『私は二歳』['62]
『兎の眼』['79]
監督 市川崑
監督 中山節夫

 今回は、大人になると忘れてしまいがちな子供の視点から大人世界を捉えた作品が並んだ。

 先に観た『私は二歳』は、さしたる数を観ていないなかではあるけれども、今までに観た山本富士子のなかでも格別だった。一介の主婦を演じていることによって却ってその面立ちの映え方が際立ったのか、改めて綺麗な女性だったのだなと思った。それにしても、なにゆえ本作を課題作に持ってきたのだろうと訝しんでいたら、そう言えば、合評会主宰者ご贔屓の市川監督のキネマ旬報第一位作だとか話していたことを思い出した。

 同居することになった姑(浦辺粂子)の口出しが煩わしくて、その対策に妻(山本富士子)からテレビの月賦購入を求められて渋々応じた夫(船越英二)が、子守をなおざりにしてダラダラとテレビ視聴をしていたことに対し、母親から相撲や野球に現を抜かさずに少しは教養番組を観なさいよと小言を受けている場面を観て、そうか本作は、そういう立ち位置の映画番組だったのかと得心したものの、それがどうしてキネ旬第一位に選出されてしまったのだろうと不思議に思った。姑の弁を受けて妻が夫に言っていた結婚前は貴方も難しい本を読んだりしていたのにとの台詞に、今と違って教養というものがそれなりに重んじられていた時代だったからかもしれない、と思ったりもした。

 二歳の乳児の内心の声を中村メイコが担っていたが、ボク、と言っていたのに、なぜタイトルは「私」なのだろうかと思ったら、原作本が、小児科医で育児評論家の松田道雄による『私は二歳』だった。それにしても、長閑で緩やかなユーモアに満ちた作品だった気がする。午後に矢鱈とどぎついだけの『首』(監督・脚本・原作 北野武)なんぞを観たばかりだから、余計にそう思ったのだろう。


 翌日観た『兎の眼』は、兎の眼と言いながら、いきなりドブネズミの大写しで始まる不気味な画面に驚いた。いくら赤い目を映し出してもこれは違うだろうと思ったら、♪ラランラ、ランランラン♪と明るい歌声でBGMが流れ始め、学年も違う子供たちが集団で遊ぶ昭和の光景が現われた。長じて医大の教授になった僕の弟が小学低学年の時分、蠅ではないけれど、本作と同じように罠籠にかかった鼠を捕えて箱に入れて飼っていたことがあり、僕には小学低学年の時分に蛙を掴んで床に叩きつけて潰した経験があるだけに、テッツンこと鉄三(頼光健之)の姿や、少々危なっかしい空き地で遊ぶ子供たちの姿に遠い日の光景を思い出した。本作は、僕が成人した頃の作品だから、給食に出るパンは食パンで、粉ミルクではなく瓶詰牛乳だったが、給食当番が食缶を運び給仕する形態は、同じだった。なんとなくバブル期の産物のように思っていたアスレチッククラブが、'70年代のうちに既に出来ていたことが目に留まったりもした。

 物語的には、鉄三の担任の小谷先生(檀ふみ)が不衛生な蠅飼いを止めさせようとしてなかなか叶わないなか、最後にザリガニを与えることでようやく果たせる話になっていたように思うが、これを範として、禁止令ではなく代替物の提供をテクニックとして提起するような作品ではないことは、映画を観れば明白なのだが、今は結果として現れた現象だけを捕えて手法とするノウハウのようなものが横行する時代になっていることを改めて感じた。

 小谷先生に寡黙な鉄三の事情や心の内を代弁してやっていた上級生イサオが印象深い。汚い気持ち悪いといった先入観や思い込みに囚われると見えない大事なものというのが、泣き虫先生の小谷先生を支援していた先輩教員足立(新克利)の言うタカラモノなのだろう。新克利が十八番の役どころを演じて堂に入っていた気がする。

 あばら家で暮らす鉄三の祖父である臼井のおじやん(下條正巳)が、ビーフストロガノフを上手に作るチェロ弾きだったりする設定や、戦前警察の拷問を受けた彼が親友だった朝鮮人のキム君を売った過去を持っていたりするのも、物事は表面だけ観ても決して判らないことを示すものとして、「裏切り」について作り手が敢えて言及しておきたかったことなのだろう。

 灰谷健次郎による本作の原作小説は、未読ながら、映画化作品太陽の子 てだのふあにも通じる灰谷原作作品らしさを感じた。


 合評会では、どちらの作をより支持するかで、同年代男三人の意見が分かれた。断然『私は二歳』という一人は、新書本を原作としながら物語を紡いだ和田夏十の脚本が素晴らしいとのこと。'60年代の日本映画では今から観れば、マチズモにほかならないと看做されることが極普通の光景として現れがちななかにあって、本作の夫像は、頼りないほどに軟らかで豪の者とは縁遠いところが目を惹く以上に、しっかり妻の活写ができているように僕も思った。

 もう一人は、再見してみたら記憶と違って子供主体というよりしっかり大人たちを描いた作品だったことから、どちらかと言えば『私は二歳』のほうを支持するとしながらも、キネ旬一位になるほどの映画には思えなかったとのことだった。それについては僕も同感だったのだが、考えてみると、今では常識的に認知されているように思われる乳児の自我について、当時は二歳児にそれを認めるのは画期的な常識破りだったのではないかという気がしてきた。その話をすると、市川崑ファンのメンバーが、彼はタイムリーな題材を映画にする嗅覚に優れているのだという補足をしてくれた。

 そういう点からは、夫婦像にしても乳児像にしても、当時としてはかなり進歩的なイメージを提示していた『私は二歳』もなかなかいいのだけれども、今となれば、いささか鮮度落ちの感が拭えない気がして、僕は唯一人『兎の眼』のほうに軍配を上げた。遠い昔に原作小説を読んでいるというメンバーが、映画化作品は初めて観たけれど、もっと啓発映画的な色合いが濃いのではないかと思っていたら、そうではなくて感心したと言っていたように、オープニングで闇に赤く光るドブネズミの眼を印象づける不気味なショットから始めていたわけだが、『兎の眼』から「ドブネズミの眼」にしているのは、終盤で足立先生が小谷先生に子供らぁは教師の生き方をじぃっと兎のような眼で観とるんやと言っていたのを受けて、子供の眼のみならず、汚い不潔と差別されている者の眼から社会を観なければならないとして、おそらくは原作にはない冒頭場面を持ってきたのではないかという気がしたからだ。臼井のおじやんの設定など、触発してくれるものがいろいろあって、原作以上に攻めてきている映画化作品だったように思う。



*『兎の眼』
推薦テクスト:「八木勝二Facebook」より
https://www.facebook.com/katsuji.yagi/posts/pfbid0tyW51yJFpmyUbBrDqUndeu
ZhsABGnRjvdzoFMesa7N9uv82xgYptfWofncrmWB2il

by ヤマ

'23.11.26・27. DVD観賞



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