『彼女の気持ち』  前編










  ある日、だった。
  オレはリナに、『好きだ』と言い。
  リナはオレに、『あたしもよ』と答え。

  世界は間違いなく、バラ色に染まった。



  が。
  そんな、野の花を見ても涙を流せそうに素晴らしかった時間は、すぐに終わりを告げる。






  はにかみながらオレを見上げるリナ。
  そんなリナが凄く可愛らしく見えて、もっともっと近くで見たくて。
  自分でも気付かない内に、リナの頬に手を添え。
  オレを映す真っ赤な瞳を覗き込むようにして、膝を屈め。
  その吐息を吸い取ろうと、唇を――
  そこは、人気がないとはいえ、街道のど真ん中だったけど。
  オレにはもう、周りなんて見えていなかった。


  リナが反応を示したのは、オレがリナから離れて、彼女の呆然としている顔を眺めて、流石におか
 しいと思って目の前でぴらぴらと手を振りながら、五回ほどリナの名前を呼んだ後だった。


 「……………………あんた。今、何した?」
 「何って、お前……」
  分からなかったのか?
  口に出すのが妙に照れ臭くて、オレは誤魔化すように頬を掻いた。
 「……キス、だろ?」
 「…………………………………………」
  また、さっきと同じだけの沈黙。
 「……リナ?」
  ぽか。
 「へ?」
  ぽかぽかぽかぽかぼかぼか。
 「いてっ、いててててっ! 痛いってリナ!」
  いきなりオレを殴りつけ始めたリナに、オレは慌てた。やっと腕を押さえ込むと、今度は。
 「――――め」
 「へ?」

 「爆烈陣〜〜〜〜っ!」

 「うわあああああああっ!?」
  呪文によって見事に吹っ飛ばされながら、オレは。
 「あんたなんてやっぱ保護者のまんまでいいっ! もう、あたしに2メートル以上近付くな〜っ!」
  手足を突っ張って、声の限りに叫んでいるリナの姿を見た。







  ――女の子って奴は、よく分からん。
  オレを好きだと言った、可愛らしい彼女の唇。それが、今度はオレを嫌いだと言う。
  冗談だろう? と、初めは思っていたのだが。
  どうやら、リナにとっては冗談などではなかったらしい。

  彼女の髪を撫でようとする手は、悉く避けられ。
  馬車を避けさせようと腕を引こうとするだけで、びくりと肩を竦められ。
  手の届く範囲にちょっとでも踏み入ろうものなら、ぎろりと険悪な視線を向けられる始末。
  リナの下した『接近禁止令』は、確実にオレを彼女から遠ざけていた。

  互いに無言で街道を進みながら、オレは首を傾げる。リナとの間に漂う気不味〜〜い雰囲気は、未
 だに消えないままだ。
  何がいけなかったんだろう?
  オレ、リナを怒らせるようなこと、したっけか?
  ちょっと前まで、未だかつてないくらいにイイ感じだったんだぞ。オレなんか一瞬、『今夜』のこ
 とまで期待しちまったくらいに、だぞ?
  ふと思い出して、唇をなぞってみる。
  触れていた時間は短かったけど、その柔らかさを堪能できるだけの間は十分にあった。
  小さくて、温かくて、そして少しだけ震えていたリナの唇。あんまり気持ちよくて、我を忘れそう
 になった。
  もう一度味わいたくて、今もうずうずしてるくらいなのに。
  二度と触るな、だって? ――そりゃ酷ってもんだろう。
  さて、どうするか――
 「――リイ――ガウリイ!」
  珍しく思考に沈んでいた頭は、聞き慣れた声であっけなく引き戻される。
  ハッとして顔を上げると、少し離れた場所で、リナが腕組みしてオレを睨み付けていた。
 「宿、見つかったから。行くわよ」
 「おっ、おう」
  一言言ってマントを翻してしまうリナを、オレは慌てて追いかけた。





 「生憎だが、一人部屋はもう満室で……二人部屋なら用意できるが、どうするね?」
  悪びれもせず言う宿の親父に、オレはひきつった笑いしか返せなかった。
  ――確かに、さっきはそんな想像もしたよ。『今夜はリナと〜♪』なぁんてさ。
  けどな。今の状態でリナと同じ部屋に泊まっても、ちっっっとも嬉しくないぞ!?
  ちらりとリナの方を見ると、リナも硬い表情をしていた。
 「どうにもならないの?」
 「こればっかりはねえ」
 「この町に、他の宿は?」
 「ないんだよ。ウチ一軒きりさ」
 「…………」
  黙ってしまったリナを見て、親父が畳みかける。
 「困ったねえ、相部屋はそんなに嫌かい? だが、次の街にゃ半日歩かなきゃ着かないよ?
  野宿するよりは、ここで泊まって行った方がいいと思うが?」
 「……OK。泊まるわ」
  頷いたリナは、どこかあらぬ場所を睨み付けているように見えた。





  それからオレ達は、らしくなく静かな夕食を終え、部屋に向かった。
  オレも暫くは、部屋で落ち着かない時間を過ごしていたのだが。
  眉間に皺を寄せたまま黙りこくっているリナに、流石に居たたまれなくなって、風呂を言い訳に部
 屋を出てきてしまった。
  湯船に浸かりながら、これからのことを考える。
  取り敢えず、リナの機嫌をどうにかしないとな。それにはまず、リナが怒っている原因を突き止め
 ないと。
  やっぱ、アレだろうな。キスしたこと。あれがリナを怒らせちまったんだろう。
  でも、どうして怒ったんだろう? それが分からない。
  オレは、好きな相手となら、キスしたいと思うけど。リナは違うんだろうか?
  もしかして、リナの言った『好き』は、オレが言った意味とは違ったのかな? だから、オレにキ
 スされるのが嫌だったとか。そう言えば、『保護者のままでいい』とも言っていたような――
  ――いかん、くらくらする。のぼせたかな?
  頭に浮かぶ嫌な想像を振り払うように、オレは勢いよく風呂から上がった。





  部屋に戻ると、リナはベッドの上で膝を抱えていた。
  オレが部屋を出た時のままの格好でいるから、ずっとそうしていたのかと思ったが、よくよく見る
 と違うらしい。夜着に着替えているし、髪もしっとりと湿っている。リナも、風呂から帰ってきたば
 かりなのだろう。彼女の背にある窓から風が入って、濡れた髪を揺らしていた。
  ――さて、どう声を掛けたもんか。
 「……リナ?」
  取り敢えず、無難な話題を選ぶ。
 「窓、開けっ放しにしてると、身体が冷えるぞ? 湯冷めしちまうだろ」
  そろそろと声を掛けてみるが、リナはまるきり無反応。可愛らしい顔を目一杯渋くして、自分の膝
 に顔を埋めている。
 「リ〜ナ? リナってば」
  オレははあ、と溜息をついた。ここまで徹底されると、流石に悲しくなってくる。
  けど、このまま放っといたら風邪引いちまうかもしれないし――仕方ないな。
  オレは決心して、リナの方へと歩みを進めた。リナが座るベッドまで行くと、シーツの上に片膝を
 着く。ぎしりとベッドが軋んだ途端、リナがハッと顔を上げたのが分かった。それに構わず、彼女の
 後ろの窓に手を伸ばそうとしたら。
  びくん、と細い肩が震えた。
  ――え?
 「リナ?」
  強烈に嫌な感じがして、オレは伸ばしかけていた手を止める。いつものように、彼女の柔らかな髪
 に触れようとすると、
 「ぃや……っ!」
  ぱしん、と軽い音がして。
  手を弾かれたのだと分かったのは、それから一瞬間を置いた後だった。
  怯えた瞳と、ガチガチに固まった身体。あまりにハッキリとした拒絶に、オレは愕然とする。
  ――冗談だろ?
  リナが。
  あの、誰に対しても不遜で、いかなる時も自信満々だった、リナが。
  あろうことか、オレを怖がっているなんて。
 「……り、リナ……」
  どうしよう。どうすればいい?
  何だかよく分からんが、こんなのは嫌だ。こんな風に、リナから怯えた目を向けられるのは、嫌だ。
  オレはどうにかしてリナに笑ってもらおうと、無い知恵を絞る。
 「あ、あのな? リナ」
  原因は、たった一度のキス。
  あれが怖いものでも何でもないってこと、リナにちゃんと分かってもらわなけりゃ。
 「昼間のこと、だけど。あんまり気にするなよ」
  ぴくん、とリナが反応した。
  ちゃんと聞いてくれてるらしい。安堵して、オレは矢継ぎ早に続けた。
 「あんなの、そんなに特別なことじゃないんだ。本当に、大したことじゃない」
 「……大したことじゃ、ない……?」
 「そうだよ。
  だってほら、ちょっと唇が触っただけだろ? 腕とか手とかが触ったのと同じさ。だから、そんな
 風に怖がるようなことじゃ――」

  ばんっ!

  突然響いた大きな音に、オレは目を見張った。
  リナだ。リナが、小さな拳を壁に叩きつけて。
  それまでの無表情を一変させた、激しい怒りをその顔に滲ませている。
  燃えるような感情を表したリナの瞳は、凄絶な美しさを見せていた――オレが、息を飲んで見惚れ
 るほどに。
 「リナ……?」
 「……あんたはっ……!」
  掠れた声。リナの心、そのままのような。
 「あんたは、何も分かってない……!」
 「リナ――」
 「クラゲだクラゲだと思ってたけど、まさかここまでとは思わなかったわ」
  ばさりと前髪を掻き上げて、忌々しげに吐き捨てる。
  彼女の科白に深い諦めを感じて、ぞくりと背筋に寒気が走った。
  どうやらオレは、リナとの距離を縮めるどころか、更に遠ざけてしまったらしい。
 「あ……リナ? オレはただ――」

 「影縛り!」

  踏み出そうとした足は、何かに阻まれて止まった。リナが、何かの術を使ったらしい。
 「悪いけど、暫くあんたの顔、見たくないから。
  ……じゃあね」
  引き寄せたマントを肩に巻き付けると、リナはふわりと窓から身を踊らせた。