寿1丁目29)の地下で渋谷川に注いでいました。恵比寿駅西口の改札口から約800メートルです。

 

大正時代になると恵比寿の町に田畑がなくなり、分水がいらなくなりました。このため、分水は恵比寿駅の東側に出ると最短距離でそのまま北に進み、渋谷橋の袂の近くで渋谷川に注ぎました。昭和30年代にはこの水路も暗渠化されました。恵比寿東公園の西側には渋谷川に向かう細く短いコンクリートの通路がありますが、これが道城口分水の流末です。

 

おわりに 近世・近代・現代を語る道城口分水

道城口分水は三田用水が渋谷川支流に流し込んだ6つの分水の1つに過ぎませんが、その歴史を遡ると三田用水が生まれる前の「三田上水」の時代に始まり、最後は三田用水の終わりも告げた記念すべき分水でした。その役割を振り返ると、「三田上水」の時代は幕府の「御用水」、三田用水に変わってからは農民の「農業用水」、幕末から明治・大正期は火薬製造所の「工業用水」、昭和に入ると海軍技術研究所の「実験用水」として使われ、戦後も防衛装備庁がこの事業を引き継いで、昭和50年に水道に切り替えるまで続きました。道城口分水は、江戸・東京の「近世・近代・現代」を映し出す鏡のような存在でした。

 

かつて道城口があった「空地」には、明治中頃から最近まで様々な政府施設がありました。私たちは、それらがすべて撤去されて更地になった時代にこの地を訪れました。広い「空地」の草っ原を目の前にして、昔の三田用水や道城口分水の水路のこと、姿を消した渋谷川支流のことなどをあれこれと考えて楽しみました。「空地」に建物が並んで視野を遮っていたら、こんなにイメージは膨らまなかったでしょう。ここが「空地」であったことはとても幸運でした。皆さんもぜひ今のうちに出かけてみて下さい。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

(注1東京都水道局『上水記』、昭和40年。

(注2渋谷区教育委員会『渋谷の湧水池』、平成8年、14頁。

(注3前掲『渋谷の湧水池』、21頁。

(注4『御府内場末往還其外沿革圖書[3]拾六中』「94当時の形(弘化3年・1846)」部分。国会図書館所蔵。

(注5小坂克信「近代化を支えた多摩川の水」、2012年、85頁。「1887年(明治10年)8月(中略)水路と土橋を道路にすることから道城口を移設した。当時、道城口は火薬庫と津田達蔵私有地(新富士の南側の敷地…筆者)の間にあり、水路もそこから表門に通じていた。これを廃止し、三田用水の下流に新分水口を設け、在来の水路を利用して表門まで東側から北上させた」とあり、「道城口の移転」の図が添付されています。

(注6防衛研究所ホームページ。防衛研究所戦史研究センター室所蔵「東京砲兵工廠目黒火薬製造所敷地図」。明治31年作成。他の地図と比べるため、原図を180度回転させて北の方位を上にしました。赤い〇が分水口、空色の△が目黒新富士(いずれも筆者)。


 

(注7前掲、小坂克信『近代化を支えた多摩川の水』81頁の図。「1889(明治22年)頃の目黒火薬製造所(アジア歴史文化センター)」より推定。

(注8里美晴和「艦艇装備研究所今昔()(下)Meguro Model Basinから90年」『日本船舶海洋工学会誌』第98号、令和3年。

(注9NHKブラタモリ「#57 東京・目黒」、2016.12.17放映。

     

防衛装備庁艦艇装備研究所の全景

  NHKブラタモリで紹介された実験用貯水池

左は防衛装備庁艦艇装備研究所の全景。細長い緑の屋根の建物が実験用貯水池(2016年筆者撮影)。右はNHKブラタモリで紹介された実験用貯水池。長さ247m、幅12.5m、深さ7m、収容1.8万トン。三田用水の水が残っている理由は、実験条件を一定に保つため、藻や汚れが発生しないように日光を遮断し、水をなるべく入れ替えずにきたためとの説明です。

(注10歌川國長「鑓崎富士山眺望之図」。東京大学史料編纂所所蔵(重要文化財)。詳しくは本ホームページの『ビッグローブ版/三田用水の物語』のTUC講演録「三田上水と三田用水」-渋谷、目黒、白金の丘を流れた川-2017.4.1.を参照。

(注11渋谷区立白根郷土記念文化館『渋谷の水車業史』、昭和61年、97-98頁。

(注12本ホームページ『「渋谷川中流」を稲荷橋から天現寺橋まで歩く(中)―渋谷川と三田用水で水車が回る―』の2.4「渋谷橋と道城口(火薬庫口)の流れⅣ」、2021816日。拙著『あるく渋谷川入門』、中央公論事業出版、2010年、115120頁。

(終)

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