『好きにならずにいられない』(Fusi)
監督 ダーグル・カウリ

 アイスランド/デンマーク製作の94分の作品を観ながら思わず「え?ここで終わるの?」と感じてしまった、昨今の饒舌に過ぎる日本映画との余りの差が、なんとも鮮烈だった。すっかり意表を突かれたのだが、作り手が描きたかったのは、43年間一度も女性と付き合ったことがないというオタク男のフーシ(グンナル・ヨンソン)と、躁うつ病を窺わせる女性シェヴン(リムル・クリスチャンスドウティル)の恋の顛末などではないのだろうから、あれできっといいのだと思い直した。

 束の間シェヴンから得たものがフーシにとって如何に大きかったのかを反芻しながら、僕にはとてもフーシの真似は出来ないけれども、女性との親交が与えてくれる幸福感の格別さの程には思い当るところがあるので、なにやら物悲しくも心の内に残る掛け替えのなさを噛み締める気分に同調した。フーシの得たものが、フィジカルコンタクトとしてのセックス抜きには生じ得ないないものでは必ずしもないこととともに、そうは言ってもダンス以上の肉体的接触を介することによっていや増すことも間違いない感じを、寡黙で静かなドラマのなかで巧みに描いていたように思う。

 そのうえでは、シャワー室に引き摺られ冷水を浴びせかけられるなど度の過ぎた嫌がらせを一部の同僚から受けても殆ど抗うことなく遣り過ごしていた彼が、やり過ぎた詫びのしるしだと招いたパーティに雇っていた風俗嬢に筆下ろしをさせようとしたことに対しては、荒々しい抵抗を見せて逃げ出した場面が効いていたような気がする。シェヴンを意識してとかいうのではなく、女性との関わりというものに対する彼のロマンチシズムが強く現れているように感じられた。既に古希を過ぎていると思しき母親が昼日中にダイニングルームで同じ年頃の恋人と後背位で交わっている姿に遭遇したフーシが、オタク仲間の友人にボヤくエピソードもまた、そのあたりとの関係で設えられていたものだという気がする。

 その意味では、フーシがシェヴンから得たものも、何の誰べえという個としての女性からのものではなく、言うなれば、異性としての女性から与えられたものだったように思う。そのことが、絶妙の加減で伝わってくるところに本作の一番の妙味があるように感じた。ある種の男たちにとって、女性というのは間違いなく、そういう存在なのだという気がする。奇しくも北欧映画の本作のなかに「万国共通の真理だ」といった台詞があったように、そこのところは日本に生まれ住む僕にも非常によく分かる。幼き者の存在や異性の存在が与えてくれるものを素朴に格別だと感じられることの幸いはまことにありがたいものだ。

 気が知れないとも愚か者だとも言われかねないフーシの幸いの破格さは、まさに彼がシェヴンに与えたものの大きさに見合っているということなのだろう。そういう意味では、僕も含めて人々の多くはフーシよりも幸い薄き者になるわけで、なかなか手厳しくもあったような気がする。通常なら、これ以上はないという痛烈な形で拒まれた後になお、手間隙、金を掛けて彼女を喜ばせるための鍵をポストに届けて一人旅だった彼には、おそらく誰も敵わないだろうけれど。
 
by ヤマ

'17. 2.21. 美術館ホール



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