『ずっとあなたを愛してる』をめぐって | |
「映画通信」:(ケイケイさん) (TAOさん) ヤマ(管理人) |
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◎掲示板(No.8247 2010/05/19 22:52)から
(ケイケイさん) ヤマさん、こんばんは。 ヤマ(管理人) ようこそ、ケイケイさん。 早速に訪ねてくださり、とても嬉しいです。 (ケイケイさん) ヤマさんが日誌に「作り手が示したかったのは、彼女の息子殺しが事実であることのみであって、その理由などではなかったのだろう。理由の如何によって是非を問うようなスタンスに作り手がないのは明白で、作り手が描こうとしていたのは、息子殺しの真相などではなく、重荷を負った人の生そのものだったような気がするからだ。」とお書きのことに関連してですが、息子が不治の病だと知った時、彼女は健康に生んでやれなかった事で、母親としてすごく自分を責めたと思います。やり場のない怒りが自分に向く事は、こういうとき母親にはありがちだったと思うんですね。 ヤマ(管理人) ほぅ。自責に留まらず、怒りを自分に向けるんですか! やっぱ、母なるものの思いの濃さというか強さって、凄いですねー(感嘆)。 (ケイケイさん) その上彼女は医師。二重の苦しみだったと思います。 ヤマ(管理人) 二重の苦しみというのは、母ならぬ僕でも理解できます。悔しさもひとしおですよね。医師としてのさまざまな場面での経験を重ね、年季を積んでいればまだしも、若い医師なれば、余計にそうだったでしょうねー。 (ケイケイさん) 一緒に死ぬのでも後追いするのでもなく、自分独りで地獄に堕ちて、罰を受けたかったんではないかと思いますね。 ヤマ(管理人) なるほどねー。 刑事罰を受けることを敢えて求めてもいたろうと御覧になったわけですね。僕は、拙日誌にも綴ったように、不治の病に見舞われていたにしても、それで殺害にまで繋がっていくところに、本当のところは釈然としない思いを抱いているのですが、それを不問にさせてしまう力を宿している作品でした。 ケイケイさんが映画日記に書いておいでの「理由よりも「子を殺した」、その罪深さの方が、ジュリエットには重要なのです。」は、そのまま拙日誌に書いた「作り手が示したかった」ことの捉え方と重なってますね。彼女が医師を職業にしていなければ、息子を殺さなかったと思うと書いておいでの部分には意表を突かれましたが、なるほどなーと思ったりもしています。 (ケイケイさん) また、「ジュリエットと定期的に面談を重ねていた彼は、同じく深い孤独に苛まれている身なればこそ、彼女が掛け替えのない時間を過ごすなかでの変化を鋭敏に感じ取ることによって、彼自身の孤独をさらに深めていったような気がする。図らずも彼女の存在は、彼に一線を越えさせるほうに追い込んだのかもしれない。人の生と交わりの綾なす運命が人知を超えているのはまさしくこういうところにあるような気がする。」と書いておいでのところに関してですが、このことがきっかけで、ジュリエットは真摯に今の自分の境遇に向かい合う事になったんですよね。 ヤマ(管理人) そうです、そうです。彼女の受けた衝撃の強さを示していたことが観ている側にも効きました。 (ケイケイさん) 自分は絶望しながら、今生に素晴らしい置き土産をしていったんですよね、フォレ警部。 ヤマ(管理人) まさにねぇ〜(しみじみ)。改めてこの作品におけるジュリエットとフォレの対照というか、もはや表裏と言っていいほどの相関に気づかせていただきました(礼)。ジュリエットの存在がフォレ警部を死に向かわせ、フォレ警部の死がジュリエットを再生に向かわせたわけですね。まこと“人の生と交わりの綾なす運命”は“人知を超えている”ものです。 -------母娘物語としての『ずっとあなたを愛してる』------- ヤマ(管理人) さて、ケイケイさんちの掲示板に僕が「ケイケイさんには“母”について伺ってみたいと思ってます」と書き込んだ件は、ケイケイさんが映画日記では一切言及していなかったもう一人の母すなわちジュリエットとレアの母親のことなんです。 ケイケイさんは、認知症になっていた彼女のことをどのように御覧になりましたか? お構いなければ、教えていただけると、ありがたいのですが。 (TAOさん) ヤマさん、ケイケイさん、こんにちは。 この映画は年頭に見たので、母親の存在をすっかり忘れてましたが、ヤマさんの日誌のおかげで、思い出しました。母心は私の担当外ですが(笑)、ジュリエットと母、2人の母親の対照は興味深いですね。 ヤマ(管理人) ようこそ、TAOさん。担当外とおっしゃりながら、早速お訪ねいただき、ありがとうございます。 作品的主題は、やはりTAOさんがmixi日記に書いておいでたように「死と再生」のほうに重きがあるでしょうし、書きぶりは違っても僕も同感です。だから、二人の母親の対照については、いいかげん長文に過ぎてしまっていた拙日誌では深くは言及しませんでしたが、興味深い対照でしょ(ふふ)。 (TAOさん) 姉娘のジュリエットが怖ろしい罪を犯したとき、妹はまだほんの子どもだった。娘がジュリエットだけだったら、母も面会に行ったと思います。でもまだ幼い娘を守るために、姉の方は捨てて“いなかった”ことにしたんでしょう。もちろん、それは自分のためでもあって、上の娘の存在を忘れることで自分を守ろうとしたのだと思います。 ヤマ(管理人) 僕も、歳の離れた妹がいなければ、母は面会に行ったと思いますねぇ。 でも、それはひとえに、TAOさんがお書きの「まだ幼い娘を守るために、姉の方は捨てて“いなかった”ことにした」のであって、「上の娘の存在を忘れることで自分を守ろう」としたとは僕は露ほどにも思いませんでしたよ。それどころか、ジュリエットが殺した息子のことを片時も忘れたことがなかったであろうのと同様に、ジュリエットの母親も、存在としては自分が抹殺した娘のことを片時も忘れなかったのだろうという形の対照を受け止めていました。 (TAOさん) 息子を我が手で死なせたジュリエットは奇しくも母から捨てられたと思ったでしょう。それゆえ、再会した母への齟齬は、ヤマさんの書かれていたとおりだと思いました。 ヤマ(管理人) ご賛同、ありがとうございます。 僕が二人の母の対照を興味深く受け取ったことの核心はここにあって、「奇しくも」とTAOさんがお書きのとおり、母親から存在を抹殺されたことに拭いがたい屈託を抱いたろうと思うわけです。それでも、彼女の場合は、自分の起こした犯罪のせいというやむなさがあり、加えて年端もゆかない妹を守るためというやむなさを察することもできるわけですが、ジュリエットが抹殺した息子においては、その二つともがないままに母親の手で抹殺されているわけで、この二人の母親の対照には、実は痛烈なものが潜んでいる気がします。 (TAOさん) 息子を我が手にかけたジュリエットは誰にも理解されないなかで苦しんだでしょうが、母親のほうも可愛い初孫を亡くし、自慢の娘が犯罪者になってしまったことへの動顛、娘を理解できないまま捨ててしまったという負い目を抱え、ジュリエットに負けないほどの苦しみだっただろうなと思います。彼女は認知症になってようやく救われたかもしれませんね。 ヤマ(管理人) 二人の母親が抱えた人生の重荷には、その軽重を問うことなど出来ないものがありましたね。認知症は救いにも見えると同時に、彼女の抱えた重荷の招いた帰結のようでもあります。 (TAOさん) でも、ジュリエットにしてみれば、ひとりだけ楽になった母親を見て、またしても「逃げた」と感じたかもしれませんよ。 ヤマ(管理人) 妹から、母親が積極的に自分の存在を抹殺しようとしていたことを聞いて、ジュリエットは、そこに「逃げ」を感じるよりも、むしろ「攻め」を感じたのではないかという気が僕はしました。彼女が窺わせていた知性と母性と意志の強さ(おそらくは、母譲りのものであった気がします)からすれば、母親が逃げて遠ざかるのではなく、攻めて捨てにかかったことを知ったのだと思います。 (TAOさん) ええ、同感です。ジュリエットの側からすれば、またしても「捨てられた」ということですね。 ヤマ(管理人) 僕は、認知症の母親と再会したときの彼女がまたしても捨てられたように感じたとは受け止めませんでしたが、きちんと向き合う機会を失ったという意味では、確かに「またしても」にはなりますね。 -------ジュリエットの母が彼女の存在を黙殺した理由------- (ケイケイさん) ヤマさん、TAOさん、こんばんは。 母親がそうしたのは、レアのことも多少あったでしょうが、基本は家に泥を塗る事をした娘、という認識があったんじゃないでしょうか? ヤマ(管理人) これは全く想起してませんでした! やっぱりいろいろな方の意見を伺ってみるものです。 (ケイケイさん) そうですか(笑)。 ピアノの挿話なんかでも、知的で文化的な面も大いに感じさせる家庭ですけど、私はレアの話を聞いて、とても厳格な家だったと想像したんですね。 ヤマ(管理人) なるほど。それはそうだったのかも。 (ケイケイさん) それと母親には「自分の育て方が悪かったから、娘が子供を殺した」という呵責の念もあったんじゃないですかねぇ。 ヤマ(管理人) 家名への泥とか育て方が悪かったとの呵責というのは、あちらのほうではどうなんだろうという気もしますが、日中韓では、そういうの多分にありそうですね。 (ケイケイさん) 呵責というのは少ないかも? ヤマ(管理人) 僕はそんなふうに思います。 (ケイケイさん) 私はオゾンの『まぼろし』を観て、亡くなった夫が自分に秘密を打ち明けてくれなかったこと対して、ヒロインが呵責も寂しさも見せなかった事に、すごくびっくりしましたから。あれは私には縁のなかった作品です(笑)。 ヤマ(管理人) 僕は、観ること自体に縁がありませんでした(笑)。 (ケイケイさん) あの母親の思いとしては、当初は切り捨てたかもしれませんが、それ以降は、自分の知っている娘でなくなっているかもしれないと、会うのが怖かったのかも知れません。 ヤマ(管理人) 自分の覚えた恐怖、ですか。なるほどね。 これも僕の想定外でしたが、そういう感覚は生じたかもしれませんね。 (ケイケイさん) ジュリエットに負けないほどの苦しみという、TAOさんに同意します。 ヤマ(管理人) ここは、我々三人に共通した見解ですねー。 -------母親を拒む反応を見せたジュリエットについて------- (ケイケイさん) ジュリエットが母との再会に当惑していた描写は、彼女が母親としては経験が浅いと言う描写だったと感じました。 ヤマ(管理人) おー、これまた新鮮です!(喜) そう来ますかって、かなり意表を突かれましたが、確かに五十歳近くになってても、母親歴は六年止まりですもんね。 (ケイケイさん) 親というのは、子供が生まれてすぐ親になるわけではなく、子供と一緒に成長するもんですよね? ヤマ(管理人) はい、そのとおりだと僕も思います。 (ケイケイさん) それが彼女は6歳で止まっていますよね。自分のしでかした事で、母の苦しみを理解するまでには至っていなかった、とあのシーンでは感じさせました。 ヤマ(管理人) 息子を殺したときは、医師としての経験不足が作用し、認知症の母親との再会時においては、母親としての経験不足が作用したわけですね。なるほどねー。 (ケイケイさん) 15年の時間というのは、ジュリエットの感情を虚無で老いさせて、本来の人としての成熟すべき時間は奪ったんじゃないですかね? ヤマ(管理人) 母親としてはそうでも、人としては必ずしもそうとは限らないように思いますよ。 (ケイケイさん) ジュリエットは、家族に迷惑をかけたという思いはあっても、傷つけたという感覚は希薄だったと思います。 ヤマ(管理人) 同感です。むしろ家族からは、已む無いことながらも自分のほうが傷つけられた感覚のほうが強かったように僕の目にも映りました。それが、あの頑なさというものに表れていましたよね。 (ケイケイさん) そう思いました。でもそれもすごく理解出来るんですね。子供を殺したんですから。 ヤマ(管理人) はい。 (ケイケイさん) それを救ったのがフェレ警部だったと感じました。 ヤマ(管理人) 最初の頃、まだジュリエットが妹を中心とした多くの人々と馴染めずにいたとき、彼女が頑なさを脱ぎ捨てることができたのは、大人のなかではフェレだけでしたね。彼と会って話しているときの彼女は、他の人々と話しているときと明らかに違って、リラックスしていたように思います。 (ケイケイさん) TAOさんが書いてる「ジュリエットにしてみれば、ひとりだけ楽になった母親を見て、またしても「逃げた」と感じたかもしれませんよ。」ですが、ジュリエットのこの辺のところは本当に「娘」の感覚ですね(笑)。これが成人した子を持ったなら、母の痛みも思いやれたと思います。 ヤマ(管理人) そうなんですよ。僕もジュリエットは、母親の抱えた重荷には想いが及んでなかったように見えました。 (ケイケイさん) 会わなかったので、彼女のほうも娘のまま、時間が止まっていたんでしょうね。 ヤマ(管理人) なるほど。確かに娘としては、そうでしたね。 (ケイケイさん) 『なくもんか』でも、認知症のいしだあゆみが、整形して別人になった娘の竹内結子がわかったでしょう? ヤマ(管理人) 確かに。そうでしたね〜。 (ケイケイさん) あの時もそういう成り行きになるだろうと思ったし、今回も当然ジュリエットの事はわかると思いました。母親ってそんなもんじゃないでしょうか? ヤマ(管理人) でも、レアに対しては、娘という認識を失ってましたよ。 その違いが何に起因するのかが興味深いところでした。なかなか設えの行き届いた巧みな脚本ですよね〜。 (ケイケイさん) レアに対しては親として真っ当できたので、心残りがなかったからでは? ヤマ(管理人) レアに対して心残りがなかったと言うより、ジュリエットに対して、心残りありすぎってことだったんでしょうね。 (ケイケイさん) 自分から縁を切った娘とは言え、レアに何かしてあげる度に、母はきっとジュリエットを思い出していたと思います。その度に辛かったと思います。矛盾しているようだけど、それが彼女たちの母だったんじゃないでしょうか? ヤマ(管理人) 同感です。 (ケイケイさん) 会わないほうを優先した母は、ある意味、猛々しい母性を持っていたのじゃないかと。 ヤマ(管理人) そうです、そうです。 (ケイケイさん) ヤマさんがお書きのように、多分ジュリエットは母親に似ているんですよ。それが認知症になって、本来の母親としての封印していた感情が湧きあがったのだと思います。 ヤマ(管理人) 同感です。 本当に、どの場面も登場人物も、全て意味を持っていて、その存在が寡黙なジュリエットの人物像を雄弁に物語っていたように思います。なかなかこんなふうには撮れないですよねー。全く大したものです。 -------母親と長女の関係のむずかしさ------- (TAOさん) 母親がジュリエットの存在を忘れたかったのは(もちろん片時も忘れることはなかったと私も思いますが)、自分に似ており、理想の分身でもあった長女がとんでもない犯罪を犯したことは、彼女のアイデンティティが崩壊するほどのショックだったと思うのです。それは「家名を汚す」以上のインパクトだろうと。 卑近すぎる例ですが、私が離婚した時の母の反応が想定外だったのです。当時、切羽詰まっていた私がすべてを打ち明けてかなり強引に母を味方に引き込んだので、その渦中は奇跡的に理解を示して見事にサポートしてくれたのですが、しばらく経ってからどうも様子がおかしくなり、妹に毎日のように電話をして私の現夫に対する悪口を言うらしいのです。そして「お姉ちゃん(=私のことです)が何を考えているかわからない」と。面と向かっては私にも現夫にも過剰なほど理解のある風を見せてくれていたので、これには私の方が驚いてしまいました。要するに、良妻賢母でお堅い優等生である彼女の中では自分と似ていると思っていた娘が離婚して別の男と暮らす、なんてことは、本来は受け入れがたい出来事だったのだと思います。娘かわいさゆえにいったんは理解したつもりでも、心の底ではどうしても納得できなかったのでしょう。一時期本当に気が狂ったんじゃないかと思うほど言うことが支離滅裂で、彼女が抱えた葛藤の大きさが察せられました。 母親にとって一方的に夢を託す分身である長女が道を踏み外すことは、そのくらいインパクトがあるわけで、ジュリエットの母親が「自分を守るためにジュリエットを捨てた」と書いたのはそういう意味です。自分の知らない娘に直面するのが怖ろしくて会えなかったのでしょう。 ヤマ(管理人) 妹を守るため以上に母親が守りたかった自分というのは、そういうことでしたか、なるほどね。アイデンティティ・クライシスに繋がってくるとなれば、確かに恐怖心も湧いてくるでしょうね。 母親のほうは担当外(笑)でも、「母親にとって一方的に夢を託す分身である長女」のほうは専門中の専門だったようですから、その経験を通じて得たものから、ジュリエットの母親の抱えた不可解と恐怖と自己防衛の葛藤をそのように御覧になったんですねー。なるほどなー。 TAOさんのパーソナルな経験を伺って思ったのは、「渦中は奇跡的に理解を示して見事にサポート>しばらく経ってからどうも様子がおかしく」の変化というのは、まさしくお書きの通り「娘かわいさゆえにいったんは理解したつもりでも、心の底ではどうしても納得できなかった」ことの露見であって、やはり一度たりとも理解には及んでなく、受容が不寛容に変転したということなんでしょうね。それからすれば、面会放棄や認知症による機会の喪失があろうがあるまいが、ジュリエットと母親が理解し合えるときは訪れなかったのかもしれませんね。 僕は、親子の間柄であれ、そんなふうに“理解し合う”ということへの囚われがあまりないせいか、拙日誌にも綴ったように、母親の認知症については、捨てた娘との十五年ぶりの再会に対する強い喜びの表現には「母親の取り繕いだと疑う余地がなく」真情であることを表現するうえでの“実に巧みな脚本の設え”のほうを専ら受け取っていました(たは)。 (TAOさん) ジュリエットの母親も、自分のような猛々しさを持たないレアに対しては、ジュリエットに湧いたような葛藤がなく、一体化もそれに比例するような失望も感じずにニュートラルに良き母親として接することができたのではないでしょうか。 ヤマ(管理人) ケイケイさんに問い掛けた、レナに対しては娘という認識を失いながらジュリエットは忘れない違いが何に起因するかの回答がここに窺えますね(礼)。 ご自身の経験を通じて感得なさった「母親が抱えた葛藤の大きさ」こそがジュリエットを忘れさせなかったということですよね。僕も同感です。葛藤の中身が、僕の場合は、“娘殺し(存在としての抹殺)”に重きがあり、TAOさんの場合は、“同一視していた娘からもたらされた隔絶した不可解の招く自身のアイデンティティ・クライシス”に重きがある「葛藤」ということにはなりますが。 (ケイケイさん) TAOさんの御体験を拝読して想起したんですが、姉妹の母親は、姉妹二人に別々の理想を描いていたんじゃないかと。 これも私の体験なんですが、私の母は女の人生として、男の子を産み、夫とも円満な家庭を築き、子供は学校でも優等生、良妻賢母を絵に書いたような人生と、きらびやかで人の注目を浴びるような華やかな人生、学校の成績も結婚も、取り立てて気にしない自由な人生と、二つ理想を持っていた節があります。両方とも自分には叶えられなかったことです。前者を私で、後者を妹で叶えたかったようです。 私が長男を産んだ時、異常な喜びようでね、「これで復讐が出来た(私の父親への)」と、病院のべットで出産直後の私を震撼させた人でして(笑)。私の暮らしぶりには、夫の学歴や職業、経済的には決して恵まれていないことなど、人に自慢出来ない点が物足らなかったでしょうが、概ね満足していたようです。私に言わなかったのは、私が傷つくというより、そういう発言は人として恥ずかしいと感じる賢さは有った人だったからです。 ところがその賢さもどこへやら、少し芸能活動をしていた妹が、誰でも名前を知っているような某企業の御曹司からちょっかいを掛けられた時、「愛人でもいいから、お金を使って磨いてもらい」と、母から言われて非常に傷ついたと、妹から泣かれたことがあったんです。相手は妻子持ちでした。妹にはそういうことが多々あって、私との接し方がまるで違うんですね。母には妹の方が似ています。 自分の思う通りにならなかったジュリエットへは、家名というより、怒りがあったんじゃないですかね? なので、自分の精神状態を保つため、会わない方向へ持っていったという、TAOさんの感想も腑に落ちました。 なので、ヤマさんが書いている「TAOさんの場合は“同一視していた娘からもたらされた隔絶した不可解の招く自身のアイデンティティ・クライシス”に重きがある「葛藤」ということにはなりますが。」が、なるほど、そうだなぁと思い当たりました。自分の抱えている、醜い部分と向き合うのも怖かったのだと思います。私の母は、自分と私が似ていると思いたがってましたよ(笑)。 (TAOさん) ケイケイさんの家とうちは怖ろしいほど似ていて驚きました! お母様の2つの理想と娘二人への託し方、接し方は、そのままうちの母に当てはまります。母自身は私と似ていると思っているのですが、本当に似ているのは妹のほうで、二人はよるとさわると喧嘩ばかりなんですよ。おかげで娘二人の仲がいいのもきっと同じですね(笑) -------母娘が理解し合える可能性------- ヤマ(管理人) 当然ながら僕は、娘の経験も母親の経験もありませんから、お二人の話をとても興味深く伺うとともに、母娘の関係って、やっぱ父息子の関係より何倍もややこしく、鬱陶しいもんやなぁと…(笑)。 ケイケイさん、三人のお子がみな息子でよかったねー(笑)。 (ケイケイさん) そうなんです、私が息子三人だと言うと、絶対「女の子が欲しかったねー」と皆さん仰るんですが、私は男ばっかりで満足なんです。話せば長くなるから、「そうなんですよ〜」と適当に言ってますが(笑)。というか、そう仰る方はだいたい母娘関係が蜜月の人ですから、言ってもわかってもらえない。 ヤマ(管理人) で、娘のケイケイさんから観ると、妹さんのほうに似てるというお母さんが、御自身は妹さんよりも良妻賢母型のケイケイさんに似ていると思いたがってる姿に付き合うのって、けっこう骨折りですよね?(あは)。しかもそれが自身の叶えられなかった二つの理想の仮託として映れば、尚のことだろうと偲ばれましたよ。 TAOさんとこも、2つの理想と娘二人への託し方、接し方が同じとのことですから、いやぁ、なかなかしんどそうだなー(笑)。 (ケイケイさん) ヤマさん、男性で良かったですね(笑)。 (TAOさん) ヤマさんがお書きになった「それからすれば、面会放棄や認知症による機会の喪失があろうがあるまいが、ジュリエットと母親が理解し合えるときは訪れなかったのかもしれませんね。」という件ですが、それについては、私は、ジュリエットが母親に心を開いて相談するなり、刑務所から心情を吐露する手紙を書くなりしていれば、きっと彼女も私の母のように精一杯理解しようとしたと思います。そう言う意味では母親を拒絶したのはジュリエットのほうが先なんじゃないでしょうか。ジュリエットがいつかそのことに気がついてくれるといいなと、私は思います。 ヤマ(管理人) 母親が収監された長女を拒絶したのと娘が母親を拒絶したことについては、僕は、後先では母親のほうが先だと思うのですが、ジュリエットが母親を拒絶したのは、妹から母親の意思についての証言を得、抱きしめられて思わず身体を強張らせてしまう反応を見せた再会のとき以前だというのは、確かにそうだなと思いました。 母親譲りという形で娘に継いだ“知性と(母性と)意志の強さ”があるからこそ、まだ幼い妹レアを守るために、母親は長女の存在を殺すのだし、彼女もそれに反応して、妹からの話を聞く前から母親を拒絶していたのかもしれませんね。抱きしめられて見せた反応は、再現に過ぎなかったのかもしれません。 で、そのことについては、聡明なジュリエットは、自らの身体反応として現われたことで最早気づいていたようにも思います。フォレ警部の自殺に慟哭までして反応したのは、その気づきが作用していたからではないかという気がしてきました。 TAOさん、ジュリエットが刑務所から心情を吐露する手紙を書けば、ジュリエットと同じタイプだと目される彼女の母親が、TAOさんのお母さんのように応えたでしょうかねぇ。もし二人がそういうふうにあれる母親だったのなら、僕は、ジュリエットは息子殺しをしてないように思うのですが。 (TAOさん) これは憶測でしかありませんが、ジュリエットは学生時代から母親の理想を担うことを拒否していたんじゃないでしょうか。そもそも夫は映画に出てきましたっけ? もしかするとシングルマザーだったのかな。とにかく子どもを産む前から母親とはうまく行ってなかった気がします。 ケイケイさんが「親だから当然娘の方から詫びを入れるべきだと思っていたんでしょうね。ジュリエットのお母さんもそうだったんじゃないでしょうか?」と書いておられますが、うちの母も妹と喧嘩するたびに「私からは電話しない」と言ってますよ(笑)。 ケイケイさんがおっしゃるように、ジュリエットのお母さんもほんとは待ってた気がしますよね。母親というものは我が子のSOSには無条件に反応するところがありますから。 ただヤマさんがおっしゃるように、それができるジュリエットなら、あそこまで自分を追いつめることはなかったでしょうね。ついでにいえば、ジュリエットには悩みを相談できる同性の友だちもいなかったでしょう。出所後、回復の途中でありながら、女王様然とした男あしらいの巧さ。同性の友だちはあまりできないタイプに見えます。 (ケイケイさん) うちの母は相当我慢していたと思いますよ、良妻賢母でありたいと思って。良妻の方は早期に放棄していましたが。今思うと、そのストレスでガンになったんじゃないかと(笑)。自分らしく自然でいられないのは、本当にしんどい事です。 私も昔は賢くなくちゃ、真面目でいなくちゃと、崩壊した家庭で必死で自分を奮い立たせていたので、ちっとも毎日が楽しくない。でもあれほど賢く思慮深い20歳はいなかったけど、今じゃ本当にボンクラですよ(笑)。あれは偽りの賢さだったんだと思います(笑)。 TAOさんとはお話していて、とても境遇が似ている事に私もびっくりしているんですが、母娘関係というのは、両極端なのかもしれません。私の周りでも、「私は母とは合わない。でも友人に話しても理解してもらえない」と愚痴る人は結構多いです。そして娘が我慢して、母親は娘と蜜月と思っているパターンが多いです。 うちの母なんか、「あんたと私は一卵性親子」と嬉々として私に言うんですよ。私が早くに結婚したのは、母から逃げたかったからです。だからと言って、決して母親が憎い訳ではないし、人としてああはなるまいと思っていても、強い情はあるわけですよ、当然ながら。その辺をお母さん大好きな人は理解出来ないんですね。「母親を嫌いだなんて、親不孝な娘だわ、私には理解出来ない」で終わります。だから葛藤を胸にしまいこんでいる女性は、たくさんいると思います。 こうして思うと、ジュリエットもそのパターンだったのかもしれません。TAOさんの「そう言う意味では母親を拒絶したのはジュリエットのほうが先なんじゃないでしょうか。」は、当たっていると思います。自分から歩み寄れば、母は必ずジュリエットの味方になってくれたと思います。今まで娘から拒絶された事のなかっただろう母親は、すごくショックだったと思いますね。秘かに獄中から彼女の便りを待っていたかも? 私の母と祖母は、はっきり憎み合ってました。15年会ってませんでしたから。母が亡くなる時、「あの子(母の事)から会いに来てくれたら、全部水に流したのに」と祖母が泣いたんですよ。親だから当然娘の方から詫びを入れるべきだと思っていたんでしょうね。ジュリエットのお母さんもそうだったんじゃないでしょうか? ヤマさんの「もし二人がそういうふうにあれる母親だったのなら、僕は、ジュリエットは息子殺しをしてないように思うのですが。」も、そうかもですね。閉塞した親子関係で、自分から赦しを希うというのは、とても勇気のいることだと思います。その勇気がジュリエットにあったなら、息子を殺さなかったかも知れません。殺してしまったのは、やはり弱かったからなんだと思います。 こうして考えると、母親の犯すネグレクトや殺人などは、その上の祖母との関係を探っていくのが、解決の糸口になるかもですね。警察関係や心理学関係の方、ここの掲示板を読んでいらっしゃるといいですね(笑)。 (TAOさん) ほんとにそうですよね。ちなみに私の母と祖母は、表面上は仲が良く普通の母子でしたが、生前の祖母が親孝行で生真面目な母には冷たく、出来の悪い叔母を贔屓にしていたのは、幼かった私にも肌で感じられましたから、やっぱり根は深そうなのです。それとやっぱり、女の子は勉強などしなくても早くお嫁に行って夫に尽くせばいいとされていた時代の抑圧も大きいのでしょうね。おかげで娘にはあれもさせたい、これもさせたいと、妄想が膨らんじゃって。 ところでヤマさん、父と息子の間にだってカラマーゾフ家のように生きるか死ぬかの葛藤があるじゃありませんか。息子にバットで殴り殺されるのはたいてい父親ですしねえ。母娘のようにややこしさはないかもしれないけれど、鬱陶しさ、抑圧の強さはたいへんなものがあると思いますよ。 ヤマ(管理人) なるほどなー(ふむふむ)。 僕は、ジュリエットと母親の拒絶の後先については、娘の犯行による収監に対して“存在としての抹殺”を企図した母親のほうが先なのは自明だと思っていましたが、ケイケイさんのお話を伺って、事はそう単純ではないことが判りました(礼)。娘は“我慢して母親との蜜月を装いながら拒絶”しているわけですね(コワ)。 (TAOさん) どうも我々バブル世代にその傾向が顕著なようで、今の20代やアラサー世代はそれほど葛藤もなく、ほんとに仲良し母娘も少なくないようですよ。 ヤマ(管理人) そうなんですか。さて、うちの娘はどうなんだろうなー(あは)。 (TAOさん) ただ母娘が仲良しで居心地がいいと晩婚化がますます進み、結婚した後も母娘がべったりで夫やその家族と馴染めないというケースもあるようです。 ヤマ(管理人) ほほぅ、過ぎたるは猶、及ばざるが如しですな。 (TAOさん) 母親から距離をとりながら、その立場を理解しようと務める苦労は、娘が自立するうえではなかなか役立っていると思いますね。 ヤマ(管理人) なるほどね。何事にも一長一短あるとしたものです。それにしても、女性の怖さというのは、こういう母娘関係のなかで涵養されてくるんですな(笑)。 (TAOさん) ついでに言うと、娘というものは、父親に対する絶対的な優位のなかで、物心付く前から男性を支配する方法を学べますし(笑)。 ヤマ(管理人) 確かに。道理で、男が女性にかなうわけがない(笑)。 それはそれとして、母親の期待に見事応えてピアノも習得し、女医にもなった長女ジュリエットはまさに“我慢して母親との蜜月を装いながら拒絶”している娘だったのかもしれません。というか、ジュリエットに限らず、わりとよく出来た長女に共通する、母親に対するアンビバレントな心情なのかもしれませんね。TAOさんもケイケイさんも、ということですから。 ケイケイさんのお祖母さんがお母さんについて語ったことというのも、本作の母娘の再会に当て嵌めると「あの子から会いに来てくれた」形にまさしくなってますよね。だから、あんなに強く喜びを表現したんですね。 でも、秘かに獄中の長女からの便りを待っていたとまでは僕は思えないんですが、娘のほうの葛藤の激しさは了解できるものの、母親のほうも、娘を存在として抹殺しながら同時に便りを待つような葛藤を抱え込んだりするんでしょうかねぇ。いや全く、女性は怖いなぁ(苦笑)。 (TAOさん) ある種の女性はしょっちゅう絶交と同時に便りを待つという葛藤を抱え込んでいるものですよー。私自身、過去に2度もかなり親しかった女友だちによる、そうしたアンビバレントな態度に昏迷し、消耗した経験があります。「女難」としか言いようのない怖ろしい経験です。 ヤマ(管理人) そう言えば、このパターンって母娘・友達という同性の間だけじゃなく、恋愛関係においても、アンビバレントな態度を発現させる女性が少なからずいるような気がしますね。まさに「女難」ですな(笑)。 この作品は、ジュリエットの再生の物語だと思っていましたが、そればかりでなく“息子を殺した母”と“娘の存在を抹殺した母”という二人の母の対照を通じて、母娘関係を描いた作品でもあったことが、お二人との談義のなかから感得できるに至りました。 いやぁ、これだから、映画談義は止められません。二人の母親の対照というところまでは感知していた僕ですが、お二人との談義なしには、到底辿りつかなかった作品理解です。どうもありがとうございました。問い掛けてみた甲斐がありました(喜)。 (TAOさん) こちらこそ、ヤマさんのおかげでそこに改めて目が向きました。 -------母娘関係の閉塞をブレイクできる存在の可能性------- ヤマ(管理人) さて、ジュリエットの夫については、僕の記憶では、息子殺しの後、彼女の不利になるような証言をしたうえで去ったことになっていたように思います。 (TAOさん) それじゃあ、夫婦仲ももともとうまくいってなかったのでしょうね。その分、息子に注ぐ愛情は深かったことでしょう。 ヤマ(管理人) なにせ絶望を死に直結させるほどの同一化を果たしているのだから、思いの深さが偲ばれますよね。あの知性の高さと意志の強さにしてと思うと、僕的には理解しがたいところがありますが。やっぱり女はコワい(笑)。 夫は、妻が息子殺しという犯罪を犯したことへの憤りを単純に行動化したんでしょうかね。母親の取った行動については、妹の口から収監後については語られましたが、捜査中ないしは裁判中のことは、出てきてなかったように思います。 ジュリエットが同性の友だちがあまりできないタイプだったとしたら、彼女の母親もまた同じタイプだったんでしょうね。 (TAOさん) きっとそうでしょうね。 ヤマ(管理人) 彼女の母親に、妹のレアのような近親者がいて、出所後のジュリエットが得たような癒しとほぐれが長女収監中の十五年間にあれば、事態はまた違ったかもしれません。そーか、そういう意味でも、彼女がほどなく夫を亡くし、母子家庭になっていた設えがうまく効いてくるんだなー。 二人の母と二つの子殺しの対照といい、ゆきずりの男とミシェルの対照といい、ジュリエットの幸運とフォレ警部の不幸の対照といい、レナを歳の離れた妹にしていたことといい、更生カウンセラーや幼い養女の配置も含め、本当に行き届いた設えだなぁ(感心)。 父と息子の対決は、TAOさんがおっしゃるように、極端には生きるか死ぬかに及ぶ、まさに“対決”ですから、息子が見事期待に応えつつ拒絶したり、父親が存在として抹殺しつつ同時に便りを待つような葛藤は、なくはないのかもしれないけれど、あまりないような気がします。やっぱり対決として表面化しちゃうことが多いんじゃないでしょうかね。 親子の間の鬱陶しさ、抑圧というのは大なり小なり普遍的なものですが、強度が高じた時に、対決に向かうのか、葛藤として抱え込むのかってとこが父息子と母娘の大きな違いのような気がします。なんでそうなるんでしょうね〜(笑)。 (TAOさん) 男は、力による支配なのでわかりやすいし勝負が付きやすいですが、女は、愛という名のもとに秘かに支配しようとするから、抑圧が表面化しにくく、意識しにくいところがあると思いますよ。ただ女性でも、私の妹などはヤンキー体質なので、”対決”志向です。妹が勝負に出るものですから、母も勝負魂を刺激されるらしく、つい最近までそれはもう怖ろしいバトルが展開されていました(笑)。 ヤマ(管理人) 愛も力でしょうから、力と愛の違いというよりも、表に出す出さないの違いなんでしょうね。男は隠すのが下手で、女性は隠すのが上手なのも道理というものです。 まぁ、おっしゃるように全ての男女が一律に機械的にはならないのが、人間の人間たるゆえんで妙味でもあるわけですが、純粋女性、純粋男性、いずれも持てるコワさをいかんなく発揮しがちなんで、やっぱ“純粋”ってのは始末の悪いものですよねー(笑)。 -------談義を終えた後に------- (石本敬子さん) 山本さん、ありがとうございました。すっきりしました。 ヤマ(管理人) ようこそ、石本さん。お訪ねくださり、ありがとうございます。 相変わらずの長文にお付き合いくださり、嬉しく思います。 (石本敬子さん) それぞれ受け取り方はあるにしても、あまりに違った角度からの某紙の記事に不安になっていました。 ヤマ(管理人) 拙日誌を綴った後に、ご紹介いただいた記事に当たってみました。 ゆきずりの男、ミシェル、フォレ警部と尽く魅了していくさまを彼女の“魔性”と評していることには確かに意表を突かれましたが、僕は、とても興味深いものを感じました。記事を書いた記者さんは、まだまだとてもお若い女性ですから、ジュリエットの生が負ったものの重みそのものに思いをはせるよりも、四十歳も越して、息子殺しを負いながらも、彼女の再生において、男女関係を抜きがたいものとして軸に置いた人生の捉え方に、とても強いインパクトを受けたのだろうと思いました。 作り手や我々のように、その歳に至っている者や既に通り過ぎた者には当たり前のこととして気にも留まらないようなことが、若者には非常に印象深いことだったりするのは、いかにもありそうなことです。 (石本敬子さん) 読みながら、記憶をなぞり、深い部分の解析に共感しながら読みました。さすがですね。 ありがとうございました。 ヤマ(管理人) こちらこそ、過分のお言葉に恐れ入ります。 お訪ねくださったことをこうして書き込んでもらえて、とても嬉しく思いました。ありがとうございました。 (ムーマさん) やっと読みました〜(キャッホウ!) ヤマさ〜ん、日誌読ませていただきました。 ヤマ(管理人) ようこそ、ムーマさん。ありがとうございます。 (ムーマさん) いつもながらにきめ細やかな書き方で、自分の感想書くまで見に来なくて正解だったと思いました(笑)。 ヤマ(管理人) きめ細かいとはまた配慮ある用語選択に恐縮(笑)。書きすぎっちゃ書きすぎなんでしょうねー。でも、そのあたり了知していただき、きちんとタイミングを計って読んでもらえるのが有難いです(礼)。 (ムーマさん) その後、さっそく皆さんの談義を最初から読んだんですが、もう本当に面白くて♪ 目一杯楽しませていただきました。(って言うような内容の映画じゃないんですが・・・いいですよね。ほんとですもん(笑)。) ヤマ(管理人) もちろんです。僕も大いに楽しみました。これだから、談義は止められないって改めて思いましたもの。 (ムーマさん) あ、でも些細なことを1つだけ。 私は、ジュリエットの母親が面会に来た彼女を抱きしめて英語で喋りだした、あのシーンは、今のジュリエットの中に、息子を殺す前の彼女、もしかしたらさらに若い頃(つまり自慢の上出来の娘だった頃)の彼女を見出して、喜んだのかと思いました。 ヤマ(管理人) 僕は、彼女の母親が“今のジュリエット”とかいう認識なく、とにかく、あの子が帰ってきてくれたっていう喜びだと受け止めました。そういう意味では、ムーマさんのおっしゃる「もしかしたらさらに若い頃」に近いのかもしれません。「自分から」などという視点は、ここでの談義のなかで初めて生まれたものです。それもここに「形にまさしくなってます」と書いたように、自分の感覚での“受け止め”というよりは“認識”として得た感じですね。 (ムーマさん) 皆さん、ジュリエットの母親に対して見方が温かいというか、大人というか、私はもっと身勝手な母親像を思い描いていたので、自分はいい歳になってもコドモのままなんだなあ・・・とも感じました(笑)。 ヤマ(管理人) そうですか? 比較的温かいのは僕だけで、ケイケイさんもTAOさんもけっこう手厳しいと思いますが(笑)。でも、ジュリエットに最も手厳しいのはムーマさんですね。ブログにお書きの感想を読みましたが(笑)。 だけど、僕もそこんとこには少し思うところあって、だからこそ、拙日誌に「その理由も語られたのだが、それでも僕には、彼女が何故に息子を殺したかが釈然としないまま残った」と書いたのでした。だから、ムーマさんがお書きになっていることには頷くところが多かったです。それは今も変わりませんが、そのうえで、ここでの談義のおかげで「絶望を死に直結させるほどの同一化を果たしている」と記したような認識をジュリエットに対して持つことが出来るようになったことで、「釈然としないまま残った」と日誌に書いた部分が随分と深まった気がしています。 (ムーマさん) でも、ほんとに面白かったです。 ヤマ(管理人) そう言っていただけるのは、まことに掲示板の管理人冥利で嬉しいです(礼)。 (ムーマさん) 他の方のお話を聞けば聞くほど、良くできた脚本なんだなあ・・・という感慨が湧きました。 ヤマ(管理人) ほんとにそうですよねー。談義の最後のほうで僕も改めて再記しましたが、本当に大したものです。 (ムーマさん) どうもありがとうございました。 ヤマ(管理人) こちらこそ、どうもありがとうございました。 |
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by ヤマ(編集採録) | |
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