9月になると
時に思い出すのが かなり昔のある中華料理店での事である。
当時高校3年であった私は 授業を抜け出して逃走する癖がついてしまい
その日も 昼から学校を離れ
なじみになっていた 学校の近くの中華料理店で食事をしていた。
そこの オヤジさんはその昔 台湾からやってきた台湾人で
日本に帰化して すっかり日本人となっていたが
時々 おかしな日本語が飛びでたりして
みょうに愛嬌のある人だった
その日 テレビでは
田中角栄と周恩来が握手をして 日中国交正常化の放映をしていた
これにて
日本と中国が国交を始めることになる歴史の瞬間であった
私は
その年に総理になった田中角栄の野人のエネルギッシュに
とても熱気を感じて興味があったのと
もともと 中国には非常に関心を寄せていたので
角栄と周恩来の握手には
かなり好意的な見方をしていたが
突然 この中華料理店のオヤジさんが怒鳴り始めたのである
その時 店内には私がチャーハンを食べているだけだったので
瞬間に
なぜオヤジが突如 変貌したか理解できず
うろたえた。
そして 中国語らしき言葉を発しながら顔を紅潮させ
今まで見たこともないような獰猛な顔つきとなったのである。
ちょうど いつも店にいる奥さんも不在で
私とオヤジしかいなかった。
明らかに テレビの放映を見て豹変したのである。
私は食べかけのチャーハンどころでなく
チリ蓮華を宙に浮かせたまま
ただ茫然とするしかなかった・・・
そうこうするうちに 出前から戻った奥さんが来て
オヤジを介抱すると 少し落ち着いたオヤジはガックリとうなだれ
すべての情熱を出し切った後の放心状態であった
「 ごめんなさいねぇ・・ おとうさん、興奮しちゃって・・ 」
「 どうしたんですか? オヤジさん・・ 」
「 テレビで大陸と日本が握手してるの見て
こうなると結局 台湾を日本が見捨てることになるでしょ
それで 日本が台湾を裏切ったと怒ってるのよ・・」
「 なるほど そうだったんですか… 」
やっと私は のみこめて オヤジの怒りがわかったのである。
大陸中国と手を結ぶということは
田中角栄が台湾と手を切るということを意味し
台湾は日本と国交を断つことになるのである。
オヤジからすれば 角栄と周恩来の握手が許せない。
気の毒なほど 元気をなくしたオヤジがかわいそうになってきた・・・
すると
さっきまで慈悲に満ちて静かだった奥さんが急に
「 おとうさん どうしたの! 」
金切り声をあげて叫んだ。
オヤジを介抱しながら 抱き上げている奥さんを見ると
不安で動顛しながら
オヤジの首のあたりを懸命になでている。
「 おとうさん おとうさん ! 」
と奥さんが真っ青な顔で叫んでいる。
オヤジは
興奮し頸部硬直で 首が全く動かなくなってしまっていたのだ。
すでに
そのころ祖母や母の強烈な首肩のコリを治療していて
心得のあった私は
「 きっとすごい緊張で 一時的に首がまわらなくなったでけだから
まかせてください こうやるとよくなりますよ…」
と
オヤジの胸まわりのいくつかのポイントを押してやると
すこしづつ 首がまわるようになってきた。
「 うわぁ すごいね おたく 高校生なのに! 」
奥さんが ほっとして オヤジの背中を支えていた。
ヒトは興奮が極度に達すると
体は金縛りにあったようになるのである。
ほどなく 私が治療すると 何事もなかったように
オヤジの首はクルクルとまわるようになったが
いつもの気合に富んだ声も
すっかり影をひそめ ぐったりとした感じであった。
その後に 知ったことであるが
昭和47年9月29日の中華料理店での事件のこの日
田中角栄と周恩来が日中国交を宣言し
同日に台湾は日本と国交断絶を発表する。
この6年後に私は台湾に語学留学し
さらにその数年後 中国に頻繁に行くような運命となる
又 その数年後から
本格的に身体治療の道にはいることになるのであるが
こうした人生の航路の出発点が
今から振り返ると
この昭和47年9月の中華料理店での事件だったような
きがしないでもない。
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