プロフィー


三上誠(1919~1972)

1919年8月8日 嶋田和左九の二男として大阪市に生まれる。
1931年12歳 三上家の家督を相続。
1932年3月 13歳 福井市進放小学校を卒業。
1937年3月 18歳 県立福井中学校を卒業。
1940年4月 21歳 京都市立絵画専門学校日本画科入学。
1944年3月 25歳 京都市立絵画専門学校卒業。同校副手になる。
1947年6月 28歳 第3回京展(丸物)に≪雪の日の丘≫出品。
1948年春 29歳 革新的な絵画運動をめざすグループが結成され、三上が提唱していた『パンリアル』を会名とする。
1948年5月 29歳 『パンリアル展』(京都・丸善画廊)に≪肖像≫≪戦災風物詩≫A,B,C,D,Eを出品。
1949年 30歳 グループの名称を『パンリアル美術協会』とし、絵専日本画科を卒業した大野秀隆、小郷良一、佐藤勝彦、下村良之介、鈴木吉雄、田中進、
       星野真吾、不動茂弥、松井章、山崎隆との11名のメンバーとする。その後、様々な展覧会に作品を出品する。
1950年4月 31歳 神戸、親和学園の美術講師になる(翌年、退職)。
1951年1月 32歳 パンリアル美術協会の総会で会長に推される。この頃、乾昌子を知る。
1952年 33歳 肺結核で京都病院に入院。肋骨11本をとる胸部手術を受け、療養のため福井に帰郷。54年まで制作を休む。以後、福井に定住。
1955年10月-11月 36歳 パンリアル第1回東京展(ナビス画廊)より作品発表を再開。≪花がほしい≫≪胸のはな≫を出品。
1956年-1971年 数々の展覧会で多数の作品を出品。
1961年6月25日 乾昌子と結婚。
1971年11月17日 肺結核再発し、入院。
1972年1月16日 52歳 死去。

 

●人柄についてのエピソード●
テレビ、新聞などで紹介される三上の写真は神経質で気難しそうなものが多いようです。
でもその人となりは、とてもひょうきんでユーモアあふれるものでした。
甥である私が子供の頃、のどぼとけを動かして「おんちゃんの喉にはカエルがいる」と冗談を言ったり、
【自分の頭のてっぺんを叩いてペロっと舌を出し、次に喉あたりの皮を引っ張ってその瞬間に舌を引っ込める】
そんなおどけたしぐさで、私たち兄弟を楽しませてくれました。