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『ひまわり〜沖縄は忘れない、あの日の空を〜』 | |||||
監督 及川善弘
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折しも岩国米軍基地に配備されたオスプレイがオレンジルートによって高知の上空を訓練飛行するようになったタイミングで観ることになった作品だ。そのせいか思いのほか多くの観客が来ていたように思う。 2004年の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故は記憶にあるけれども、1959年の宮森小学校への米軍ジェット戦闘機の墜落事故のことは知らなかった。もしかすると、ヘリ墜落事件のときに併せて再報されたのかもしれないが、僕の記憶には残っていなかった。だが、良太(長塚京三)にとって、忘れたい、忘れられない、忘れてはならない53年前の記憶は、個人に留まらず、日本の歴史や文化として忘れずに保ち続けるべきものだと思った。同時に、考えたくないけれども考えなければならないことがあるのだとも思った。単純な解決策がないからといって避けて通るのではなく、せめて知ることから始めようということは、沖縄問題に限らずたくさんある。 そして、それはやはり若い時代に摂取しておくべきことだと改めて思った。十代の時分に新聞部や文芸部に属し、生徒会活動にも携わった僕自身は、比較的そういった問題意識に対する感度のあるほうだろうと思っているが、それが祖父母や親から伝えられたものだという意識はない。また、我が子にそういう問題意識を持つよう積極的に促したわけでもない。たくさんある問題のなかから何を特に取り上げて意識させるかについて、親の関与の仕方がどうあるべきかは、やはり難問だ。本作の琉一(須賀健太)は、53年前の祖父の体験を教えられていたわけではなく、沖縄に住む者として基地問題を意識しているのであって、そのほうが自然な姿だという気がしなくもない。 単純な基地移転を訴えているのではなく、基地があればこそ暮らし向きが立っていっている人々の葛藤も折り込んであるところが利いている。そういう形に置かれ分断されてしまうことこそがより深い問題を生み出している罪深さという視線の元に制作されているような気がした。つまりは基地だけの問題ではなく、原発利権の問題とも非正規雇用の問題とも合い通じるということなのだろう。 また、聡子先生(福田沙紀)にしても良太にしても、生き残った者が自責の念に駆られ、死なせたのは自分のせいだと思っている図は、被災や事故においてもよく見られることなのだと改めて思った。最も負うべき者が責を回避し、負う必要のない者ほど自責の念に苛まれるというのは何故なのだろう。人間というものの大きな謎だと昔から感じている。単に個人的な良心の差異の問題ではないことには気づいているが、今なお難問だ。 | |||||
by ヤマ '13. 3.10. 民権ホール | |||||
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