鉄鎖とは
鉄鎖とは

学生:『社会契約論』のはじめのところに、人間は生まれながらに自由だが、いたるところで鉄鎖につながれている、という有名な文章がありますよね。格好いい文章だなあ、と思ったのですが、何度か読んで前後との関係を考えているうちに、この文章が何を意味しているのか、わからなくなってきました。生まれながらに自由な人間なんているんでしょうか。 教師:この文章ですね。
人間は自由なものとして生まれたが、しかもいたるところで鉄鎖につながれている。他の人々の主人であると信じている者も、その人々以上に奴隷であること免れてはいないのだ。このような変化がどうして起こったのか。私にはわからない。それは何によって正当化されえているのか。私はこの問いなら解きうると思う。(第1篇第1章、12頁:p.9)  *(日本語テクストの篇と章、頁数:フランス語テクストの頁数)
学生:ルソーが『社会契約論』以前に書いた『学問芸術論』や『人間不平等起源論』にも、似たような表現があったような気がします。 教師:そう、その似たようなところがあるという点が、『社会契約論』読解の最初の大きなハードルです。つまり、『学問芸術論』や『人間不平等起源論』では、人間が自然を離れて文明社会に向かっていくにつれ堕落し、人間本来のあり方を失ってしまうという見方(私の学生時代に使われた古風なむずかしい言い方をすると、 疎外論)が基調になっている。この文章は、『社会契約論』がそうした議論の続篇じゃないかという印象を読者に与えそうです。 学生:そうじゃないんですか。『社会契約論』は、人間本来の自然なあり方を失ってしまった文明人という『学問芸術論』や『人間不平等起源論』での時代診断を前提に、この堕落状態から文明人を救い出す解決策を提示している、という説明をしている教科書もあるみたいですが。 教師:でも、もしそうだとすると「このような変化がどうして起こったのか。私にはわからない」というのは、ルソーのおとぼけ、ということになります。なぜなら、その点こそ、『学問芸術論』や『人間不平等起源論』のテーマだったからです。それに、原因が本当にわからなければ救済策の出しようがありません。さらに言うと、「それは何によって正当化されえているのか。私はこの問いなら解きうると思う」という文章も、まったく理解不可能になります。『学問芸術論』や『人間不平等起源論』の議論の延長線上で「鉄鎖」を文明社会のしがらみだと受け取ると、その正当化の仕方なら知ってますよ、などというのは、従来の自分の立場を裏切る偽善的議論になってしまいます【補註参照】。 学生:本当に、先生の話を聞いていると、めまいがしてきます。ルソーはいったい、何が言いたいんでしょう。 教師:だんだんわかってきた。君がめまいを感じるのは、私が教科書の説明をひっくり返すときなんだね。だとすると、気の毒だけど、これからもずっとめまいの連続になります。慣れて抵抗力をつけてください。 学生:覚悟してつきあってるつもりです。 教師:よろしい。話を続けます。ルソーは、『社会契約論』のこれ以降の議論で何を「正当化」しようとしてるんでしょう。これを手掛かりにしてみましょう。ルソーは、生まれながらの自由に言及する前に、こう述べていたはずです。
私は、人間をあるがままの姿でとらえ、法律をありうる姿でとらえた場合、社会秩序(l'ordre civil=政治秩序)のなかに、正当で確実な統治(administration)上のなんらかの諸原則があるのかどうかを研究したいと思う。(第1篇、11頁:p.189)
 ルソーが正当化の対象としているのは、「正当で確実な統治」ということになります。だから、そういう統治の諸原則の大前提は人民による社会契約だ、という後々の議論になっていくわけです。「このような変化がどうして起こったのか。私にはわからない……」のところが意味しているのは、政治秩序の成立過程を実証的に再現することなどはできないが、その正当化原理の説明なら私に任せてください、ということなのだと思います。 学生:でもそうだとすると、生まれながらの「自由」と「鉄鎖」という表現はどう考えたらいいんですか。 教師:ルソーが『社会契約論』で解こうとしている問題を手掛かりに考えてみるとよいでしょう。ルソーの問題設定が、『社会契約論』 と、『学問芸術論』や『人間不平等起源論』とで違っていれば、「自由」とか「鉄鎖」の意味も違ってくるはずです。
 詳しく話そうとすると、この本のほぼ全体を一挙に説明しなければならないので、今は概略だけ言っておきます。ここでの「鉄鎖」は、統治が成立している政治社会の下にあるすべての人の義務を指しています。これがなぜ正当化できるかと言えば、「義務」はその成立以前の状態にある人々の自由な意思【*】によって合意されたものであれば正当で拘束力を持つ、という見方があるからです。自由な同意が人々を義務づけるというのは、ルソーに限らず、社会契約説全般の基本命題です。主権者の絶対性を強調するホッブズですら例外ではありません。もっとも、それなら約束を守る義務は約束以外のどこから生じてくるのか、というヒュームの強力な批判が出て来ることにもなるのですが。
 【*】以下では、漢字表記は引用部分も含めて「意思」に統一しました。深い理由があるわけではなく、便宜的な統一です。
学生:「他の人々の主人であると信じている者も、その人々以上に奴隷であること免れてはいない」という文章はどうなりますか。 教師:「主人」だと勘違いしてしまうのは統治の担当者(為政者)です。勘違いであるのは、彼らも社会契約と人民の意思である一般意思を表現した法によって厳しく制約されているからです。しかも、一般市民としての義務に加えて、統治者に課せられる義務の下にもあるわけで、その分、義務が重くなるわけです。本来の意味での「奴隷」については、ルソーは正当な統治と両立不可能な境遇だと強調していますから、ここは「主人」という言葉との対句として引っ張り出してきた比喩的表現と見るべきでしょう。 学生:先生の説明は理解できたように思うのですが、生まれながらの自由とそれを失ってしまった文明人、という議論、「ソガイロン」というのですか、やはり、切ない想いを起こさせる対比に感じます。 教師:ルソーの感受性や文章力は、すごいからね。読ませます。ただ、『学問芸術論』や『人間不平等起源論』で描かれている孤独な自然人というのは、あくまでもフィクションです。どういう仕掛けになっているかと言うと、まず文明社会の人間に絡みついているしがらみを、一つ一つ剥いでいく。その各場面を順次フィルムに記録しておく。この作業のゴールは、作業を始める前から、人間関係のしがらみのない自然人と決まっている。これは、たとえば言語の起源は奇蹟としてしか説明できないというように、無理な想定なんですがね。ルソーほどの想像力をもってしても、やはりフィクション(ウソ)にはつじつまの合わないところが出てきてしまいます。
 それはともかくとして、ここまでの作業工程は読者には見せません。次からが読者への公開版となります。今度は、しがらみのない、つまり、家族も言語も全部剥ぎ取った孤独な自然人を先頭にして、フィルムを逆回しする。そうすると、なんとなくコマがつながって本物の人類史のようになり、最後のシーンは疎外された文明人という、誰も完全には否定できない切ない現実になる。後世の「現象学的還元」みたいなことをしているわけです。孤立した白紙状態の個人という独我論的な見方を出発点にする議論の仕方は、認識論哲学の常套手段ですし、のちの実存主義や現象学にも共有されているみたいですが、その点は不勉強なので脱線はここまで。
 話を戻すと、ともかく、孤独な自然人は、今述べたような理論的操作で成り立っている抽象観念でしかありません。実在のものではありません。ルソーはそのことをよくわかっているはずですが、彼は、抜群の想像力と筆力を駆使して、それを具体的な実在であるかのように描くことができたのです。この種の抽象を容赦なく批判するミルですら、ルソーの文明批判を、逆説的ではあれ価値ある部分的真理と認めたほどです。たしかに『社会契約論』でも自然状態への言及はありますが、その一方でルソーは、家族を「もっとも古く、そして唯一の自然な社会」(第1編、13頁)とみなしています。孤独な自然人にこだわるなら、家族も煩わしい不自然な「鉄鎖」になるはずです。応答しようとする問題に即した議論の立て方が、『学問芸術論』や『人間不平等起源論』と違っているからこうなるのです。人間は、太古の時代から、人間関係のしがらみの中で生まれ育ってきたのであって、そういうしがらみを全部しりぞけることにこだわり続けていては、政治を現実的かつ前向きに考察することはできませんし、ジュネーヴ国制擁護論は書けないでしょう。
学生:「現象学」とかの話はまだよくわかりませんが、フィルムの逆回しの説明はよくわかりました。次回は、社会契約そのものについて、質問してみたいと思います。

【補注】『人間不平等起源論』について一言。この本の本論は、『学問芸術論』と同じプロットになっていて、原始から始まり最後は荒廃した悲惨な状態の描写で終わるという、やりきれない議論になっていますが、冒頭の献辞では、そのような悲惨さを免れているジュネーヴが賞讃されています。なぜ、ジュネーヴに限って、恵まれた特権的境遇が可能なのか、という疑問が当然生じてきますが、その答が『社会契約論』で示されることになるわけです。その観点から見る限りでは、『人間不平等起源論』は、『学問芸術論』と『社会契約論』の中間に位置しているとも言えるでしょう。
 ちなみに、『学問芸術論』や『人間不平等起源論』の疎外論的なトーンから現実の人間を前提とした政治学的探究へと反転していくルソーの姿勢は、『社会契約論または共和国の形態についての試論(初稿)』の次の一節に表われています。
しかし、たとえ、人間たちのあいだに自然的で一般的な社会がないとしても、人間は、社会的になることによって、不幸で邪悪となるとしても、また、自然状態の自由のうちに生き、しかも同時に、社会状態の要求に従って生きる人々にとっては、正義と平等の法はなきに等しいとしても、それでもなお、われわれには徳も幸福もなく、神は人類の堕落に備える方策もなしにわれわれを見捨てたとは考えないで、悪そのもののなかから、それを癒すべき薬をひきだすよう努力しよう。できれば、新しい結社によって、一般的結合の欠陥を矯正しよう。(作田訳『社会契約論』、250頁)
なお、以下も参考にしてください。「生まれながらの自由とフィルマー」