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整体MIKUNIはいのちずな |
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整体MIKUNIは命綱いのちずな と呼ぶ人たちがいる。 そのうちのひとりである婦人は 30年来にわたり全体の強い硬直に悩まされ 動きがまるでロボットのようだと 他人に言われ続けた。 2015年に 初めて整体MIKUNIの門をくぐり 施術は始めたが その時 全身は岩石のかたまりのように硬直し 元気はあふれているが 強いあせりが満ちていて どう自分の体をコントロールしてよいのか 途方にくれていた。 首の可動域は極度に狭く 口の乾きが強く 目がひどく疲れる。 と口早に訴え 落ち着きが喪失していた。 すでに30年いろんな整体や民間療法に まわったが 一向に解決せず ひとずてのウワサを頼りに 整体MIKUNIにやってきた。 この日 整体MIKUNIの施術をうけ かつて経験したことがないような 形容しがたい不思議な感じという言葉を残し 婦人は岐路に着いた。 異変が起きたのは その三日後のことで 突如 おびただしい汗が吹き出し 真っ黒なコールタールのような大便が排出 体中の関節が がたがたとはずれるような脱力がおとずれ いつも米俵をかついだような重量が 一掃してフワフワと軽くなる。 びっくりし こわくなって 整体MIKUNIの電話番号をまわす、
自分の体に起こっている異変を 早口でくりかえし説明し 婦人は半時ほど電話を放さなかった。
その後 一週間程して 整体MIKUNIにあらわれた婦人は 見ちがえるように柔和な表情をたたえていた。 それから数回の通院で 体中の力がぬけて とくに 内臓は見事に柔軟になり ほぼ全身にわたる脱力が可能になった。 それから数か月すると 身体改造は軌道に乗り 婦人の動きにはそれまでにない 優美な動きがあらわれ 人が変わったように文字どうり変身した。 もともとバイオリンを弾いており その音色も変わったと バイオリンの先生に言われたそうである。 この婦人の変貌を目の当たりにした 婦人のご主人は 自身も永年にわたる強い背中痛と腰痛に 苦しんできたこともあって 整体MIKUNIに通院を始めた。 数か月後 婦人は、
その後 施術中に婦人は、ふと
ともらし、にっこり笑う。 まず命綱いのちずななしで人生をわたり、 どうにもならなくなったら 整体ですね。
整体MIKUNIとは 漢字表記にすると三国である。 すなわち 三つの国との意味を持つ。 これは 整体的な考えをすべて 三つの方向・構成で考えるという 暗喩あんゆなのである。 三つの方向・構成とは 整体原理の根本が 三つの方向・構成ユニットでつくられて 三つの形が連続的に動的に展開していく エネルギィ平衡をあらわしたもので 複雑精緻な人間の体にまつわる力学を まず『三つの方向』で 切り取り、処理し、対処しよう、 とする意味が付与されている。
整体MIKUNIの始まりは 1990年に院長・聖徳富雄が 東京と中国の福建省に同時に 設立したのが始まりである。 もともと 中国にて中国医学を研鑽し さらに インドの医学思想に強くひかれていたため 日本と中国・インドを融合した医道を 展開できないかと計画し 東京と福建省において開院したのである。 その後 いくたの変遷と統合を経て 2009年8月 名古屋・覚王山に拠点をかまえた。 2017年8月 名古屋・昭和区に移転する。 それまでの経緯により 整体MIKUNIは 日本古来の医術と中国の伝統医術 インドの医学思想と西洋の実証的医学の 融合で構成されている。
整体MIKUNIの源流は 名古屋の千種から始まる。 時は 朝鮮戦争のおかげで日本の飛躍的な経済復興も 軌道に乗った時である。 これにより 戦後の女性の社会進出は一気に解放され 女性の底知れぬたくましさに驚異を あたえる社会と変貌していったのである。 その女性たちのパワーは 家事と育児と仕事と 八面六臂の活躍をし 戦後の日本の高度経済成長を陰で たくましく推進したのである。 整体MIKUNIの院長聖徳富雄の祖母も そうした女性のひとりであり 戦後に千種の地で 戦争寡婦になったが細腕で 戦後の混乱期から 大家族を支えてきた烈婦であった。 整体MIKUNINの源流は この祖母から始まる。 祖母は戦後いち早く職業婦人となり 生命保険の勧誘業を始めた。 働きづめで体を酷使していた ので家の中ではいつも 肩こりと足のだるさを訴えていた。 それを当時 幼少の整体MIKUNINの院長聖徳富雄は 祖母の肩たたきを始めたのである。 もちろん少年の肩たたきに とりたてて技がある訳でもないが 孫に体をいたわれればともあれ うれしいもので 祖母はきもちいいきもちいいをくりかえす 調子に乗り 思いっきりつかんだりたたいたり なでたりさすったりこそぐったりと ありとあらゆる思いつく手法で 祖母の体をこねくりまわす・・ そうしたことは 整体MIKUNINの院長聖徳富雄が長ずるに及んでも 鮮明に記憶に残っており その祖母の体の感触やら祖母のもらす うれし気な表情は鮮烈に残っているという。 とくに こうした祖母との交流を鮮明に覚えているのは この時期 テレビ放映のプロレスが 大人気で祖母もこの番組を見るのが 一番の楽しみで プロレス観戦しつつ 祖母の肩もみをするのが多かったからで こうして1時間2時間は またたく間に過ぎたのである。 その後 祖母も亡くなり 祖母と同居していた祖母の長男の すなわち院長の叔父から 自分の母親、つまり院長の祖母が あのころ肩たたきを心待ちにしていた と聞かされ 懐かしく落涙するのであった。 そのと当時 はやりの言葉は『根性』であった。 子供たちは 『根性』という文字の ペナントやら シールを 部屋中にはって満足げであった。 院長もご多分にもれず 『根性』という言葉をくりかえして 祖母の肩を長時間トントンとたたいたという。 今でも 院長はその祖母の肩のつかんだ感触が よみがえるという。 この祖母との交流が その後の整体MIKUNIの源流になったことは たしかである。 その祖母の葬儀で 棺ひつぎのなかの祖母の肩がやけに小さくなり あれだけ たたき続け 来る日も来る日も もみ続けた肩が こんなになってしまうのだと 思ったことは鮮明に覚えているという。 以下からは 整体MIKUNIの院長の一人称の語りとなる。 私が初めてテレビを見たのは 名古屋千種区の祖母の実家の家で イチジクの大きな木の下であった。 当時のテレビは 屋外の青空の下にあり 近所の人たちと一緒に共同で 一台のテレビを見るのであった。 プロレスの力道山の空手チョップが 次々と繰り出される放映を 鼻をたらした子供たちもまじって 力道山の黒タイツが躍動する姿を 一喜一憂して大歓声をおくり みんなでくいいるようにみるのである。 力道山の相手はデストロイヤーであっただろうか? そこにイチジクの木があったのを覚えているのは 私がプロレスを見ながら イチジクの実を食べていて 手をイチジクの果汁でべっとりした感触を 鮮明に覚えていて それを自分のランニングシャツに こすりつけながら 力道山の活躍に手の平が腫れあがるほど 拍手していたのも思い出す。 屋外のテレビの向こうには レンガの崩れかけた低い壁の光景があり その朽ちたレンガのかすれた色が 妙に鮮明に記憶にある。 B29に爆撃された跡が そのまま手つかずになっていたのだろうか? まだ太平洋戦争のつめあとが 残留していたのだろうか? 街にはしきりと 小さな三輪自動車が往来していた。 その頃の私もきっと鼻をたらしていたと思う。 なぜなら 私のまわりの子供たちも みな鼻をたらしていたからだ。 私の祖母の家はそのあたりでは ちょっとした素封家だったようで 街で一番早くにテレビを購入し 近所の人たちに公開していた。 公開というより 戦後当時はだれの家もサカイがなく すべてオープンで 風通しのよすぎる隣近所で テレビを独占してみることは 考えられなかった時代である。 この頃の光景は今でも時に夢に出没し 涙が出るほどなつかしい。 その頃の人は みんな一様にやせていた。 子供も大人の男も女も犬までもが やせていた。 後年に私がはじめて 中国や東南アジアに旅した時の第一印象が 街頭で歩く人が一様にやせていたのと 同じ様子であった。 その光景のなつかしさに心打たれたのは つまりこのころの名古屋の光景と 同じだったからなのだ。 その時代、太っていたのは プロレスの力道山だけであった、 ように思う。 そんな時期から数年たった頃 祖母の家は 多くの部屋数をようした大家屋で 空の部屋も多かったので 大学生の下宿として 多くの部屋を賃貸しだした。 近辺には 名古屋大学医学部、 名古屋工業大学、 があり学生が多かったのである。 このため 祖母の家に行くと 下宿の学生がうようよいて 私の遊び相手を 次から次えとしてくれた。 実は この下宿する学生たちとの ふれあいこそ 私が祖母の家へいく最大の目的であり 前途洋々の未来が開ける苦学生の面々は つつましいがじつにのびのびとして これらの下宿学生のお兄さんたちに かこまれた私は逸楽の時間であった。 私のまわりには腹を常時すかせた 陽気でインテリの大学生が あふれていたのである。 続く・・・ |
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