『ミス・マルクス』(Miss Marx)
監督・脚本 スザンナ・ニッキャレッリ

 カール・マルクスのことさえろくに知らない僕が、その娘のことなど知るわけもなく、トゥッシーことエリノア・マルクス(ロモーラ・ガライ)の生涯を描いた本作のどこまでが史実に即しているのか覚束なく感じながらも、先駆的で聡明な意識の高い女性が、1898年に四十三歳で自死を遂げることになる姿に、社会闘争よりも遥かに困難なジェンダー闘争に敗れ去っていった先達への追悼のようなものを感じた。

 そこには、監督・脚本を担ったスザンナが読み取ったエリノアの姿が投影されているのだろうが、愛情問題が絡んでくる分、理念では割り切れない葛藤が生じ、社会闘争よりも自身のなかでの引き裂かれ感が強く、困難な闘いだったのだろう。字幕で“ねじ伏せ”と訳されていた「フォース」を父カールと事実婚の夫エドワード(パトリック・ケネディ)に共通する資質だと看破しながら、両者が余人にない巧みさで紡ぐ言葉のなかに、それらを発する当事者以上の意味を読み取って惹かれていたであろう彼女の知性が仇になっているようにも思える生涯だった気がする。

 十七歳の若き日から熱愛を育み、保ち続けていたと信じていた父カールが、自分の生まれたときから家にいる女中ヘレーネとの間に、自分が生まれる前に婚外子を儲けていたことを今わの際のエンゲルスから知らされ、強い衝撃を受けていたのは、1895年とクレジットされた章だったから、エリノアが四十歳の時ということになる。

 彼女が夫エドワード・エイヴリングと出会ったのが父カールの没した1883年の章で、1890年の章ではエリノアが脚色したイプセンの『人形の家』を二人で演じて蜜月を迎え、エドワードがカネにだらしないことを知りつつも夫としていたわけだが、女性にだらしないところまでも父親が夫と同じだったことは、彼女にとって相当に堪えたような気がした。彼女が、ろくでなしエドワードに惹かれてしまうことそのものが、亡父カールの呪縛のように思えたのではなかろうか。

 夫エドワードに対し、面と向かって「あなたに欠けているのは道徳心だ」と詰りながら、けっきょく突き放すことのできないままのエリノアが、自身のライフワークとしている社会闘争に対して、自分のなかで欺瞞を覚えるようになった挙句の行き場のなさによって果てたように映ってきた。

 エリノアの父カールについて、旧知の先輩が「マルクスは神様ではない、映画の出来はともかくそう訴える映画はこれからも出てきてほしい」とのコメントを寄せてくれたが、もはやマルクスを神格化している人の割合は、殆どなくなっているのではなかろうか。むしろ最近の動きとしては、再評価的な感じのほうが強いような気がしている。

 一冊の本も書簡も読まぬままに、三十年前に求められて今 私が思うこと「ソ連邦崩壊」》との題で寄稿した際に、乱暴にもマルクスの史観なぞに言及しているが、当時記した思いそのものについては、今も変わりのないところだ。再評価の動きが出てくるのも、いまの強欲金融資本主義のようなものがのさばってくれば、当然のことだろうという気がしている。
by ヤマ

'21.12.23. 美術館ホール



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