『容疑者Xの献身』を読んで
東野圭吾 著<文藝春秋>


 映画化作品を観たときの日誌に、「おもしろい、わからない」が口癖の湯川(福山雅治)と「興味深い」を繰り返して口にしていた石神と記したが、原作でも同じ対照で台詞になっていて思わずニンマリした。映画でとても気に入った「これに勝るもてなしはないよ」と湯川が微笑んでいた場面は、原作でも「ろくな持てなしができなくて申し訳なかった」「最高の持てなしをしてもらったさ」湯川は目を細めた。(P110)とまさしくそのままだった。

 「人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか。ただし、解答は必ず存在する。どうだ、面白いと思わないか」「興味深い問題だ」石神は湯川の顔を見つめた。(P148)「興味深かった」石神はいった。「以前おまえにこういう問題を出されたことがある。人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか―覚えているか」「覚えている。僕の答えは、問題を作るほうが難しい、だ。解答者は、常に出題者に対して敬意を払わねばならないと思っている」(P267)との石神に対し、湯川のほうは人間観察は僕の趣味でね。なかなか面白い(P187)という少々ニュアンスの異なる用法だったが、両者の台詞をうまく対照させていた映画化作品は、なかなか大したものだと思った。

 雪山のエピソードと内海刑事(柴崎コウ)の存在以外は、ほぼ完璧に原作通りの映画化作品だったが、思い返せば、二大主題とも言うべき“友情と恋愛”における、石神の心境の綾を言葉で積み重ねている小説に対して、雪山登山の場面は、それを端的に表現をする手立てとして映画的に有効で的確だったような気が改めてした。

 草薙刑事の実際に手を下したのも、死体を処理したのも石神だとすると、それはもはや共犯じゃない。奴が主犯、さらにいうと奴の単独犯ということになる。いくら惚れているとはいえ、そこまでやるとは思えない。靖子に裏切られたらおしまいだからな。彼女にも、何らかのリスクは負わせたはずだ(P214)との台詞に対応する湯川の彼はあなた方を守るために、大きな犠牲を払ったのです。僕やあなたのようなふつうの人間には想像もできない、とてつもない犠牲です。彼はたぶん事件が起きた直後から、最悪の場合には、あなた方の身代わりになることを覚悟していたのでしょう。すべてのプランはそれを前提に作られたのです。逆にいうと、その前提だけは絶対に崩してはならなかった。しかしその前提はあまりにも過酷です。誰だってくじけそうになる。そのことは石神もわかっていた。だから、いざという時に後戻りが出来ないよう、自らの退路を断っておいたのです。それが同時に、今回の驚くべきトリックでもありました。(P321)との台詞を読んで、映画化作品を観たときには、ホームレス殺人を“自らの退路を断つためのもの”という側面を十分に理解していなかったことに気付いた。退路を断つ必要性によってホームレス殺人に対する納得感が大いに補強されるとともに、石神の計画の周到さに改めて舌を巻いた。

 それにしても、ストーカーを演じ「あの女は……花岡靖子は」石神は顎を少し上げて続けた。「私を裏切ったんです。ほかの男と付き合おうとしている。私が元の亭主を始末してやったというのに。彼女から悩みを聞かされていなければ、あんなことはしなかった。彼女は前に話していたんですよ。あんな男、殺してやりたいとね。私は彼女の代わりに殺したんだ。いわば、彼女だって共犯なんだ。警察は、花岡靖子も逮捕すべきです」(P289)と警察に出頭し、「あの女は少し反省している様子だったか。俺に感謝していたか。厄介者を始末してやったというのに、自分は何の関係もないと、しゃあしゃあと語っているそうじゃないか」口元を歪め、性悪を演じる姿に、草薙は胸が詰まった。人間がこれほど他人を愛することができるものなのかと感嘆するばかりだった。(P349)とまで描かれる彼に対しては、映画化作品同様、靖子母娘への愛情以上に、その人生における孤独の深さと虚無を強く感じないではいられなかった。

 さればこそ、映画で効果的に連続カットで回想されていた首吊り自殺未遂とその後の顛末は重要なわけで、当然ながら原作でも花岡母娘と出会ってから、石神の生活は一変した。自殺願望は消え去り、生きる喜びを得た。二人がどこで何をしているのかを想像するだけで楽しかった。…数学も同じなのだ。崇高なるものには、関われるだけでも幸せなのだ。名声を得ようとすることは、尊厳を傷つけることになる。 あの母娘を助けるのは、石神としては当然のことだった。彼女たちがいなければ、今の自分もないのだ。身代わりになるわけではない。これは恩返しだと考えていた。彼女たちは身に何の覚えもないだろう。それでいい。人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある。(P345)との心境と動機が明かされる。美しくも余りに悲しいモテない中年男の姿だ。だからこそ、湯川が草薙に言いたくないと語っていた“石神への疑念が生じた契機”について彼はこんなことをいったんだ。君はいつまでも若々しい、自分なんかとは大違いだ、髪もどっさりある―そういって自分の頭髪を少し気にする素振りを見せた。そのことは僕を驚かせた。…外見や容姿を気にせざるを得ない状況にいる、つまり恋をしているのだとね。(P312)という部分が残酷に利いてくるように感じられた。

 恩義ある石神よりもお洒落な工藤のほうに惹かれていることを娘の美里から咎められていた靖子が、最後に石神の献身の深さを知っても尚、警察にいって、すべてを話してしまおうかと思う。だがそれをしたところで石神は救われない。彼もまた殺人を犯しているのだ。工藤からもらった指輪のケースが目に留まった。蓋を開け、指輪の輝きを見つめた。こうなってしまった以上は、せめて石神の希望通りに、自分たちが幸せを掴むことを考えるべきなのかもしれなかった。彼が書いているように、ここでくじければ、彼の苦労は無駄になってしまうのだ。真実を隠しているのは辛い。隠したまま幸せを掴んだところで、本当の幸福感は得られないだろう。一生自責の念を抱えて過ごさねばならず、気持ちが安らぐこともないに違いない。しかしそれに耐えることが、せめてもの償いなのかもしれないと靖子は思った。指輪を通してみた。ダイヤは美しかった。心に曇りを持たぬまま工藤のもとへ飛び込んでいけたらどんなに幸せだろうと思った。だがそれは叶わぬ夢だ。自分の心が晴れることはない。むしろ、心に一点の曇りも持っていないのは石神だった。(P341)との心境だったことが明かされていた。にもかかわらず、彼女は自首するに至ったわけだ。それは、娘の自殺未遂の知らせを受けてからだったのだが、映画化作品では割愛されていたような気がする。原作のほうが説得力があるのかもしれないが、石神の献身の深さだけでは靖子を動かせなかった事実の残酷さが強く残ってしまうので、僕は映画化作品の顛末のほうが好きだ。

by ヤマ

'13. 5.25. 文藝春秋



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