生まれながらの自由とフィルマー
生まれながらの自由とフィルマー


フィルマー『家父長制君主論(パトリアーカ)』(1632年刊)の冒頭には次の一節があります。
スコラ哲学が栄え始めた時以来、様々な他の学者と同じように神学者によっても次のことが共通の意見として主張されるようになっている。「人類は、生まれながらに全ての従属からの自由を付与され、許され、好むままに統治形態を選ぶ自由を持ち、誰かある人が他の人に対して持つ権力は、最初は、人間の権利によって、民衆(multitude)の思慮分別に従いながら授与されたものである」。
 この教義は、当初、諸大学で抱かれ、良き神学のために全ての後続のカソリック教徒によって育まれて来ている。また、改革教会の神学者もそれを容れているし、そして、いたるところで、普通の人々も、人間にとって最もふさわしいものとしてそれを受容している。(第1章・1、5-6頁)
フィルマー『家父長制君主論(パトリアーカ)』、 伊藤宏之・渡部秀和訳、『フィルマー著作集』(京都大学学術出版会、2016年)所収
 ロックを読んでいたルソーが、ロックの論敵だったフィルマーまでわざわざ読み、それを意識して、『社会契約論』の冒頭で「生まれながらの自由」という表現を採用したのかどうかはわかりません。しかし、それはともかくとして、フィルマーのこの文章からわかるのは、「生まれながらの自由」が、ルソー以前のフィルマーの時代にすでに使われていた政治的スローガンだった、ということです。フィルマーはこのスローガンが17世紀前半当時のヨーロッパばかりでなく、自国イングランドにも広く流布していたことを苦々しく想い、これを論破しようとして神権説を主張したのです。つまり、フィルマーは、カトリックと改革教会派のいずれとも対立する国教会保守派の立場から、契約説の持つイデオロギー的威力をひしひしと感じながら、その契約説にあえて対抗しようとしていたのです。
 名誉革命につながる危機が生じた頃にはフィルマーはすでに亡くなっていましたが、この時期に『パトリアーカ』は、国王支持者たちによって復刊されました。国王支持者たちは、自分たちの主張を補強するために、フィルマーのこの本が役立つと考えてを再登場させたのです。そして、このことが、ロックの『統治二論』を登場させるきっかけとなりました。
 以上のような経緯をふまえると、フィルマーの神権説をたんなる蒙昧な主張とみなして退けるのは、歴史的理解としては問題が残ります。神権説はたしかにフィクションですが、国王権力の神聖性を必要と考える人々には有用なフィクションでした。契約説がフィクションでありながら、当時の国王権力に対立していたロックのような人々には有用なフィクションであったのと同じです。付言しておくと、ロックや彼のパトロンのシャフツベリーたちが否定していたのは、君主政全般ではなく、外国勢力(フランス)の支持を受けたカトリックの君主でした。このことは、神権説に向けられた契約説が、論理必然的に共和政や民主主義につながるわけではないことをよく示しています。それはともかくとして、この状況で、神権説を蒙昧なナンセンスとして退けることには、客観的な学問的議論ということではなく、あるいは少なくともそれ以上に、現実政治に直結したイデオロギー的な意味を持っていたわけです。こういう事情があるので、ロックの見方をそのまま後世のわれわれが素朴に受け容れて、それをフィルマー本人の時代の思想状況に関する客観的な理解としてしまうわけにはいきません。実態はこみ入っています。たとえば、17世紀前半の時期に、超国家的権力であるカトリック教会、教会を国家の上に置くカルヴァン派のいずれとも対立して、国民的教会(国教会)を国家が管理統制するという立場をとった点では、実は、神権説のフィルマーと契約説のホッブズは一致していました。神権説vs契約説という対抗軸は、保守vs改革という、後世の視点からすればわかりやすい対抗軸とは必ずしも重なってはいません。多くの対立軸が錯綜しているのです。このような複雑さは、ロックを巻き込んでいた状況に限られるわけではなく、実のところ、革命的危機状況も含めて、政治の常態と言ってもよいでしょう。この点はきちんと念頭に置いておく必要があります。
【補注】 ただし、厳密に言うと、フィルマーの主張は、カトリックとイングランドの改革教会派(カルヴァン派・長老派)の双方に国教会保守派が対抗するという前期スチュアート朝時代(ジェイムズ1世・チャールズ1世の時代)の状況に適合するようチューニングされていたので、後期スチュアート朝時代(チャールズ2世・ジェイムズ2世の時代)に国王がカトリックに傾くことで生じた危機(王位継承排除法危機)という政治的文脈とは十分にかみ合っていませんでした。王位継承排除法危機の場合、国教会保守派は、フランスに通じている疑いのある国王への忠誠と国教会支持の立場とが両立しない、という重大なジレンマに直面していたからです。結局、カトリック勢力の背後にあるフランスの脅威という国際政治上の憂慮から、大半の保守派がカトリックの国王を見限ったことで、名誉革命に行き着きました。ロックや急進的ウイッグの勇ましい議論や運動だけだったら、イギリス(イングランド)は、再度、内戦の危機に陥っていたかもしれません。実際、この例に限らず(たとえば、1660年の王政復古という先行例がそうであったように)、危機から持続的安定に向けて政治が大きく動くモーメント(瞬間・契機)というのは、国民的なコンセンサスの存在であり、そうしたコンセンサスにおいて鍵を握るのは、急進的な思想や運動だけではなく、むしろそれ以上に、穏健保守派の動向でもあるように思われます。
 フィルマーが念頭に置いている言説のコンテクストは、16世紀後半以降、宗教と政治が複雑に交錯する中での、政治的な忠誠・服従義務と信仰との葛藤状況に他なりませんでした。宗教戦争に巻き込まれたさまざまな地域で、抑圧される少数派の立場に置かれた宗教勢力が、カトリックかプロテスタントかを問わず、生き残りを賭けた闘争の武器として、宗教的理由が政治的服従義務を解除するとする「抵抗権理論」に訴えていた状況です。こういう状況は少なくとも1世紀のあいだ、17世紀後半まで続きましたし、イングランドでは、1688年の名誉革命で一応の決着を見たものの、宗教と政治の問題はそれ以後もしばらく(1820年代末のカトリック解放まで)くすぶり続けます。
 以上のようなコンテクストを知っているルソーと同時代の読者だったら、『社会契約論』の冒頭で言われている「鉄鎖」と「自由」を、いわゆる「新旧論争」、つまり、近代と古代のどちらがすぐれているか、近代文明が洗練をもたらしたのか、それとも堕落や疎外をもたらしたのか、といった18世紀的問題ではなく、政治的義務論という16世紀・17世紀的な問題だと、容易に読み取れたでしょう。ルソーの問題設定は、いささか時代遅れだとすら感じたかもしれません。
 こういう文脈感覚が失われるのはフランス革命後かもしれません。ちょうど、2度にわたる世界大戦を経た20世紀が19世紀以前の文脈に関する感覚を失ったように。