『春画と日本人』
監督 大墻敦

 本作でも春画研究の先駆者としてその名の挙がっていた林美一の『江戸枕絵の謎』(河出文庫)を若かりし頃に読み、もはや枕絵の領域ではないと思われた渓斎英泉の「閨中紀聞 枕文庫」の図版に驚かされたことがあるのだが、どういう趣旨のものかと訝しみ、安田義章が「性科学の百科全書として完成された」と解説するものにてその概要を僕が知った1990年頃は、内性器にボカシや消しはなくとも、外性器には処置が施されていた。だから、1992年の芸術新潮の「幕末のはみ出し浮世絵師・歌川国芳」や「あっぱれ!科学が花開かせた江戸の芸術」で外性器が鮮明に印刷されていることに、かなり驚いた覚えがある。

 それが1991年から1992年にかけて刊行された学習研究社の「限定版 浮世絵秘蔵名品集(第1期〜第4期)」によるものだと分かったことと、その経緯部分が最も面白かった。なんでも高級装丁の1巻二十万のセット販売のみで、店頭販売はしないことを警察が条件づけて認めたとのことだった。つまり、医者や会社社長などにしか手の出ない実質的な販売規制を掛けたということだ。そして、その思惑通りのターゲット層相手に大盛況となったことによって既成事実が生まれたわけだ。おかげでその十年後には、僕の書棚にもあるような2003年の福田和彦による『江戸春画の性愛学』(ベスト新書)でも、鮮明なカラー図版がふんだんに掲載されている。だから本作で、印刷物や図版がお咎めなしなのに、なぜ本物の展示ができないのか、との問い掛けが繰り返され、出版業界とは異なる美術業界の保守保身が指摘されていたのだが、それはまさに正鵠を射たものだったように思う。

 日本の美術界こそが最も春画を芸術として認めることに後れを取っていたわけだ。大英博物館の成功を受けても日本では美術館での春画展に館側の了解を得ることができず、小規模な私立博物館でしか開催できなかった顛末が本作において語られていた。そのような業界の体質と、開かれた観覧者の対照が、なんだか美術業界のことだけを照射しているようには思えなかった。

 その一方で、本作は二年前の映画なのだが、問題の本質においては、昨年の「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が顕在化させた問題に通じるものを孕んでいたように思う。永青文庫美術館と細見美術館で開催された「春画展」では起こらなかった非難が「表現の不自由展・その後」では噴出した。引き起こした現象が対照的な形になっていることが、また大きな問題だという気がする。

 作品的には、石上阿希(国際日本文化研究センター特任助教)が解説していた歌川国芳の逢見八景がとりわけ目を惹いた。国芳について林美一は、不可解なのは国芳である。彼も英泉に劣らぬデカダンな一面がある筈なのであるが、武者絵を得意とするだけあって、どちらかといえば、女絵の部類に属する枕絵の描写は、作品が多いにもかかわらず甚だ粗雑である。例えば彼はよく小用中の女性の尾籠な姿を描いているが、どの図を見ても小水が膣口からほとばしっている。そんな観察すら出来なかったのかと奇妙な感じがする前掲P182)などと記しているが、彼は“科学”の人ではなく“意匠”の人だというのが僕の印象で、そのことは、この『逢見八景』を観ても明らかだと改めて思った。これぞ、笑い絵の神髄だという気がする。初めて観たとき、よくぞ思い付いたものだと恐れ入った作品で、着想という点では、かのクールベの世界の起源も到底およばず、次元が違うという感じだ。

 そして、このぶっ翔んだ着想に対して、石上助教が「水を張った桶を跨いだ女性の股間」というようなリアリズム的観点からの解説を添えていたのがまた可笑しくて、思わず吹き出してしまった。リアルに描いてリアリズムを蹴散らかしている国芳の凄さは、林が問題にした観察がどうのという次元ではないという気がする。是非とも一度現物を観て唖然としてみたい作品だ。
by ヤマ

'20. 2. 9. 喫茶メフィストフェレス2Fシアター


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