『大放言』を読んで
百田尚樹 著<新潮新書>


 二年前に著者の小説の映画化作品永遠の0を観た際には、まだNHK経営委員に就いたばかりで、今のような醜態が露見するには至っていなかった百田尚樹だが、当時、原作に当たるまでもなくあまりに取って付けたような話の運びと話の中身に、些か興が削がれたと記した部分は決して映画化作品に留まらないものだろうと感じ、言葉とか表現に対する誠実さよりは姑息な使い方が先に立つような気がして、読む気も起らなかったら、その後、いささか見下げた品性を露わにするに至り、さもあらんという気がしたものだった。

 だから、その著作を読むことになろうとは思い掛けなかったが、シルバーウィークに帰省していた級友が「確かに問題人物だと思うが、読んでみると面白いし、一理あるところは認めるべきではないか?」と機内で読んだという本書を託してくれたので、読むことにした。「第二章 暴言の中にも真実あり」の「日本は韓国に謝罪せよ」や「第三章 これはいったい何だ?」の「本当に格差社会なのか?」、「第四章 我が炎上史」などにある種の痛快さとともに共感できる部分を級友は見出したようだった。

 読後感としては「徹頭徹尾“レトリックの御仁”だなぁ」と想定どおりの物言いに苦笑を禁じ得なかった。若い時分から“ああ言えばこう言う減らず口”とか“口では敵わない”と友人たちから言われることが少なくなかった僕は、高校時分に愛読書を問われると阿刀田高の『詭弁の話術』ワニの本(KKベストセラーズ)>を挙げ、「人(の心)を傷つけてしまうのは良いことだ。なぜなら、それだけ濃密な人間関係に立ち至っている証なのだから」などと嘯いていたから、一歩間違えば、自分が百田尚樹的な人間になりかねないところがあったことに気付かされた。

 阿刀田高が“思いたい”を現実にからませる:インチキくさい論理の展開(P17)問題点をボカし飛躍させる:スリカエ式詭弁(P22)一つの真実を十に拡大する:虫めがね式詭弁(P26)スピードとタイミングのアタック:時間差攻撃による詭弁(P30)剛球のあとの変化球勝負:笑い・笑わせる詭弁(P35)として挙げていた詭弁術の全てがあちこちに噴出していて、ロジック的には胡散臭いこと極まりないのだが、おもしろおかしい脚色や小咄という観点からすれば、快哉を送る者がいてもおかしくないキャッチ―な達者さがあるのは確かだ。全四章の第一章を「現代の若きバカものたちへ」として、政治色を抜いた撒き餌を仕掛け、読者ターゲットたる中高年男性の歓心を買えそうなネタを振り撒いて書き起こし、共感気分を煽っておいてから第二章に「暴言のなかにも真実あり」を置いて、原爆慰霊碑文、日韓問題、刑法改正などへ踏み入っていた。その際も最初の項は、第一章には入れ難い「地方議員報酬」をネタに第一章と同じ趣向を凝らしたうえで進めている。なかなか巧妙だ。そして、第三章の「これはいったい何だ?」、第四章の“大放言”とは言えない“大弁解”とも言うべき「我が炎上史」となって、これを最も言いたかったのだなと思った。

 当人からすれば、それこそ単なるレトリックであって言葉尻を捉えられても困るということなのだろうが、公に出版する書籍の原稿において無頓着にここだけの話、…(P140)などという言葉の使い方をする著者の弁を真に受けるのは馬鹿馬鹿しい気分になった。また、自分の言いたいことを他者たる「友人や知人の弁」として会話に仕立てたレトリックなど、僕自身もよくやることだからよく分るのだが、捏造した可能性の高そうな作り話や放送コント的脚色がぷんぷん臭ってきて、書いていることの何のどこまでが事実で、どこからが騙りなのか何とも信用ならない気がして仕方がなかった。

 図らずも第一章に列挙してある“7つの大罪”ならぬ7つのバカのうちの「自分は誤解されているというバカ」の項において、「他人の目は正しい」という小見出しの元に仮に周囲の人間一〇人の意見を総合して、その大半の意見が一致すれば、その人物評はまずその人の等身大をあらわしていると見て間違いない。…ただし周囲の人と言っても、あまり近い人は駄目だ。人物評価はその人に近ければ近いほどズレが大きくなるという法則を持つ。(P30~P31)などと書いている当人が、僕もいくつか読んだことのある本人自身のツイッターへの書き込み等から下されている人物評について、批判する人たちは私の言葉の一部を都合よく抜粋し、あるいは捻じ曲げて紹介し、それを槍玉にあげるのだ。実にやり方が汚いと思う(P168)といった“やり方の問題”に転嫁するのは、大いなる矛盾でもある。つまり人が評価されるのは、その人がふだん何を言い、どういう行動を取っているかということなのだ。…もしあなたが、自分は悪いように誤解されていると思っているなら、その自己認識そのものが間違っているのではないかと思い直してみることを勧める(P33~P34)とまで敢えて記してある第一章が、実のところ何のために設けられているのかについては、まさに前述した意味での撒き餌であることの証のように感じた。

 著者の弁解の多くが表現方法としての詭弁術の部分を排すると、基本的に「自分だけじゃないのに…」「他(の人or国)でもやってることなのに…」という、まさに子供の弁解と同じような論理構造しか持っていないので、逐一追うのも虚しいが、ちょうど著者自身が第二章に「ガキと議論をするな」(P92)という項を置いているので、それでいいのだろう。

 それにしても、社会問題を国対国でしか捉えられない国家主義者の発想にばかり出くわして気分が塞いだ。第二章の「原爆慰霊碑の碑文を書き直せ」の項に「主語のない不思議な文章」との小見出しで「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」の主語をおそらく主語は「われわれ日本人」だろう(P79)としたうえで、日本を七年間にわたって占領した占領軍司令部が植え付けた“戦後の自虐思想”にたっぷりと染まったもので、一つの思想を僅か七年でここまで見事に蔓延させることが出来たアメリカの政策はすごいと言わざるを得ない(P80)などと、偏に占領政策の賜物だとし、わかりやすく言えば、「日本が戦争をさえしなければ、東京大空襲も原爆もなかった。つまり、そうした悲劇を引き起こしたのは、もとはといえば自分たちのせいである」という考え方をするようになったのだ(P80)と、あくまでアメリカの教育によって植え付けられたものだと記している。

 しかし、伊丹万作が著名な戦争責任者の問題日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていた…このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかること…少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか…と書いた『映画春秋』創刊号が発行されたのは、七年どころか、わずか一年の昭和二十一年八月のことだ。百田尚樹が「おそらく主語は「われわれ日本人」だろう」と言う「われわれ日本人」の文脈は、こういうものに他ならず、少なくともアメリカの七年の占領政策で植え付けた教育によってするようになったことだと断じられるようなものではない。

 それに、百田尚樹が言うように「繰り返させませぬから」と書き改めるのなら、「過ち」などではなく「戦争犯罪」に書き改めなければ主旨が損なわれるはずだ。ここに書かれた「過ち」とは戦争であって、戦争犯罪のことではない。そして、過ちたる戦争を引き起こした“国家主義”に染まったことを悪かったと反省しているのは日本という国ではなくて、言うところのわれわれ日本人なのに、まず「日本が悪かったからだ」という思考などと日本人と日本を一緒くたにした記述をしているところが、国民も国家も同一視した国家主義者ならではのものだと感じた。こういう発想ならば、日本国憲法が国民の信託による国家に対する規範であることが理解できないのも無理ない気がした。

 同じく第二章の「日本は韓国に謝罪せよ」の項は、揶揄に満ちたレトリックの極みのようなもので、言わば、アメリカの進駐軍が日本に対して行ったようなことを、日本が韓国に対して行っていたというようなことをある種“謝罪すべき大きなお世話”として縷々述べているわけだが、ちなみに賢明なるヨーロッパ諸国は植民地に学校などは作らなかったし、植林もせず、…(P90)などといった無造作な記述を目にすると、キリスト教の布教に際して世界で行われたことなどを想起し、妙に萎えた。

 各章の項目レベルで、ほとんど違和感なく読めたのは第二章の、専門書や学術書以外のエンタメ小説を含む娯楽本の新刊をせめて一年だけはとの「図書館は新刊本を入れるな」と第三章の「自己啓発本の効能は?」のみだったような気がする。


by ヤマ

'15. 9.26. 新潮新書



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