『女の一生』を読んで
ギー・ド・モーパッサン 著 <旺文社文庫>

 翻案邦画の女の一生』(監督 野村芳太郎)['67]を観て気になっていたところに、全くろくでもない御木宗一を彷彿させる、ろくでなし亭主のイヴァーノの登場するイタリア映画ドマーニ!愛のことづて['23]を観て、僕が小学六年生の時分から書棚にある文庫本を読んでみることにしたものだ。

 モーパッサンは、大学進学して文芸サークルに参加した最初の頃に読書会で採り上げられた『脂肪の塊』『テリエ館』とともに青柳瑞穂訳の新潮文庫で読み、同じく新潮文庫の『モーパッサン短編集Ⅰ』に収められている『旅路』の目次のタイトルに丸印を残している作家だ。久方ぶりに書棚から取り出してみて、その短編集に収められた『ジュール叔父』について、サークルの先輩で現在も詩作や評論活動を続けている宗近真一郎氏がA4ノートに書きつけた一枚の手書きの論評が残っているのを見つけて驚いた。

 今回読んだ旺文社文庫のほうの訳者は巻末に解説も書いている稲田三吉だ。評論家の三宅艶子による「『女の一生』の思い出」や代表作品解題も添えられた充実のハードカバー文庫なのだが、解説を読んでいて四三年にも満たない短い生涯P389)のモーパッサンが三十歳前後に書いた作品だと知って驚いた。両親をモデルにしたとはいえ、その年頃で「女の一生」を描こうとしたことに吃驚したのだ。そして、作品の最後を人生なんて、ねえ、人が思うほどいいものでも悪いものでもありませんね。P388)というロザリー(ジャンヌの乳姉妹にして召使、息子ポールの異母弟ドニの母)の台詞で終えている達観に微苦笑が拭えない気がした。

 きちんと読んだのは初めてなのだが、気質からいって、自由思想のもち主であり、うけた教育から自由主義にかぶれていたので、彼は、およそ毒にもくすりにもならぬ、口さきだけの憎悪ではあったが、とにかく専制政治をひどくきらっていたP6)男爵を父親に持つジャンヌが新婚旅行でコルシカに行ったときにナポレオンがセント・ヘレナに流されていた(P96)時代の物語を綴った一八八三年に発表された作品だ。「女の一生」とのタイトルの元に描出されたジャンヌの物語で目を惹いたのは、新妻ジャンヌに訪れた性への目覚めから失望に至る描出の丹念さだった。

 夫は彼女のからだをがっしりだきしめた。まるで彼女にうえてでもいるように、狂おしく。そしてすばやい接吻を、かみつくような接吻を、狂ったような接吻を、顔いちめんに、胸の上のほうに浴びせかけ、愛撫で彼女を茫然とさせた。彼女は手をひらいていた。やみくもな彼の力の下で、ぐったりしていた。頭はすっかり混乱してなにひとつわからず、自分がなにをしているのか、また彼女がなにをしているのかも、もはやわからなかった。と、急に、するどい苦痛が彼女のからだを引きさいた。夫が荒々しく彼女を所有しているあいだ、彼女は夫の腕のなかで身をよじりながら、うめきはじめた。
 それから、どんなことが起こったのだろう? 彼女にはほとんど記憶がなかった。頭がへんになっていたからだ。ただ夫が、自分のくちびるの上に、感謝のこもった小さな接吻を、霰のように降らせたような気がするだけだった。
 それから夫がなにか話しかけ、彼女のほうもそれにこたえたにちがいない。それからまた、夫がなにか新しい試みをしようとしたが、彼女は恐ろしさのあまり拒んだ。もがきまわっていたとき、さきほど足に感じられたあの密生した毛が、こんどは胸の上に触れた。ぞっと寒気を感じて、急いで身を引いた。
 いくら相手に哀願してもうけ入れられないことで、とうとう彼は疲れはて、あお向けに寝たまま動かなくなった。
 そこでやっと、彼女はものを考えられるようになった。夢みていた陶酔とはひどく違った幻滅を味わわされ、大切にしてきた期待をうち破られ、大きな幸福もついえさって、魂の底の底まで絶望しきった彼女は、心のなかでこうつぶやいた。
 「これが、この人のいっていた妻になるということなのだ。こんなことが! こんなことが!」
 …ジュリアンがもう口をきかなくなり、身動きもしなくなったので、ゆっくりと彼のほうへ視線をめぐらしてみた。すると、夫が眠っているのに気づいた! 口を半ばあけ、平静な顔つきで眠っているのだ!
 彼が眠っているということを、どうしても信じることができなかった。怒りの気持ちがこみあげてきた。女でありさえすれば、手あたりしだいつかみかかろうとする、そのけだもののような荒々しさで扱われたときよりも、この眠りによってのほうがいっそう侮辱されたような思いだった。こんな晩に、この人は眠ることができるのだろうか。では、自分たちの間でおこったあのことは、この人にとってはぜんぜんおどろくべきことではないのだろうか。ああ! こんなぐらいなら、いっそなぐられたほうが、もっと乱暴されたほうが、気を失うまでにいやらしい愛撫でいためつけられたほうが、どれほどいいかしれない
P88~P90)という始まりから、最初の晩のあの死ぬような苦しみののち、ジャンヌはしだいにジュリアンの接触に、つまり彼の接吻や、やさしい愛撫になれていった。ただ、ふたりきりのもっと親密な関係には、あいかわらず嫌悪感がつきまとったけれど。P92)や、彼女は目を伏せたまま、もうなにもいわなかった。夫のこうしたたえまない欲望を前にして、彼女は魂のなかでも肉体のなかでもつねに反逆しつづけ、いやいやながら、あきらめきって服従するにすぎなかった。しかも、こうしたことのなかに、なにかしら獣的な、人間の品位をおとしめるようなもの、つまり不潔さを感じて、いつもはずかしめを受けているような思いであった。
 彼女の感覚はまだ目ざめていなかった。ところが夫のほうは、彼女のがわでも自分と同じような情熱をもっているにちがいないと思いこんで、そんなふうに彼女をあつかうのだった。…自分と夫とのあいだに、薄膜のようなもの、障害物のようなものがあることを感じた。けっきょくふたりの人間というものは、魂の底まで、思考の奥底まで入りこむことはけっしてないこと、ふたりが肩をならべて歩き、ときとしてからみあうようなことがあっても、けっしてたがいにとけあうことはないこと、またわれわれ人間ひとりひとりの精神の世界は、一生を通じて永遠に孤独であること、などにはじめて彼女は気づいたのだった。
P99~P100)を経て、部屋でふたりきりになるやいなや、ジャンヌは、夫の接吻をうけてもあいかわらず自分が、なんの感じもうけないのではないかと、はげしく恐れた。だがその不安は、すぐに消しとんだ。そしてこの夜が、彼女にとっての最初の恋の一夜となった。…それから先の旅は、彼女にとって、ただもう夢のように過ぎた。終わることのない抱擁、愛撫の陶酔にあけくれた。ジャンヌはもう、なにも目にはいらなかった。景色も人影も、足をとめた場所も目にはいらなかった。ただもうジュリアンばかりを見つめていた。
 やがて子供じみた、魅力あふれるふたりきりの秘密がもたれるようになり、たわいもない愛のたわむれや、おろかしくはあるが楽しい愛称のいいあいがはじまった。くちびるが喜んでそこを求めあう、ふたりの肉体のあらゆる屈曲部、またその周辺、それから襞などに、かわいらしい名まえがつけられたりした。
 ジャンヌは右を下にして寝るくせがあったので、目がさめると、左の乳房がよくむきだしになっていた。ジュリアンはそれに気づいて、左の乳のことを「野宿の君」と名づけ、もう一方を「恋する君」と呼ぶようになった。なぜなら、そちらのほうの先端のバラ色の花は、接吻にたいしていっそう敏感であるように思えたからだ。
 両の乳房のあいだの落ちくぼんだ道は、「お母さんの道」ということになった。なぜなら、ジュリアンがたえずそこをさまようからだった。そして、より秘められたもう一つの道は、あのオタの谷間を記念して、「ダマスクスへの道」と名づけられた。
P112~P114)となり、たちまちのうちにジュリアンとの関係も、すっかり変わってしまった。自分の役をやり終えてしまった俳優がいつもの素顔にかえってしまうように、新婚旅行から帰ってからの彼は、すっかり別人のようになった。ほとんど妻にかまうこともなくなり、話しかけることすらもしなくなった。恋の名残も、あっというまにすっかり消えさった。彼が妻の部屋にはいってくる夜もまれになった。…ジャンヌはこうした変化を、自分でもおどろくほどあきらめきってうけ入れていた。ジュリアンは彼女にとって赤の他人も同然になってしまった。…あのようにしてめぐりあい、愛しあい、燃えあがるような愛情のうちに結婚した自分たちが、これまでいっしょに寝たことがない者同士のように、まるで他人のようになってしまうなんて、いったいなぜであろうか、と。
 しかも、夫から見すてられていることが、どうしてさほど苦にならないのであろう? これが人生というものであろうか。自分たちはおたがいに思いちがいをしていたのだろうか。自分にとってもう未来にはなにもないのだろうか。
P126~P127)となって、生きていくことにたいする漠然とした幻滅P125)に囚われていく。

 これがモーパッサンの描いた「女の一生」だったのかと驚いたのだが、解説を読むと日本にこの作品がはじめて翻訳紹介されたころは、性欲描写の部分が露骨であると言われて良家の子女にとっては禁書も同然であったと言われる。P401)とずばり記されていた。三宅艶子も思い出として、文学少女で大人になりかけの私たちの関心事といえば、女主人公ジャンヌの結婚の場面のことでした。文学作品に接する態度ではなく、清純な乙女のジャンヌが、なんにも知らずに結婚の夜を迎える。ジャンヌの父親がそれとなく娘に話そうと試みて果たさず、花嫁はジュリアンに荒々しく扱われる。そんな話が、先に『女の一生』を読んだ友だちの口から口へと伝わっていました。私たちはみんな表には出さずに、内心その場面への好奇心でいっぱいだったのです。…モーパッサンの作品などということより、私は『女の一生』を読むと、なにか私たちの知りたがっていること、男と女のからだの秘密が解るのではないか、という期待でいっぱいだったのです。P403~P404)と綴っていた。

 その新婚旅行から帰って来ると、結婚前から乳姉妹のロザリーに夫が手を付けていて子供が産まれることになっていたり、加えてその後もくだらないうわさがいくつも耳にはいってきて、彼女の魂に、人間にたいするより大きな嫌悪感、より激しい軽侮の念をそそぎこむのだった。P225)という形で、親友のジルベルト伯爵夫人と夫とのダブル不倫を知り、亡き母が残した手紙からはからずも発見してしまったあのこと(母の不倫)の思い出で、うちのめされたような気持ちのままでいた。あのことを思うと、心が重苦しくなった。うちくだかれた心は、そう簡単にはなおらなかった。現在の彼女の孤独は、あの恐るべき秘密のためにいっそう深いものとなった。P251)あげくに夫にも先立たれた後、夫のあやまちはすべて小さなものとなり、冷酷な彼の仕うちも消えさり、自分を裏切ったかずかずの行為さえもが、いまでは、とざされた墓の思い出がしだいに遠ざかるにつれて、うすらいでいった。そしてジャンヌは、かつて自分をその腕のなかにだいてくれたことのあるこの男にたいして、一種漠とした感謝の念すら死後に湧いてきて、過去にうけたさまざまな苦痛は許す気になり、幸福な瞬間ばかりが思い出されてくるのだった。…そしていまの彼女は、身も心もすっかり息子に捧げきっているのであった。P293)という余りにも寂しい人生のうえに、息子からも情けなさにもほどがある仕打ちを受ける人生が描かれていた。
by ヤマ

'25. 8. 1. 旺文社文庫



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