『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち』['07]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち2 鬼の棲む荒野』['07]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち3 裏プロ』['08]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち4 雀荘殺し』['08]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち5 氷の男』['08]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち6 女衒打ち』['09]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち7 筋殺し』['09]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち8 邪眼』['10]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち9 麻将』['12]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち10 裏ドラ』['12]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち11 鉄砲玉』['14]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち12 付け馬』['15]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち13 壺』['17]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち14 相方』['17]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち15 麻雀の神様』['18]
『高レート裏麻雀列伝 むこうぶち16 無邪気』['18]
監督 片岡修二

 もう還暦を過ぎている僕が学生の時分、裏の必修科目でもあった麻雀は、なにせ大学の文芸サークルでのペンネームを嵌八索にしていたほど、すっかり嵌まり込んでいた代物だ。「あら?こんなのもやってるんだ」と気づいて録画したものだが、シリーズ作品がけっこうたくさんあって驚いた。学生時分の一時期、そうとう深く入れ込んでいて、学友からは「プロ雀士になるつもりしてないか?」とからかわれていただけに、気づいた以上見過ごすわけにもいかず、観てみたところ、意外と真っ当な造りじゃないかと思った。そして、傀(袴田吉彦)の発する「御無礼!」に笑ってしまった。

 第1作を観る限り、むしろ主役は、安永(高田延彦)のほうではないかと思うほど、高田延彦の出番が多かった気がする。オカや差しウマのある近代麻雀はトップを取ってこそ旨味のある勝負なのだが、常にトップ狙いで行くのか、沈まぬ麻雀を第一にするのかは、ルールによって悩ましくもある。本作でビンタと呼ばれていた強烈な差しウマに覚えはなく、5・10のウマを配原割れによって7・5・3のトップ総取りにする差しウマでしか僕は打ったことがない。それでも2位の意味合いが異なってきて、順位戦の部分が重みを増してくる。それらを踏まえた雀風の変遷部分も含めて、安永に親近感を覚えた。
 そこで、続けて観始めたところ、むろん映画的誇張やいかにも低予算映画らしい画面とか安っぽさ感満載は承知の上ながら、却ってそれが画題に合ったタッチを醸し出して似つかわしく、言わば、駄菓子の妙味というものを感じさせるシリーズ作になっていたように思う。何と言っても、麻雀のツボをよく押さえているところが嬉しい。

 第2作『鬼の棲む荒野』では、不埒なろくでなし江崎(加勢大周)が登場し、手筋読みの能書きを披露する分、前作よりも面白かった。袴田吉彦の「御無礼!」は、相変わらず笑える。今になって観ると、確かに彼には御無礼が似合っているのかもしれない。「そんな手前味噌な一点読みはあり得んじゃろ」などと思いながら、いわゆる迷彩とか筋・壁の基本はきっちり押さえた能書きに“昔取った杵柄”を触発されて面白かった。安永を演じる高田延彦の訳知り顔も妙に可笑しくて、愉しい。これなら、と3も観てみたくなった。

 第3作『裏プロ』は赤牌麻雀だった。赤を入れるのは運の作用が増すインフレ麻雀だというのは、それが流行り始めた当時、少し腕に覚えのある者がよく口にしていたことだったのを思い出した。それに抗するがごとく、赤入りを得意とするノガミの秀(松田賢二)を軸に、赤牌入りなればこそ複雑に変化してくる打ち筋、読み筋を懐かしみつつ観た。過剰に赤牌捨て迷彩をデフォルメして描いているのが可笑しく、なかなか面白かった。満貫確定、跳満未満とかの手替わりなしの局面では、敢えて切るのは常套手段だったが、それでうっかり闇聴にぶち当てると、目も当てられない運気、ダダ下がりになったりしたことを思い出した。
 物語的には、あのような常習犯に執行猶予がつくのか?とか、詩織(及川奈央)と雪乃(宮内こずえ)の決着がそれ?とか、思ったりはしたが、第2作の江崎(加勢大周)に続き、なかなかキャラの立ったゲストの登場に感心した。
 役牌絞りで流れを変える打ち回しとか、いろいろ懐かしく、傀、安永、詩織を始めとするレギュラー陣のキャラクターの座りにも安定感が増してきて、なるほどロングシリーズになっただけのことはあると納得した。

 第4作『雀荘殺し』のネタは、「通し」と「流れ」だ。流れを読む、流れを作る、というのは、麻雀に嵌った覚えのある者みな人が究極のテクニックとして目指すようになる雀道の核心部分なのだが、その「流れ」とは正反対の人為の邪道の象徴とも言うべき姑息技が「通し」である点をよく踏まえた演出だったように思う。
 通しにもコンビと壁とがあることをそつなく織り込み、コンビ技以上に壁が邪なればこそ、それを使った勝田(新藤栄作)は、これまで傀が打ち負かしてきた雀士の誰も食らっていない、雀士としての“誇り”の部分を持ち出されたうえで叩き潰されるという散々な仕打ちにあっていた。勝田が眠らせていた誇りの部分を彼から引き出すうえで傀の取った手段は、少々あざとい気がしなくもなかった。いつもは手ぶらで来て雀荘のマスターに「紙袋ありますか」と言っては大枚のアガリを無造作に入れて持ち帰る傀が自ら三千万円入りの紙袋を持参していたが、勝田が誇りを潰される部分は大事なところなので、野暮なことは言うまい。
 もっとも関西から荒らしに上京してきた勝田たちの裏ワザが恥ずべき「通し」であることを弟分のコンビ麻雀で知っていればこそ予め立てていた作戦と言えなくもない。ピン自摸の有無の差もネタに取り込んだ関西雀ゴロの登場だった。
 本作でコンビ通しの合図にしていた小手返しは、僕も手癖になっていた自摸牌隠しだが、コロナ禍前に数十年ぶりに全自動雀卓を囲んだときに、五百点棒なるものがあって驚くとともに、癖づいている小手返しをすると牌をぽろぽろ落とす体たらくに苦笑した覚えがある。最初は鈍ったものだと思ったのだが、少しして僕が頻繁に打っていた当時とは、牌の大きさが替わっていることに気づいた。だから、指の覚えている感覚と牌が馴染まずに落としていたのだった。

 第4作を観て「さぁ、五作目は、麻雀のいかなる部分をネタにしているのだろう。ちょっと楽しみになって来たが、ここいらがピークかもしれないとの危惧も(笑)」とメモに記していたところ、第5作『氷の男』は、最低技の「通し」によるコンビ麻雀が前作に続き、あら?と思ったところに、スリカエによって振り込まされる客の場面で、詩織から少牌を指摘される運びになっていた。少牌になるようなスリカエだと自摸順が狂い、上自摸下自摸がひっくり返るから、素人とはいえ、高レートのマンション麻雀に手を出すような打ち手が気づかぬはずがない。前作を観て抱いた危惧が、まさしく的中したような気になった。
 だが、ネタのほうはコンビ麻雀ではなく、来るべくして来たような“確率麻雀”だった。流れか確率かというのは、僕が打っていた時分にも比較的早期に検討したテーマだったが、大学の数学助教授を務める日陰(風間トオル)のように緻密には計算できないこともあってか、早々に「流れ」のほうを重視するようになったが、残り牌の数を読むことは純粋な確率計算とは異なるもので、そこのところも含めて日陰を確率麻雀の手練れとして描いていることにも少々違和感が生じた。キャラクター造形としての日陰も、風間トオルだし、タイトルの「氷の男」には似つかわしくないような気がした。
 もしかして、と確認してみたら、脚本からケネス徳田が抜け、片岡監督の単独脚本になっていた。今後は、これが続くようだ。

 案の定、第6作『女衒打ち』は、「1980年代は、異様な時代だった」で始まるナレーションに変わりはなくとも、映画としては、かなり変質してきて、予測どおり失速してきた。麻雀ネタで見せることに力尽き、人物ネタに転換せざるを得なくなったようだ。
 しかし、雪乃の再登場に何が始まるかと思えば、物語的には顔見世程度のものでしかなかった。前作「氷の男」のどこが氷?からすれば、実際に人気ホスト歴を誇ったらしい城崎仁がスカウトマンの打ち手を演じての「女衒打ち」なら、確かに辻褄は合っているけれども、二五八七の四面張とはいえ、二索高め九蓮宝燈の一色手で立直はないだろう?と呆れた。もっとも、自摸ったところで跳満止まりになるからだと言えなくはない。それにしても、回り回られた挙句に同じ索子での緑一色四暗刻を、きっちり二索自摸で出し抜かれるという遣り過ぎ感に唖然というか、脱力した。
 だが、いちばん呆れたのは、何じゃこりゃなラストだったような気がする。代打ち深見(城崎仁)を立てて復讐戦に臨んできたホステス麗華(街田しおん)を「御無礼!」で打ち負かしながら、大枚を容れた紙袋も提げずに雨に打たれつつ夜の街に流れていく傀の姿に何じゃこりゃ。更には、いくら城崎が演じているとはいえ、そのモテ男くんぶりで締めたラストに何じゃこりゃと呆れた。それはともかく高田延彦は、いつまで登場するのだろう。何だか、そろそろ終いになりそうな予感がした。

 第7作『筋殺し』では、いくらなんでも傀に頼み事をする安永などというのは、またそれにも増して、安永に応える傀というのは、せっかく作り上げてきたキャラクター造形を壊すものでしかない気がした。他にいくらでも運びようはあったろうにと思ったが、積込みができないはずの全自動卓でというのは、けっこうなアイデアだと感心した。全自動卓に積込み技があるとすれば、確かにこれしかなさそうだ。
 確かに、筋殺しという言葉は、あったような気がする。ただ「筋で殺された」という使い方はしても、それを仕込み技として使うというのは、むかしの少年雑誌の図解のような“何だかもっともらしい胡散臭い話”だ。筋で殺せば、その近隣牌は安全牌になるというのは順子の場合であって、対子や刻子リスクは、むしろ高まる気がするから、安全牌などとはとても言えない。だが、筋目は抜きにしても筋で殺した色目についての読み易さは、破格に向上するようには思う。
 もっとも、表世界のプロから追放された雀ゴロ前野(デビット伊東)のその技を見破ったからと言って、ああも易々と逆手に取って振り込ませるのは無理だろうが、そこは、ある意味、裏麻雀列伝としてのお約束事ではあるような気がして、了解できる。デビット伊東がけっこう好演で、前野のキャラがなかなか立っていた。

 第8作『邪眼』は、タイトルとは裏腹に他作では必ず窺える“邪心”がほとんど描かれずにドラマ的な厚みは増している快作だったように思う。鋭い見極めの眼を持つボクサー柳野(山下徹大)は“邪眼”と言うより、傀の指摘した「見え過ぎるがために勝負に行く時を見失わせる」に沿うならば、むしろ“逸眼”ではないかという気がした。いくら読み筋が確かで完璧であっても、防御だけでは勝てないのが“振り込まなくても自模られたら負ける”麻雀であり、本業のボクシングでも鉄壁のディフェンスで打たれずに勝ち上がってきた柳野の盲点が「カウンターを恐れる気持ちが勝負に行く時を見失わせる弱点」にあったことを最後に示して、勝つことの難しさ、勝負の厳しさを描き出していたように思う。見え過ぎると見えなくなるものがあるとのいうのは、まこと人の世の真理だと思う。
 柳野が自負していた一点読みは、麻雀に深入りしたことのある者誰しも求めたことがあるはずの見果てぬ幻であり、たまたまその正答率が上がって来ることが逆に自滅をも招く陥穽であることは、経験的に知っている。手出し自摸切りに加えて理牌の癖を読もうとするのは僕もかつて試みたことだけれど、そこに精力を注ぎ過ぎると却って流れを掴み損ねることもあって止めてしまったことを思い出した。闘牌には、読みも大切だが、リズムも必要なのだ。だが、盲牌時も含めた牌に対する腰の使い方で読み筋を絞ることは普通にやっていたことでもあった。何やらいろいろ触発された愉しい回だった。今回、けっこう出番の多かった雀士中里を演じている下元史朗のクレジットが数回前あたりから史朗だけになっているのは何故なのだろうと思ったりもした。
 ここまで観てきて、改めて娯楽作品における定型の強みを再認識している。一局見せてからのお決まりナレーションで始まる定型が気に入っているし、「御無礼!」の決まり文句もキャラクター設定も、長寿を誇ったTVドラマ『水戸黄門』『大岡越前』張りの安定感だと思う。

 第9作の『麻将』とは何だろうと思ったら、中国麻雀だった。お決まりの「1980年代は、異様な時代だった」の前の麻雀でのイカサマ技は、最低技の「通し」によるコンビ麻雀に更に盗撮を加えた手の込んだものだったが、傀の打開策のシンプルな正統ぶりに笑った。本作では、手作りか速和了かと共に己が闘牌の基本スタイルを左右する立直麻雀か鳴き麻雀かをモチーフにした上で中国流と日本流の役ネタも盛り込み、快作第8作に並ぶ妙味があって感心した。ここに至って遂に、高田延彦の演じるプロ雀士安永と及川奈央によるホステス詩織が姿を消したが、替わって登場した研修プロ雀士藤永(高田宏太郎)はともかく、中国人雀士張(金子昇)がなかなか好かった。
 また、傀が次々に繰り出す日本では役にならないが、中国だと高い手になるという役の数々が興味深かった。そのうち“一色四節高堆不倒”と呼ばれていたものは、僕らは“四連刻”として役満にしていたし、三色一通も一時期は採用していたことがある。傀が張に諭していた「戦略も大事だが、それ以上に注意すべきは迷いと思い込み」との弁は、正鵠を射ていると思う。迷いを避けようとして陥る思い込みも、思い込みを避けようとして陥る迷いも、いずれも闘牌最大の要点だった覚えがある。なかなか面白い回だった。

 第10作『裏ドラ』は、「和了れたからといって流れが来たとは限らない。あなたの裏ドラは、あなたの知らないところにある。」との傀の御託宣の後、ラーメン店を営む頑固な父親(村野武範)から思い掛けない言葉を得て、人生の逆転和了を手にしたプロ雀士崩れの近藤勘太(金山一彦)の話だった。今回は、イカサマ技でも闘牌手筋の読みでもなく、流れの読み一本のネタが繰り返されるだけで麻雀的妙味には乏しく、最後の締めに裏ドラを落ちネタにした小話という風情だった。話の運び手として藤永(高田宏太郎)は安永(高田延彦)に及ばず、傀の名前の紹介も中里(下元史朗)のほうに渡っていた。それにしても、「こんな時代に景気の悪い話をする奴は馬鹿だよ」などという台詞が罷り通るような時代だったとして描かれるバブル期というのは、僕には実感のないままに過ぎた時代だったけれども、全くとんでもない時代だったと思わずにいられない。

 前作から二年近くを経ての第11作『鉄砲玉』は、もう麻雀ネタが尽きてきたかのような失速ぶりだったように思う。そう感じるのは、順繰りに観てきているなかでのこちら側の飽きの問題なのかもしれないが、麻雀劇なのだから、鉄砲玉は暴力団抗争のなかでのヒットマンじゃなくて、代打ち麻雀での鉄砲玉にしてくれないとフォーカスがぼやけてしまうじゃないかと思った。

 前作で失速ぶりを嘆いていたら、第12作『付け馬』では『邪眼』以来となる詩織(及川奈央)の五年ぶりの復帰が見られた。琴音(手島優)、雪乃(宮内こずえ)らと並んでの銀座ホステス勢揃いという要素もあったかもしれないが、詩織の復帰で何だか映画の雰囲気が明るくなったように感じる。今作のキーワードは、一歩だった。どんなに高くいい手であって、いくら捨て牌に迷彩が利いていようとも、一歩遅ければ和了できない麻雀に限らず、一歩の差で変わるのが人の運命であり、それが人生というわけだ。牌の流れを掴んで場を支配できるのか、牌に流されているだけなのか。運と言わずに偶然という言葉を使っていた傀の示唆する「運と偶然の違い」というのも、得てしてしでかしがちな読み誤りであることは、少し麻雀を打ったことのある者は、みな知っている。だが、そのことを知っていることと見極められることは、また別物だ。場主の回したカネを回収する付け馬役止まりだった半端者ヤクザの郷田(ヒロシ)が、得意とする麻雀で傀と闘牌することによって、ようやくその見極めを果たせるようになるという物語だった。

 第13作『壺』には詩織が引き続き出ていると聞いていたのだが、定番となっている冒頭の闘牌場面が闘牌ならぬデカパイ巨乳女性の登場となっていて、あらら?と思っていたら、やはり及川奈央の出演はなかった。案の定、前作から二年も経過していたようだ。責任払いのパオ【包】には、おぉ~と思ったが、後の話は、塚田社長(なだぎ武)があまりに盆暗で冴えなかった気がする。ラストの傀による能書き「蛸は何故蛸壺に入るか、わかりますか?」が少し面白かったものの、中里の衣装替わりで目を引くような按配では、やはりいただけないと思う。呼び出しがポケベルだった時代の話だった。

 第14作『相方』は、シリーズ初と思える前作の完全続編だった。前作では盆暗としか思えなかった亡き塚田社長(なだぎ武)を兄と慕う住之江紀子(杏さゆり)の登場によって、塚田が只の盆暗とは思えなくなる展開に意表を突かれた。麻雀ものとして観ても、コンビ麻雀の相方とは異なる他家利用の打ち筋を見せて、なかなかの妙味があって感心。また、前作のクレジットに名のあった高岡健二がどこに出ていたのか判らなかったのが、完全続編であったがゆえに千葉の漁師町の顔役 吉井陶幻だったことが判明して、その替わり映えに感慨深いものがあった。雀荘「東空紅」のマスター(ガダルカナル・タカ)が洩らしていた“ダメ男へのダメ惚れ”なのは間違いないけれど、紀子の弁同様に、何かすっきり感が残ったところが気に入った。

 第15作『麻雀の神様』は、定番の冒頭闘牌場面が牌王位決定戦になっていて意表を突かれると同時に、画調が随分と変化している気がして違和感があった。傀が雀荘「東空紅」で「マスター、紙袋を」という定番台詞を発するのも、ここはマンション麻雀ではないのにとの場違い感が拭えず、あまり興が乗らなかった。麻雀の神様が付いていると皆が目する「すんません」の村田(宮川一朗太)のキャラは悪くなかったが、その高レート裏麻雀の場での闘牌の乱れ方のほうはともかく、平常時のツキ方と打ち回しに対しては「牌が三色とは言ってない」との呟きで了解できるものではなく、何とも納得感が湧かなかった。思い掛けなく詩織が再々登場していたが、及川奈央の佇まいが何とはなしに風貌まで違ってきている感じがしたことに加え、彼女が連れてきていた打ち手を演じた役者の棒読み台詞の御粗末さにげんなり。エンドロールによれば、今作は、矢鱈と日本プロ麻雀連盟所属雀士が出演していたようだが、冒頭の牌王位決定戦場面に出し損ねた大物を追加場面で出演させたのかもしれない。妙な貫禄だけはあった気がするが、詩織の客筋イメージではないヤクザっぽさにまた違和感があった。

 袴田吉彦による傀のシリーズ最終作と思しき第16作『無邪気』は、十年ぶりの勝田(新藤栄作)の再登場に、おっ!という気になったが、前座的添え物でしかなく、メインは旅打ちで一皮剥けたという水原祐太(賀集利樹)のほうだった。好調者の自摸を食い流すというのは、そう言えば、あったなぁと四人打ちをとんとやらなくなって久しい僕は、ちょっと懐かしい思いで観た。雪乃を演じていた宮内こずえが劇中でも宮内こずえとして女流モンド杯に出場し、前作の男子プロ雀士に対し、本作は女流のトッププロと思しき雀士を登場させていた。いよいよ以てネタ切れになって来たということなのだろう。十年余りに渡って続いてきた本作も、内容的には、第9作までのシリーズだった気がする。
by ヤマ

'22. 3. 4~ 6.16. BS12録画&チャンネルNeco録画



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