『マルセイユの決着』(Le Deuxieme Souffle)
監督 アラン・コルノー


 三日前に観た『パブリック・エネミーズ』が'30年代のアメリカのギャングなら、こちらは'60年代のフランスのギャングなのだけれども、どちらの作品も、誇り高く決然とした主人公を押し立てていて、また、犯罪者として彼らを追う側にも、その矜持と自負を認める人物を配していて、共に“男の世界”を謳いあげていたように感じる。僕としては、物語の運びにおける納得感から、こちらのほうを、より支持したいと思う。少なくとも、一年余り前に観た仏映画『裏切りの闇で眠れ』のような、なんだか日本のヤクザ映画の影響を受けているように感じられた作品などよりは、数段上等だ。

 たまたま同時期に観た『パブリック・エネミーズ』と『マルセイユの決着』は、ちょうどまた、映画としての仕舞いの付き方が似通っていて、しかも対照的だった。『パブリック・エネミーズ』では、デリンジャー(ジョニー・デップ)の最期の呟きを上司(クリスチャン・ベイル)には教えず、収監されていた彼の恋人ビリー(マリオン・コティヤール)に伝えるために面会に赴いたウィンステッド捜査官(スティーヴン・ラング)がなかなか渋くて味があった。同様に、『マルセイユの決着』でのギュスターブ・マンダ(ダニエル・オートゥイユ)が残した“デリンジャーと同じ内容の最期の一言”を、彼の恋人マヌーシュ(モニカ・ベルッチ)には教えずに、その遺志を汲んで、彼の手帳に残されたメモを新聞記者にリークしたブロ警視(ミシェル・ブラン)に、なかなか渋い味があったように思う。

 マヌーシュは通り名で本名をシモーヌという彼女には、ビリーと違って、亡き想い人ギュと互いに畏友関係にあるスタニー・オルロフ(ジャック・デュトロン)がいて、彼もまたギュの遺志を汲み「さよならマヌーシュ、こんにちはシモーヌ」と彼女に声を掛け、新たな人生への踏み出しを促すわけだが、英題にすると“The Second Wind”となるらしい原題が示している「二番目の風」というのは、スタンやシモーヌが堅気になる第二の人生をも指し示していたような気がする。
 もちろん一義的には、囚人仲間の若者に促されて、負け犬を自認していた十年もの収監暮らしから脱獄し、過去の大物で終わりかけていたところを抜け出たギュが、十五年前の遺恨も絡んでいることが仄めかされたジョー・リッチ(ジルベール・メルキ)との間に“決着”をつけるとともに、死して“暗黒街での男伊達”に名を残した脱獄後の数ヶ月のことを指しているのだろうが、原題からすると二番目の意味も込められていて当然という気がしてならない。
 また『パブリック・エネミーズ』におけるデリンジャーの盟友“レッド”のようなアルバン(エリク・カントナ)の存在がまたなかなか効いていたように思う。“男の世界”を謳いあげるには、やはりこういう押し出しの余り強くない盟友の配置が欠かせない。

 唯一の不満は、ギュとマヌーシュのベッドシーンだった。着衣のままで映し出すくらいなら、クラシック作品さながらにカットしたほうがまだましで、どうにも中途半端だ。ダニエル・オートゥイユもモニカ・ベルッチも決して若くはないが、若くはないがゆえに表現できるはずのものがあるのは、八月に観た『その土曜日、7時58分』を想起するまでもないことで、今の時代にリメイクするなら、かつては出来なかった領域をも目指してほしいものだ。シドニー・ルメット監督が八十歳を越えてなお『その土曜日、7時58分』を撮り上げたりしているのに、二十歳も年下のアラン・コルノー監督がこれでは、ちょっと情けない気がしなくもない。
 それにしても、これだけの作品が都会の映画好きの友人たちの間でちっとも話題になっていなかったのは、何故なのだろう。
by ヤマ

'09.12.23. あたご劇場



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