『わたし』を読んで
坂東眞砂子 著<角川書店単行本>


 高校の同窓生ながら全く接点がなかったけれど、地元紙や雑誌で目にするエッセーやコメントには共感するところが多く、妙に親近感を抱いていた。でも、ホラーやオカルトをあまり好まないので、小説作品を読むことなく来ていたが、自伝小説ということで初めて読んでみたら、なかなか面白かった。

 思春期の十年にわたって認知症の進みつつある要介護の祖母と自宅で過ごしたことが彼女にとって非常に大きな意味を占めていることがありありと窺えた。例によって、ここでも母娘関係の難しさが影を差していて、-ある日、母が死んだ。(中学校の図書館で読んで以来お気に入りだったとの)『異邦人』の冒頭を、わたし自身の言葉に直したら、こうなっただろう。死んだのは、今日ではなく、過去のいつかだった。いつ母が死んだのか、わたしにはわからない。気がついた時には、母はすでに死んでいた。わたしが母を殺したのだ。心の中で、ひっそりと。わたしは祖母を棺桶に押しこめ、母を殺した。それからは、誰彼の見境なく人を殺しはじめた。(P105)と記している。

 わたしは不感症だった。…そもそも、わたしは肉体だけではない、人生すべてに対して不感症なのだ。…人と話していても、心の底から融けこめない。景色を見ても、写真を眺めているみたいにどこか遠くに感じる。男と抱き合ったり、素肌を接しあわせると、ロマンチックな映画を見ているようだ。男根が入ってくるのは、ポルノビデオを眺めている感覚。なにを見ても、なにをしても、実感がない。しかし、世の中の人は、みんな、心底、怒ったり、泣いたり、笑ったり、しんみりしたりして生きているように見える。ことに、映画や小説では、生き生きした人ばかり出てくる。わたしは、そんな人間の真似をしてきた。「普通の人」として振る舞うために、実感を覚えているふりをしてきた。…たちの悪いのは、自分のどこかで、それが演技だとわかっていることだ。だから後で自己嫌悪に陥る。その自己嫌悪を忘れるために、今度こそ、うまく実感を得てやろうと、新たな舞台に闇雲に立とうとする。社会人となってからのわたしの人生は、新舞台への絶え間なき挑戦だった、といってもいいだろう。そして演技が上手くなればなるほど、演技していることを忘れ、自分でもはっきりしない、世の中に対する嫌悪感だけが脹れあがっていった。ジャンクロードとのセックスにおいても同様のことの繰り返しだった。一日中、交わっても、ちっとも満足できない。セックスなんてもううんざりだ、と思いつつ、やっぱり必死で縋りつくように、セックスに挑んだ。縋りつきたかったのは、実感だった。(P14)という“わたし”は、生者よりも死者のほうに気持ちが寄り添うものだから、わたしの父は九十歳近い。わたしはタヒチで、日本から父の訃報の届くのを待っている。父が死んだら初めて、わたしは父を生きる人として受け入れることができるからだ。わたしはジャンクロードの死もひそかに願っている。彼が死んだら、やっとわたしの中で生きはじめるから。わたしの中では、生と死の観念が入れ替わっている。生きている者は死んでいるし、死んだ者は生きている。…死んだ生者たちは、人として存在する。しかし、彼らは動きはしない。わたしの記憶の中で永遠に静止する。(P111)と思っている「普通じゃない」と言われる人物なのだが、この人物像には僕の中でも思い当たるところが少なからずあって、エッセーやコメントを読んだときとはまた違う妙な親近感を覚えた。同じ世代を生きた者の一部に、少なからず共通して巣食っている感覚なのではないかとも思った。

 そんななかで、作中の“わたし”のみならず、作者の発言や表現に窺える激しい感情の源泉のように感じられた部分が最も憎んだのは、学校で威張りくさっている男子生徒たちだった。傍若無人に授業を無視し、学力を上げて、いい高校に行きたいと願うわたしの邪魔をする。凶暴な顔つきで、女子生徒や、ひ弱な男子生徒たちを威嚇する。彼らはヤクザだった。腕力でもって弱い者たちを支配する、ヤクザの卵たち。わたしは彼らを目にするたびに、激しい憎しみを味わった。こうして憎んだ相手を、わたしは二度と振り向くことはなかった。…こうしてわたしは、周囲の者たちを次々に殺していった。(P106)だった。

 同窓生ならでは興味を惹いたのは、やはり私立土佐高校に入ってからのことを回想している部分だった。“わたし”に強烈な衝撃を与えていたトオヤマ・キョウコの存在のモデルが誰なのか容易に察しがつくと共に、その存在の核心を見事に捉えて描出している筆力に流石を感じつつ、非常に妙味を覚えた。キョウコとレズビアンの噂を立てられるくらいお気に入りの交信相手だったとのユミさんにしても、バンちゃんと呼ばれる“わたし”が擬似友人としているお嬢さん育ちの画家の娘で、白くむっちりした柔らかな脂肪に覆われていた(P60)とのウジハラや、大柄で足の長い西洋人めいた肢体と、ギリシャ彫刻に似た彫りの深い顔立ちをしていた(P60)とのヤマモト、ノイローゼになって中退した。いつも穏やかな笑みを浮かべていた、おとなしい男の子だった(P73)とのヨシムラくん、テニス部の花形で、陽気で活発で、頭の良かった…、春休みに、野球バットで教室のガラス窓を割ってまわった(P73)アヤさんにしても、直ちに本名が思い浮かび、彼らがバンドウさんに残している記憶に僕自身が触発され、感慨深いものがあった。実に痛烈だったチカバァというあだ名のある、勤続三十年は経っていそうなオールドミス(P71)と記された英語教師がキョウコとバンドウを呼び間違えたエピソードは、僕は知らなかったことだが、創作ではなくいかにもありそうなことのように思えて可笑しかった。

 これを機会に、他の小説作品も読んでみようと思う。
by ヤマ

'10.12.23. 角川書店



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