絵画資料による 江戸子ども文化論集』を読んで
中城正尭 著<江戸子ども文化研究会>

 高校時分の新聞部の大先輩で、僕の母親と生まれが同じ年である中城正尭氏の著した『絵画資料による 江戸子ども文化論集』(2021年9月1日 江戸子ども文化研究会発行)を読んだ。昨秋、著者御本人から御恵与いただいた冊子で資料収集に手を染めて35年、この分野での研究はいまだ半ばであるが、後続の優秀な若手研究者に後を託す時期が来たようだ。本書は、そのバトンタッチのためにまとめた論集である。と<あとがき>に記してあるものだ。

 通読して、先ごろ観たばかりの大河への道』の映画日誌(伊能)忠敬が測量術を学び始めたのは、五十の手習いからだったという話は随分前に仄聞した覚えがあるが、自分がそれなりの歳になってくると改めて凄いことだと思う。そうやって見つけたライフワークの得られた人生は、たとえ完成図を観ずとも幸いだったように思えるが、なかなか真似のできないことだ。と記したことを想起した。

 巻頭に、國學院大學教授で国際浮世絵学会常任理事の藤澤紫氏が<時をこえて愛されるもの -「公文浮世絵コレクション」とその研究->を寄せている同書は、「第Ⅰ章 浮世絵と子ども」「第Ⅱ章 子どもの遊びと学び」「第Ⅲ章 母子絵へのまなざし」からなる論考集で、過去に寄稿・発表したものを元に再構成しており、初出を見ると1999年から2020年に至る二十余年の集大成という形になっていた。

 映画観賞を愛好する僕は、第Ⅰ章の最初に収められた『「子ども浮世絵」ことはじめ-江戸子ども文化研究のあゆみ-』に浮世絵や絵入り本からは、文献史料のみではうかがえない、子供の日常生活の具体的な姿が発見できる。浮世絵は、当時の視覚情報媒体として広く楽しまれただけでなく、江戸の子ども文化を今日に伝える貴重な絵画史料にもなっている。P7)と記されていることについて、まさに常日頃、自分が映画に対して思っていることと重なるものを感じて、大いなる共感を抱いた。そしていずれも、必ずしも写実ではないことをふまえて扱わねばならない。P8)と付言するとともに、史料として活用するうえで必要な留意点を列挙してあることに強い賛意を覚えるとともに、リライアブルな論考であるとの意を強くした。

 このなかで、著者は母子絵の第一人者が、喜多川歌麿である。P17)と述べ、授乳場面を描いた『当世風俗通 女房風』の図版を示すとともに、歌麿の授乳の場面とよく似た西洋名画が、…ダ・ヴィンチが描いた『リッタの聖母』(エルミタージュ美術館)P17)とし、西洋絵画との比較考察を試みるとともに、母子絵と並ぶ関心事として「おもちゃ絵」に言及し、今後の研究課題だとしていたが、続く第Ⅰ章第二編『子ども絵・子ども物語絵・おもちゃ絵-子ども浮世絵の分類-』にて早速に取り上げ、第Ⅱ章の中心テーマにしている。その第Ⅱ章第二編として収められた『和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子-馬術から徒歩打毬や双六も-』に顕著に表れているように、国際的視座で子ども文化を捉えようとする意識が強く窺えて、たいへん興味深かった。

 副題に「江戸子ども文化をさぐる」と置いた第Ⅰ章第三編『浮世絵に描かれた子どもたち』に母子絵からは…多彩な育児用品の出現が読み取れるP32)として示された考察や、歌川豊国の『風流てらこ吉書はじめけいこの図』の享和年間の初版と文化初期の再版を丁寧に比較して読み取った考察(P33)などに感心しつつ、当時の“女子の芸事と出世競争の過熱ぶり”に対して、女子は、…身分を超えての出世が可能であった。としていることが目を惹いた。この点に関しては、第Ⅱ章第三編『寺子屋の学びの文化-江戸社会を支えた庶民教育-』に寺子とも筆子とも呼ばれた生徒に比べ女性の師匠や助手がやたらに多く、寺子屋見立ての美人画とされてきた。美人を強調してあるのは確かだが、この頃から女性の自立の道として女師匠が増えてきたのも事実である。P75)とし、幕臣柴村盛方が文化6年(1809)に著した『飛鳥川』には、「後家の一人ぐらしは御法度の由承る。(中略)然るに近来は素人の町家、後家の方くらし能と見えて、多く町々に有り。女筆指南も多し」とある。P75)と出典も明らかにして示していた部分が目に留まった。

 また、これらの遊びは、いわばもう一つの寺子屋でもあった。…異年齢集団のなかで年長者から教わり、遊びを通して楽しみながら学び、地域への愛着と仲間意識を育んだ。P36)との視線に、公文教育研究会で活動してきた著者なればこその教育的観点を感じて納得感が湧いた。第Ⅱ章第三編には、学びと遊びの一体化で、「遊学一如」といってもよい。P81)との言葉もあり、江戸後期には高い識字率を背景に大蔵永常のような農業ジャーナリストと呼んでもいい人物も現れ、『公益国産考』のような農書を次々と刊行、新しい作物や栽培加工技術を広く農民に紹介している。農村には飢饉、間引きなど厳しい現実もあったが、同時代に庶民がこれほど意欲的に遊び・学び・生活を楽しんだ国は他にない。その源泉は、自然発生的に生まれた寺子屋であり、子どもたちに読み書き算盤の技を伝授しながら、学ぶ楽しさをさとらせ、意欲を喚起した師匠たちであった。P81)としていた。

 第Ⅰ章第三編『浮世絵に描かれた子どもたち』では、教育観というか子育て観における国際比較として、明治期に来邦した英国人女性イザベラ・バードの私は日本の子どもたちがとても好きだ。…英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいや服従させるような光景は、日本には見られない。…P38)との言葉を紹介しつつ、江戸の子宝思想と子宝絵にも言及していた。いわば<子宝思想>が定着した時代であり、浮世絵の揃物だけでも、清長…歌麿…二代歌麿…国貞(三代豊国)…英泉…など数多くある。子宝絵の人気ぶりからも、子宝思想の普及がうかがえる。P38)とのことだ。そして、国際比較のみならずこれら子ども浮世絵が、情報媒体として江戸で生まれた新しい遊びやファッションを全国に広げた役割も見落とせない。P39)とし、地方での普及に関する実証的な研究は、今後の課題である。としたものを、三重県松坂市で発見された初期上方絵本についてのきめ細かい考察『[上方わらべ歌手本]の研究-合羽摺子ども絵本の書誌と解読-』として第Ⅱ章第一編に置いてあったことに感心した。

 そうした江戸子ども文化が学校開設と教育錦絵によって変化したことを検証していたのが、第Ⅱ章第四編『文明開化で激変した「子どもの天国」-錦絵に見る明治の子ども-』だ。明治初年には、文明開化の風潮に乗って英語ブームがおき、絵入木版摺の『童解英語図会』、教育錦絵の「英語絵まなび」等が続々刊行された。P85)とあるような部分は、書棚にある四半世紀ほど前に読んだ『「国語」という思想 近代日本の言語認識岩波書店】で目にした“森有礼と馬場辰猪の日本語論”などでも聞き及んでいたが、寺子屋教育から学年別学級編成による教師の一斉授業になったP86)ことや黒板の板書や掛図を指しつつ生徒に問いかける問答教育が中心P86)になったことでの子ども世界の激変という捉え方まではしていなかったので、とても新鮮に感じた。アメリカから導入した明治の問答教育が日本では、…小学教則が定めたままの画一的な問答にとどまった。国定教科書が登場すると「教科書暗記」が中心となり、論理的思考力や、文章・会話による自己表現力の欠如が、やがて問題となる。P88)といった記述を読むと、それが明治5年に敷かれた学制に対するものであることに驚きを禁じ得なかった。

 第Ⅲ章では、第Ⅰ章第一編で母子絵の第一人者としていた歌麿について詳述した第一編『もう一つの美人画“母子絵”-歌麿の母性愛浮世絵-』が興味深く、文献史料のみではうかがえない日常生活の具体として焦点を当て、江戸時代に子どもが子宝として大切にされたことは、子ども独自のさまざまな文化が庶民の間でも発生・普及したことに示されています。その代表が、ご覧いただいた子どもの服装であり、魔除けファッションでした。さらに子どものための玩具も絵本も、たくさん商品化されました。P120)と述べていた第二編『子ども絵にみる魔除けファッション-病魔と闘った母性愛の表象-』が面白かった。ネパールで購入した版画が西村重長の『布袋と美女の川渡り』に酷似していた話題から起こしていた第四編『布袋と美女から“おんぶ文化再考”-絵画にみる育児習俗-』では、川渡りの背負いから育児文化としてのおんぶに繋げるあたりに些か牽強附会を思わぬでもなかったが、精神分析学の北山修九州大学名誉教授の研究を引いて共視・対面・身体的接触、そして語りかけからも、おんぶは乳幼児にとって最良の育児環境であっただろうP130)と述べていることに共感を覚えた。
by ヤマ

'22. 6.13. 江戸子ども文化研究会



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