物の怪の予想は少々外れた。 晴明が頼まれたのは安産の祈祷ではなく、難産による解除(祓い)だった。 道長は安倍晴明の力が並ならぬものであることを承知しているため、逆にそう頻繁に召し出すことを控えている。ここぞというときには頼るが、特に晴明でなくとも用向きが務まるときには別の者を使う。 今回も、最初は他の陰陽師と庇護している寺から僧侶を数人呼んですませていたのだが、先月の彰子入内に奔走し、気疲れしていたらしい妻の産が予想以上に重かったため、慌てて晴明を呼んだのだった。 昌浩からすれば、祈祷にしろ解除にしろ、夜通しぶっ続けだということに変わりはないので、あまり違いはないが。 (お産のときの陰陽師って、こんなに体力が要るなんて思わなかった………) 明け方、 物の怪がついてきたがらないわけだ。途中で何度か休憩も挟み、夕餉をろくに食べずにやってきた昌浩のために、東三条殿の家人たちが整えてくれた随分豪華な食膳(ただし精進物)もしっかり食べたが、連日の残業で疲れている体には少々きつすぎた。 (じい様、絶対俺のこと交替要員として連れてきたに違いない………ッ) 交替しなければきつい。きつすぎる。 いちばん大変なのは、昌浩が来る前から難産で苦しんでいた北の方だろうから、ただ 休日にあたることはあたるが、 ぐったりしている昌浩を、部屋の隅に端座している天一が苦笑を浮かべて見ていた。 そこに、道長のところに行っていた晴明が戻ってくる。 「なんじゃ、だらしのない」 生まれた赤子の沐浴やら いまにも寝そうな孫の額を軽く弾く。 「これ、寝るでない。年寄りがまだぴんしゃんしておるのに、若い者が情けないのぅ」 「俺は退出してからそのまま、こっちに直行しているようなものなんです!」 昌浩が噛みつくと、晴明はやれやれと言った顔で肩をすくめた。 「なんじゃ、普段は夜通し走りまわっとるくせして情けない―――姫じゃったよ」 「ですから姫が………え、姫?」 昌浩は瞬きして、それからようやく生まれた子どもの性別を告げられていることに気づいた。 姫。ということは、彰子の二人目の妹だ。 名前はすぐに付けられるというものでもないから、いまはまだないだろうが、そのうち命名されるだろう。 晴明は大きくひとつ伸びをした。 「さて、いい加減、わしも眠いし帰るかのう。天一もすまぬな」 天一が穏やかに微笑して首をふる。難産だったが、特に彼女が何かをしたわけではない。そもそも怪我や病とは違うものなので、肩代わりのしようもないのだ。 それから晴明と昌浩は、連れだって道長に辞去の挨拶を伸べに行った。 先導する女房もすれ違う女房も、みな 対面した道長は、娘が無事に生まれたことを晴明と昌浩のおかげと殊の外喜び、様々な そうして、とりあえずはこれを、と見事な袿を晴明に差しだす。 晴明に促され、昌浩が受けとった。こんなに重い袿は初めてで、受けとりながら昌浩は内心とても驚く。 塵も積もれば何とやらで、安物の衣とは比べものならないくらいに大量の糸が使われているに違いない。さすが左大臣からの褒美だ。 昌浩が妙な感心の仕方をしていると、道長は今度は漆塗りの (あれ?) 昌浩が気づいた気配に当然ながら晴明も気づき、穏やかな顔で道長を見つめかえす。 「左大臣様、こちらは?」 だいぶ古いが、護りの気配がある。そう、いま昌浩の目の前に端座している人物がほどこしたと思しき、守護の力が。 道長は、晴明と昌浩の顔を順に見つめ、それから昌浩が手にしている袿に視線を落としてから、おもむろに口を開いた。 「これも、そなたたちへ授けるものである―――」 くたくたになって帰ってきた昌浩は、自室の だから。何で。 待たずに寝ろとは言ったけど。 それから急いで自分も外に出て妻戸を閉める。 「人が寝ているところにいきなり何すんだ、孫っ!」 「孫言うな!」 怒鳴りかけ、慌てて昌浩は口を押さえた。 「………ていうか、何で! 彰子が! 俺の部屋で寝てるんだよっ!」 小声で言いつのりながらも、何だか昌浩は泣きたくなってきた。 そんな昌浩の様子にはかまわず、物の怪は空を眺めて、のほほんと呟く。 「おう、もうこんな時刻か。そろそろ彰子を起こしてやらないとなー」 「もっくん」 「露樹もそろそろ起きだすだろうしなー」 「………もっくん」 目の据わってきた昌浩に、物の怪は長い尾をはたはたと揺らし、楽しそうな顔になった。 「いや、だからいつものことだろ。彰子がお前の帰り待ちくたびれてお前の部屋で寝るのって」 「そういつものことじゃないっ」 「まあ、今回は母親のことも心配だったみたいだからな。さすがに起こすのも可哀想でなあ。お前は明け方近くまで帰ってこないだろうし、そのままにしといて入れ替わりに彰子を起こせば問題はないかと思ったんだ」 一応、風邪ひかないように袿はいっぱいかけてやったぞー。 そう言われて、昌浩はがっくりと肩を落とした。 さすがに帰りがこんな時刻になってしまったため、彰子も寝てしまっているだろうから、報告前に一眠りして………などと思っていたのだが、彰子を起こさないことには自室で眠れそうにない。 寝ている彰子を起こすのは気が引ける。かといって、起こさないままで自分が寝るなど昌浩にできるはずがない。それはもう、できるはずがない。 妻戸にもたれたまま、昌浩はずるずると座りこんだ。 「ううー」 「吉昌の部屋とかで休ませてもらったらどうだ」 「………休むどころかまたお説教されると思う」 「うぅむ」 物の怪が唸ったとき、不意に昌浩が妻戸から飛び退いた。 何事かと思っていると、外開きの妻戸が、昌浩が退いたことによって勢いよく開き、そこから彰子がつんのめるようにして外に出てきた。ちょうど戸を押し開けようとしていたらしい。 たたらを踏んで立ち止まろうとするものの、目の前には当然、退いたとはいっても未だ座りこんだままの昌浩がいたりなんかするわけで。 「きゃあっ」 「うわあっ !?」 おやまあ、と物の怪が目を見張っているうちに、昌浩につまずいた彰子が転び、倒れこんできた彼女を昌浩は受け止めそこね、結果、彰子が昌浩を押し倒すような形で二人して簀子に転がる羽目になった。 彰子の長い髪がざあっと一斉に床に広がる。 「おう、彰子よ。目が覚めたか」 物の怪が呑気にそう言って挨拶したが、彰子はそれどころではない。顔を真っ赤にして昌浩を見た。 「ご、ごめんなさいっ」 「え、あ、うん」 昌浩は疲労も手伝ってか、もはや呆然としている。 「俺はいいから、えっと、うん………ごめん、どいてくれる?」 「う、うん―――」 慌てて起きあがろうとした彰子だが、髪がどうやら昌浩の体の下に巻きこまれてしまったらしく、頭を押さえて悲鳴をあげた。 昌浩がそれにうろたえ、慌てて退こうとしたものだから、ますます彰子の髪が引っ張られてしまう。 さらには、髪に引きずられまいと床についた彰子の手が、起きあがろうとする昌浩の髪やら衣やらを押さえこんでしまったものだから、もはや収集がつかなくなってきた。下手に動けば離れるどころか近づくし、引っ張られる髪は痛いし簀子は寒いし逆に互いは温かいしで、何が何やら―――。 さすがに物の怪が見かねて昌浩と彰子に指示を出し、しばらくの奮闘後、どうにか二人は身を離した。 二人が息を切らして簀子に座りこんでいる様に、ちょうどやってきた露樹が呆気にとられて立ち止まる。 「二人とも、この寒いなか簀子に座ったりして何をしているのです」 「あ、いや。その」 慌てる昌浩と、顔を真っ赤にする彰子を見て、何を思ったのかは知らないが、露樹はそれ以上は追求せずに別のことを言った。 「昌浩は朝餉はどうします。お義父様はいらないと仰って、そのままお休みになったのですけど………」 「あ、じゃあ、いただきます」 何やら心臓はばくばく鼓動を打っていて、いますぐには眠れそうにもない。 昌浩は立ちあがり、彰子に手を貸して彼女も立たせた。 「着替えてから行きます」 「では用意しておきますね。彰子さんも昌浩と一緒においでなさい」 微笑して露樹は戻っていった。 彰子はいっそ彼女についていきたかったのだが、言われてしまってはそうもいかない。 「あ………え、えっと、とりあえず俺、着替えるから」 「あ、うん。その、勝手に寝ちゃってごめんね」 物の怪は、おー初々しいねぇなどと思いながら、黙って見ている。 ぎくしゃくしていた昌浩は、ふと思いだしたように彰子をふり返って微笑した。 「そうだ。あのね、姫だっだよ」 きょとんと瞬いた彰子は、次の瞬間にはふわりと笑っていた。 不覚にも昌浩はその笑顔に目を奪われてしまい、しばらく呆けてしまう。 「そ、そうだ。あとで渡すものがあるんだ。それじゃ、俺着替えてくるから」 妻戸が慌ただしく閉められ、取り残された彰子と物の怪は、何となく所在なげに妻戸を眺める。 「いもうと………」 二人目の妹だ。 小姫もそうなるとお姉さんになる。もう小姫とは呼べない。 生まれてきた命は、安倍邸にいる彰子の存在など知らない。姉として接するのは最初から、章子だ。 入内した姉に会う機会はそうはないかもしれない。でも。 「どうか、姉妹として………」 結びあえればいいと、願う。 身勝手な願いだろうか。おのれが歩むはずだった星宿の先で、どうか心安らげるものを見つけだしてほしいと思うのは。 彰子はそっと目を伏せた。 長保元年 藤原道長三女、生。 後の藤原威子である―――。 朝餉を食べ終え、さすがに眠そうな顔をした昌浩が自室で彰子に差し出したのは、 さすがに誰からかわかり、彰子が絶句していると、昌浩は手筥を彼女のほうに押しだした。 「左大臣様から、じい様に預かってほしいって言われたんだ」 「―――預かってほしい?」 それも晴明に? 父がわざわざ晴明に預かってほしいと託したものを、どうして昌浩が自分に差し出すのかがわからず、怪訝な顔をした彰子に昌浩は筥を開けるよう促した。 「本当はもっと普通のただの漆塗りの筥に入ってたんだけど、筥は使うからって中味だけ預かってきたんだ。蒔絵の筥にしたのは、きっと彰子がいるから気を遣ってくれたんだと思うよ」 物の怪も何が入っているのかと不思議そうな顔で二人の脇に鎮座している。 そっと箱を開けた彰子は、中に収められていたものに無言で目を見張った。 綺麗に折りたたまれた白絹の布―――これは、衣?―――と、その上に置かれた折りたたまれた 折りたたまれた紙の表に書かれた名前を、彰子は震える指でそっとなぞった。 ―――藤原彰子。 伸びやかで奔放な、父の手跡だった。 昌浩が優しい声で言った。 「じい様が預かったものだけど、彰子に渡したほうがいいって、じい様が言ったんだ」 紙を取りだしてひとまず脇に置き、彰子は布を手に取るとそっと広げた。 その顔が泣きそうに歪められる。 それは産着だった。おそらく―――彰子の。 縫ってくれたのはきっと母だろう。上手で知られた母の丁寧な縫い目。初めて生まれる子に対する期待と愛情をこめて、一針一針縫ってくれたに違いなかった。 彰子は続いて紙を開いた。 永延二年 「俺も知らなかったんだけど、産着って生まれた日時の書き付けと一緒に大事にとっとくんだって」 「なんだ知らなかったのか? お前のはたしか晴明が持ってるぞ」 「うそっ !?」 昌浩と物の怪のやりとりを聞きながら、彰子は何度も古い墨の跡をなぞった。 十二年前の自分が生まれた日。今日は二十三日だから、奇しくも四日後だ。 彰子は半永久的に安倍家に滞在する。もう、あの東三条殿に戻ることはないだろう。 だから父はこれを晴明に託した。 彰子の産着、彰子の 女御は遠からず これからは、天皇の正妃たる彼女のことをを占じ、その吉凶を判じる機会が何度も訪れるに違いなかった。産着は本人へと繋がる呪物となり得、生まれた日時は星宿を見定める上で欠かすことのできない要素となる。 筥は使う―――と、父は言ったという。 空になった筥には、新たに章子の産着と書き付けが収められるのだろう。真実『藤原彰子』の生まれた日時と産着として、大切に保管されていくのだろう。 彰子と章子の星宿は違う。同じ年、同じ日、同じ時に生まれたとしても、彰子の生まれた日時で章子の星宿が占じられるようなことがあってはならない。 だから。 産着を顔におしあてて、彰子は目を閉じた。自然と涙がこぼれた。 もう、星は 二度と戻れないのだという実感があった。そのことを惜しんだわけではない。自分はここで生きていくと決めた。ただ、静かに染みいってきたその事実に、何だか胸が痛くなってきただけだった。 これは父からの別れの手紙だった。彰子はそれを理解した。 とうに受け入れた別離への、 産着と書き付けには、封印をほどこされていた気配があった。生まれた日時を知られることで、産着を媒介とすることで、万が一にも 彰子の産着と入れ替わりに収められた章子の産着にも、生まれたばかりの妹姫の産着にも、きっとこのような護りがほどこされるのだろう。 健やかであるように。病など得ぬように。願いを込めて 守りの封じを。 安倍の、陰陽師が―――。 泣き濡れた顔で、彰子は微笑んだ。 「これ、昌浩が預かっていてくれる?」 その言に、彼女が泣きだしたことにおろおろしていた昌浩が一気に固まった。 身につけていた産着と、占術に欠かせない生まれた日時を託されると言うことは、陰陽師にとっては、おおよそ命を預けられたに等しい。 「い、いや、じい様が彰子にって………」 「私が持っていてもしかたがないもの」 いやそれなら俺が持つことにはどういう意味があるのでしょうか。などと思いつつ、口には出せない昌浩の顔を、物の怪が興味深そうに眺めている。 彰子は産着を丁寧にたたむと、書き付けと一緒に筥に収め、蓋をした。 「これにまた守りの封じをかけてくれる?」 産着に晴明の守護がほどこされいたことを看破した彰子に、物の怪が「ほう」と感嘆の声をあげる。 「昌浩にかけてもらって、持っててもらえば、安心だから」 にっこり笑ってそう言った彰子に、昌浩はもはや声もなく撃沈した。 さすがに哀れに思ったのか、物の怪が口をはさむ。 「待て、彰子。昌浩が封印をほどこすのはいいとして、こいつの部屋に物を置くと、そのうちどこかに紛れるぞ」 ものすごい勢いで昌浩が頷く。 彰子は少しばかり不満げに物の怪を見たが、先日片づけたばかりの昌浩の部屋を見回し、その以前の状態を思いだしたのか、やがて納得したように小さく頷いた。 「わかったわ………持つのは私にする」 「うん、そうして!」 やはり勢いよくそう懇願してきた昌浩を、彰子が上目遣いに睨む。 「昌浩に持っててほしかったのに………」 うわあ、と昌浩は内心悲鳴をあげた。物の怪はもはや口をはさむことなく事態を傍観している。 「そ、そのうち! じゃあ部屋きちんと掃除してから預かるから! いまは彰子が持ってて。彰子にとって大切なものなんだから少しは彰子が持ってたほうがっ」 もはや言っている昌浩自身にも何が何だかわからなくなっていたが、彰子は最後の言葉に心を止めたらしく、素直に頷いた。 「そうね………」 言って、そっと筥を抱きしめる。 これは身一つで安倍邸に来た彰子が持つ、ただひとつの、過去の物だ。 それ以外はみな、ここに来てから得たものばかり。衣も 「でも、いつかは昌浩が預かってね………約束よ」 「う、ん………」 彰子の笑顔につられるようにして、昌浩は頷いていた。物の怪はいつのまにやら外に出てしまっていたが、二人は気づかなかった。 それから、お産の様子や妹姫のことなどを聞いているうちに、気がつくと昌浩が穏やかな寝息をたてていた。さすがに限界だったらしい。 眠たかっただろうに、それを我慢して昌浩が話をしてくれていたことに気づいて、彰子は少し反省した。 身勝手な願いだろうか。己の心の弱さによって違えてしまった星宿の先で、この胸のうちの想いを叶えたいと望んでしまうことは。 投げだされた指にそっと己の指を触れさせ、彰子は目を伏せた。 私を守ると誓ってくれた、陰陽師―――。 あなたの笑顔とぬくもりがあることが、このうえもなく嬉しい。 あなたのためにできることを少しずつ、見つけていけたらと思う。 願いをこめて。祈りとともに。 心を向ける。 永延二年戊子、十二月二十七日戊寅戌時、生―――藤原彰子。 願わくばこの天命と星宿が、どうかずっとあなたの傍らに在るように―――。 |
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