『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(The Iron Lady)
監督 フィリダ・ロイド


 食料品店の娘ミス・ロバーツ(アレクサンドラ・ローチ)から、結婚してミセス・サッチャー(メリル・ストリープ)になり、大躍進して初の女性首相にまでなったマーガレットは、20世紀屈指の破格のスーパーレディなのだが、そのサッチャー女史の凄さ以上に、演じているメリル・ストリープの凄さのほうが前に出て来ているような気がした。それは、作品的にはあまり褒められたことではないように思うが、ちょうど先ごろ観劇したばかりの橋を渡ったら泣け』のライブ備忘録の結語にも「間違っても無責任に強いリーダーを求める心性に流れてはいけないということだ。」と書いた僕の主旨は「権力に冒されないでリーダーやヒーローに耐えるだけの器を備えた人間など、そうそういるものではない」というところにあったので、そういう観点からすると、“鉄の女”の場合、権力を得ることによってスポイルされ増長していったのではなく、ブレが少ないからこそ強権的であり続けられたことを示唆していて、個人的なタイムリーさがあった。

 いずれにしても 「間違っても無責任に強いリーダーを求める心性に流れてはいけない」との結語への思いは変わらないけれども、その主旨には“鉄の女”ケースへの考慮も加えなければいけないように思った。そしてその場合は、ブレない過激さのほうがむしろ問題だったりする。それをもって“コラテラル・ダメージ”などとするような冷酷さで臨むことへの評価がきちんとされなければならない。

 時代的なタイムリーさという点では、折しも我が国では、タレント弁護士出身の地方政治家が、いい加減緩和措置を重ねてきている累進課税を遂に廃して、金持ちへの恩恵を今以上に強化して格差の拡大を目指そうとする暴論を真顔で語り始めた。地方交付税の廃止も含め、彼の主張の根底にあるのは徹底した強者の側の論理としての明快さと合理性であり、富裕層や大都市にとっての利益の代弁であるのだが、もともと弁護士という職自体の役割が、社会正義や真実の探求ではなく“依頼者の利益の最大限の追求”にあるのだから、大都市の首長であるエスタブリッシュメントが弁護士的発想でラディカルに仕事をしようとすれば、そういうことになるのは論理的必然ではあるのだろう。

 恐ろしいのは、それがポピュリズムと結託した場合で、当人が負える以上の責任を個人に“負託”することなどあってはならないのに、言葉として存在させれば恰も実在するかのような錯覚によって、実に安易に選挙の一事が負託であるかのような論調がまかり通る危うい時代になっているような気がする。

 映画のなかで、マーガレットが父の言葉として語っていた考えから言葉を導き出し、言葉から行動を生み、行動が習慣になり、習慣から人格が形作られ、人格から運命が作り出されるという彼女の信念は、なかなか凄いもので、運命すらも自身が作り出すまでの自己決定力を実際のものとしようとすることはとんでもない野望だが、それが途轍もないことであるだけに、実際のものとはならないことを前提にしつつも、それだけの想いでもって臨む指針とするならば、むしろ見上げたものになる。彼女の父親がどういう思いでこの言葉を娘に伝え、娘のマーガレットがどういう思いでこの言葉を胸に抱いていたかの詳細は、映画のなかで詳らかにされはしなかったが、いずれにしても、言葉は常に言葉通りのことしか表しないと同時に、その意味のほうは常に単に表されたもの以上のことを胚胎するので、同じ言葉を発していても、趣旨的には全く異なるということが往々にして起こるものだ。

 父親の言葉に沿って忠実に体現させたように思える彼女の姿は、その思想、政策とも毀誉褒貶の著しいものだったが、それにはそれなりの応分のものがあったことが判りやすく提示された作品だったように思う。だが、僕の観後感としては、あれだけあからさまに夫婦愛が謳い上げられていたのに、彼女の人生に幸福感をあまり見い出せずに終わっていたような気がする。最後に待っているのは、分厚い自伝にサインを繰り返すだけの日々でしかなく、その記憶すらも覚束なくなっていくのが人の生涯なのだろう。儚いと言えば、至って儚いものだ、鉄の女マーガレット・サッチャーですらも。



推薦テクスト:「しらちゃん日記」より
http://blog.livedoor.jp/sirapyon/archives/51941058.html
推薦テクスト:「Banana Fish's Room」より
http://blog.goo.ne.jp/franny0330/e/e8b366134e2357a4ae11812874ac80b6
by ヤマ

'12. 3.24. TOHOシネマズ3



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