『愛の嵐』(Il Portiere Di Notte)['73]
監督 リリアーナ・カヴァーニ

 確か二十代の時分に名画座で観ている筈なのだが、記録から漏れている作品をほぼ四十年ぶりに再見した。当時、あまりピンとこなかった覚えがあるのだが、再見してみて、内容もさることながら、些か持って回った編集と演出が改めて気に障った。

 戦後十年以上経った時分のナチス狩りに対しても、まだかように過激な対抗活動が裏の顔として秘密裡に組織化されていたのかどうかについては僕の知るところではないけれども、夜働くのには訳があると零すわりには、殺人であれ拐かしであれ、平然と行い、書類を焼いても消せないものがあると言いながらあの声と肉体から逃れられないと零すマックスことマクシミリアン・アルドルファ(ダーク・ボガード)のろくでもなさと無防備さに興醒めるとともに、ルチアことエリカ(シャーロット・ランプリング)の気の知れなさには、わずか一時間足らずの“愛の嵐”に見舞われて焼け木杭に火が付いたでは、了解しがたいものがあった。

 ただ、序盤での最初の登場場面でのシャーロットには、こんなに美人だったかとえらく驚いた。

 それにしても、あれだけ周到なクラウス(フィリップ・ルロワ)たちが査問会協議をあっさりルチアが立ち聞きできるような形で行っていた無防備さや、兵糧攻め十日に至った夜の、割れた瓶のジャムを貪ったルチアの口と指にまみれたジャムをべったり舐め合って始めた交情の熱っぽさには、少々呆れた。落として割れてしまったガラス瓶の危うさにもかかわらず掬って口に入れずにいられない程の空腹を厭わぬほどの情欲がこの期に及んでまだ残っているのかと恐れ入った。とはいえ、マックスが呻きとともに果てた後のルチアの尻の覗かせ加減には観惚れたけれども。

 '70年代から'80年代にかけては「愛こそすべて」が前衛化して「性愛こそすべて」のような風潮があった覚えがあるのだが、そういう時流に便乗して人気を得ていた作品だったような気がする。異常とか正常って誰が決める?という台詞もあったように思うが、エキセントリックなシチュエイションに見合うだけの深化が得られておらず、至って表層的に感じられ、原作・脚本・監督とも女性(本作は一部男性参加あり)という点でもどちらかと言うと、2000年代におけるフィフティ・シェイズ・オブ・グレイ['15]のようなところのある作品だと思った。
by ヤマ

'22. 8.27. DVD観賞



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