『ニュー・シネマ・パラダイス』(Nuovo Cinema Paradiso)
監督 ジュゼッペ・トルナトーレ


 TOHOシネマズの“午前十時の映画祭”企画で二十年ぶりに再見することとなった『ニュー・シネマ・パラダイス』だが、公開当時の'90年2月に大阪の梅田コマ・ゴールドで観たときの印象としては、なかなか巧く作られた映画ながら、少々あざといと言うか、作り手の小賢しさが気になったような覚えがある。だが、今ちょうどジャック・ペランの演じていたサルヴァトーレと同じくらいの歳頃になって観ると、小賢しさが気に障る部分を凌ぐ感慨が、ある種の羨望として呼び起こされた。

 一つには三十年前以上に、映画を観るということが個人的なものとなっていて、かしこまらない娯楽としての共有体験という形で世代を超えて鑑賞する機会をますます失っている現状から引き起こされたもののように思うが、それ以上に大きく作用していたのは、僕自身が歳を重ね、父親としても三人の子供の巣立ちをほぼ終えて、人生の第四コーナーを回ってしまっていることのような気がする。

 親子以上に歳の離れたトト(サルヴァトーレ・カシオ)と席を同じくして小学校の卒業試験を受けたときに、トトに答案のカンニングをせがんだアルフレード(フィリップ・ノワレ)は、青年期のトト(マルコ・レオナルディ)が「アルフレードは、いつだって答えをくれる」と口にしたように、幼い時分からトトに人生を語り、生き方を教え、考えさせた比類なき師であり、父親代わりだったわけだが、最期に形見として残したフィルムがトトに与え呼び起こした原点回帰が、もしかすると彼にとっては最も嬉しく、癒しと光明を与える教えだったのではないかという気がした。

 かような形見を残してくれるような人との出会いを果たせる人生というのは、そうそうあるものではないし、ある種の行き詰まりを覚えていたと思しき映画監督に死してなおブレイクスルーを与え、きっと青年期と同様に「アルフレードは、いつだって答えをくれる」と胸の内で呟いたであろうことを偲ばせるような出来事に巡り会える僥倖に対して、ある種の羨望を抱いたような気がする。

 公開当時にも思ったことだが、ジャック・ペランの表情が素晴しくいい。

 犀星の「小景異情(その二)」に詠われていたことを忠実に実行したかのようなトト/サルヴァトーレの人生は、アルフレードが願ったとおりのものになったと言えるわけだが、形見のフィルムがあのような効用を与え得たのは、アルフレードが教えてはくれなかった代償も払っていたからであるように、僕の目には映った。

 二十年ぶりに再見したことで、エレナとの再会を描いているという3時間バージョンも観てみたいと思ったが、高知では公開されなかったし、世評も本作より劣るらしいし、きっと機会はないままなのだろう。


*室生犀星の詩集「抒情小曲集」より「小景異情(その二)」

  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや
  うらぶれて 異土の乞食となるとても
  帰るところにあるまじや
  ひとり都のゆふぐれに
  ふるさとおもひ涙ぐむ
  そのこころもて
  遠きみやこにかへらばや
  遠きみやこにかへらばや


by ヤマ

'10. 4.17. TOHOシネマズ2



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