『湖の琴』['66]
『五番町夕霧楼』['63]
監督 田坂具隆

 原作も監督も主演女優も同じ同時期の作品二題となった定例の合評会の課題作で、普段なら先に撮られた五番町夕霧楼から観るのだが、そちらは九年前に観ているので、未見作の『湖の琴』から観ることにした。

 古戦場賤ヶ岳麓の生糸製造業者百瀬(千秋実)の元での奉公時に見初められて、京都の三味線師匠の元に奉公替えをした生娘サクを演じた佐久間良子のみならず、今から百年前となる大正天皇崩御を挟んだ数年を映し出した人や事物の景色の美しさをその色合い共々愛でるようなところがあって感心した。

 だが、土を喰らう十二ヵ月』の日誌にも記したように、どうも水上勉の描く世界は、僕と相性が悪いと改めて感じた。合評会では、桐屋紋左エ門(中村鴈治郎)と松宮宇吉(中村賀津雄)のいずれが、サクのヴァージニティを奪ったと観るかメンバーに訊ねてみたいと思った。


 翌日観た『五番町夕霧楼』は、九年前に国立近代美術館フィルムセンター優秀映画鑑賞推進事業のプログラムで観て以来の再見となったが、『湖の琴』と配役のみならず筋立てまでもほとんど同じといった有様に、ここまで相通じていたのかと半ば唖然とした。

 繰り返し繰り返し映し出されていた百日紅こそが、女道楽の西陣の旦那(千秋実)が惚れ込んだ珍重ものという片桐夕子(佐久間良子)の身体を象徴するとともに、長らく色褪せずに来ている櫟田正順(河原崎長一郎)と夕子の間の幼い時分からの思い出の象徴だったのだろう。

 また、インテリ娼妓の敬子(岩崎加根子)は、『青春の門 自立篇』のカオルの原型なのかもしれないと思ったりした。十九歳から二十五歳までの夕子を演じた当時、二十四歳の佐久間良子がやはり目を惹くが、再見してみると、敬子と女主人かつ枝(木暮実千代)の人物像が興味深く映った。

 水揚げした西陣の旦那が言っていた処女やなかったでが嘘か真か、夕子の言っていたあの人、うちと蒲団のなかで何にもせんとただ寝て行かはるだけは嘘か真か、合評会のメンバーがどう受け取ったか訊いてみたいと思った。


 夕顔を染め抜いた着物に袖を通し、繭と三味線の糸をあしらった帯を締めようとした『湖の琴』のサクの美しさに目が眩み、紋左エ門が挑みかかった後、どうなったかについて、合評会では、事に及んだと観る者、及んでいないのではないかと観る者、若かりし頃に観たときはエロ爺さんの餌食になったと観たけれども、還暦過ぎて再見するとそうでもない気がしてきたとの三通りの応えが返って来て、なかなか興味深かった。

 僕自身は、サクが一筋の涙を流し塔が観てますと訴えたことに怯んで我に返った紋左エ門が踏み止まって、下紐までは解かなかったと観ている。エロ爺さんとして餌食にするつもりなら疾うに手を出しているはずで、紋左エ門はエロ爺などではないように描かれていた気がするからだ。本気でサクを“観音様の子”として美しく育てたいと思っていたからこそ、夕顔染めの着物の場面まで引っ張ってきているわけで、後妻に収まろうとしているマツエ(山岡久乃)などに向けるのとは違う目で観ているつもりなのに、サクが無邪気に刺激してくる己が煩悩との間での葛藤に煩悶しているように感じた。かほどに抗いがたい魅力を彼女は備えていたということなのだろう。夜更けに寝所に訪れて“怖い顔”になった師匠が戻って行った寝間に、置き忘れて行った三味線を自分から届けに訪れる程に警戒心もなく不用意なサクが無自覚に紋左エ門を惑わせることに翻弄されている姿に哀しみさえ漂っていた気がする。中村鴈治郎の名演だったように思う。

 だが、師匠が自分を女として求めてくる姿を目の当たりにしてしまっては最早、サクが留まることはできないし、かといって宇吉の元に走り、紋左エ門がよくしてくれた恩義を踏みにじることも苦しくて、居場所を失くし、死を決意したのだろう。サクもまた、本気で深い感謝を紋左エ門に対して抱いているように描かれていたと思う。そして、最後に唯一つの本願を遂げておきたくて宇吉にお嫁さんにしておくれやすと迫ったような気がした。もし、紋左エ門に犯され、身を穢されたと思っていたら、宇吉に対してそのような迫り方のできるサクではないように造形されていたと思うから、僕は、紋左エ門が最後の一線を越えずに踏み止まったと受け取っている。

 すると、主宰者が高校時分に読んだきりだと言って持参していた原作小説の文庫本をめくっていたメンバーから、師匠は早々と手を付けているとの報告があった。それどころか、マツエとサクが師匠を取り合うような遣り取りもあるとのことで、純真無垢な夕顔観音どころか、魔性の女として描かれている気がすると教えてくれた。いかにも水上勉好みだが、それでは『五番町夕霧楼』と何ら変わらない話の繰り返しになるから、同じメンバーで臨んだ映画の作り手が原作小説を大幅に脚色したのだろうと思った。

 それはそれとして、三味線の話なのにタイトルが琴になっているのは何故かという点については、僕は、琴ではなくて糸のほうが相応しい気がしていた。切れずにずっと繋がっている繭の糸からしても、宇吉からサクに贈られていた三味線の糸からしてもタイトルは琴ではないだろうと思ったわけだ。すると、原作小説をめくっていたメンバーが、特に琴にまつわるエピソードは見当たらないと言いながら、最後にサクが首を吊ったのが琴糸になっていると教えてくれた。だが、いくら何でもそれで「湖の琴」はないだろうと思うとともに、もしかすると、湖底に沈む二人の入った木箱を覆っていた、まるで花嫁衣裳のようにも映る白い着物に包まれた“夫婦”の琴瑟相和を意味する琴なのかもしれないと思ったりした。

 また『五番町夕霧楼』のほうの、西陣の旦那による水揚げ時点で夕子が未通女だったか否かについても、正順と既に済ませていたと観る者、女道楽に通じた西陣の旦那の言うように処女ではなかったが相手は正順ではないはずだと観る者、女将に偽りを言ったと観る者の三通りに意見が分かれたように思う。僕は、女将に偽ったわけではなく、西陣の旦那は本気でそう思っていたけれど、実際は初めてだったのではないかと受け止めている。水揚げ前に経験しているとするには相手が思い当たらないし、西陣の旦那が経験済みだと断じていた理由がそやない限り、あんな大胆な態度が取れるもんやないでなどという根拠薄弱なものだったからだ。女道楽に勤しんできた旦那でさえも珍重するほどに“性的に実に特異な体質の持ち主”であることを示すエピソードの一つに過ぎないと解している。そのうえで、あの人(正順)、うちと蒲団のなかで何にもせんとただ寝て行かはるだけという夕子の言葉は偽りだと解しているのだが、これについては男性メンバー三人が全員一致し、女性メンバーとは見解が異なったことが面白かった。

 そして、正順役の河原崎長一郎の演技が公開当時、評判をとったらしいがどう思うかとの問い掛けがメンバーから提起されたが、これに対しては全員一致で、それよりも敬子を演じた岩崎加根子や、かつ枝を演じた木暮実千代のほうが遥かに素晴らしかったという意見になった。両作ともに若い時分に観ていて今回が再見となった二人は、歳を重ねたことで視点が変わったことが新鮮で、若い時分と違って『湖の琴』よりも『五番町夕霧楼』のほうが優れているように感じたという意見だったが、僕は、両作ともあまり好みではないなか、初見だったせいというよりも、原作とは人物造形を改変しているらしい紋左エ門とサクの人物像から、『湖の琴』のほうが好いように感じている。




参照テクスト:水上勉 著 『湖の琴』読書感想
by ヤマ

'23. 5.20. DVD観賞
'23. 5.21. DVD観賞



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