『ドレミファ娘の血は騒ぐ』['85]
監督 黒沢清

 オープニングクレジットで脚本・助監督に万田邦敏、美術助手に塩田明彦の名を見留め、そうだったのかと感心しつつ、これがかのドレミファ娘なのかと思いながら観て、これまた堂々たるとはとても言えない「なんじゃ、こりゃあ映画」だと失笑した。

 折から映画日誌に「老いも感じている人々における恥とは何かを描いた作品」と記したまた、あなたとブッククラブで['18]と、ほぼ全てにおいて対照的な珍作だったように感じる。高齢者ではなく、二十歳前後の若者たちが「新自由心理学ー知れば知る程 恥ずかしいー」なる著作をものして、学生に「生徒は何故ですかと問うてはいけない」などと嘯く大学教授平山(伊丹十三)のゼミで“極限的な恥ずかし変異”を探っていた。人により時により意味合いの異なってしまう言葉などと違って“ブレのない絶対音”によって構成される音楽を称揚していたわりには、音楽的魅力にも乏しかったような気がする。

 平山教授や吉岡(加藤賢崇)と違って言辞を弄しない、ドレミファ即ち絶対音娘たる秋子(洞口依子)の股間から後光ならぬ陰光が射してくる場面には笑ったが、全般的に軽妙さよりも思わせぶりでスノッブなインテリ臭が漂ってきて気に障った。隠すということは、隠したい場所がどこであるのかを露わにしてしまうことというのは、確かにそうではあるけれども、これは些か恥ずかし過ぎる作品であるように感じたのは、'80年代の日本の大学を戦場に見立てて終えるエンディングのいい気さ加減に呆れたからだけでもない気がした。

 数十年来の宿題を片付けさせてくれた同窓生の映友がきっと自分でも見直したくないレベルの作品と書いていたのが可笑しかった。同時代で観ていれば、似たような世代でもあることだし、もしかすると馬鹿だなぁと笑えたのかもしれないが、秋子憧れの先輩吉岡が矢庭に彼女の処女性について言及し始めるや、'80年代作品とさえも思えぬ余りの古臭さにげんなりしてしまった。いつだってしたり顔で言辞を弄する“絶対音”とは対極にある青年の心底を露わにして揶揄しているのだとしても、些かセンスが古すぎるように感じた。

 序盤にボードに書いて掲げられていたセックスではなくロマンスをというのは、確信的な反語だろうとは思うけれども、セックスもロマンスも物語られていなかった気がする。だいたいが“新自由”などと冠すると、ろくでもない代物に成り下がるわけだが、取り立ててネオリベラリズムを撃っていたわけでもない実に緩い造りだったように思う。若気の至りというか、作り手が若い女優たちを脱がせて遊んでいるようにしか映ってこない作品だった気がする。




推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
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by ヤマ

'22. 8. 9. DVD観賞



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