『闇の中の魑魅魍魎』
監督 中平康


 先頃、わが道を観たばかりのところに続いて新藤兼人脚本の旧作を観る機会を得た。公開時に観た覚えはなく、12年前の美術館ホールでの再映時に観たのだが、ロケ地にもなった赤岡での再映は、公開時以来だというから37年ぶりということだ。昨年開館したばかりの“弁天座”というこぢんまりとした芝居小屋の初めての自主企画上映会でもあったわけだが、絵金の町赤岡に縁の映画ということで、一も二もなく選ばれた作品だった。向かいに建っている絵金資料館とも言うべき“絵金蔵”の観覧券付きで前売り1200円というお得な上映会で、市外から集まった観客の姿もかなり見受けられた。

 「当時エキストラで出ていた人は、名前を寄せ書きにしていって」というボードを出していたり、ロケ当時の縁の品々や写真・サインなども展示されていて、芝居小屋での上映会というだけでなく、場の雰囲気がとてもいい。中平康監督は高知に縁のある方らしいが、ちょうど没後三十年にも当たる年にこういう上映会がされたのは、とてもいいことだったように思う。映画会の相談を受けて、ほんの少し世話をしてあげたのだが、予想以上の来客に賑わっている様子を見て、気分が良くなった。

 12年前に観たときは、髪結いの子から名字帯刀を許される士分格と林洞意の名を得た絵金の個性的で癖のある人物像と彼の破天荒な生き様を描いた作品という印象が強かったように思うが、今回観直すと、異端の絵師金蔵の個性や生き様は、彼自身に拠るところ以上に、魔性を帯びた三人の女性の手によって生み出されたものであるように描かれている気がした。

 元々は、今で言うオタク的な籠もり系の青年だった金蔵(麿赤兒)が、かなりエキセントリックな母親クメ(稲野和子)の思い入れの元に、師匠(岡田英次)に付かされて画才を鍛えられるなかで、非凡な才ゆえに、絵に写し取るべき真実の探究にもがいていたわけだが、そんななかで出会ったのが雪(扇ひろ子)や徳姫(加賀まりこ)といった魔性の女たちだったことが金蔵にあのような道を歩ませたように、僕の目には映った。とりわけ徳姫の触発は大きくて、前に観たとき、貧しい農民たちを庇って一揆企ての責を一身に被り切腹した父親の死後、自己破壊願望に囚われて士分格の庄屋の娘から遊女に身をやつした雪を、友の武田市之助(江守徹)の執心を踏みにじり贋作描きに手を出してまで身請けして娶った金蔵が、友人や師匠から咎められながらも彼女に魅了されていくなかで、彼の内にあった常識や体裁・権威といったものからの逸脱と破壊を志向する心が表に現れていくようになったとの印象を残していたことに対し、今回の再見では、金蔵を最も触発し、逸脱と破壊の心を植え付けて、ある意味、狂わせたのは、絵師金蔵を屋敷に呼びつけ、その目の前で、不義密通の咎を負う男女に刺殺心中をさせたり、不義の懲罰に女体の背一面に刺青を彫らせて女が苦悶の呻きをあげる様を見せつけていた徳姫だったような気がしてならなかった。だが、いずれにしても金蔵という男の持つ個性である部分よりも、三人の女性によって誕生させられた異端絵師には違いなく、そうして観返してみると、なるほど新藤らしい脚本だとも思う。男というのは、所詮そんなものだろうという気がする。そして、異端の絵師金蔵をアンシャンレジームに対する破天荒な革命家として描いている点が、いかにも1971年という時代を感じさせてくれるようにも思った。

 それにしても、三人の女性の魔性の対比が強烈だった。雪の無邪気の魔性、徳姫の邪気の魔性、母クメの盲目の魔性というのは、女性の持つ三魔性とも言うべきもののような気がするが、三人の女優の個性が絶妙に活かされていずれも際立っていた。そのような魔性に晒されて、男が事もなく生き延びられようはずもない。絵金が破格の才を開花させ得たことについて、彼女たちの存在を抜きにはできないのであろうが、強烈な魔性を放つ女性に翻弄されていたようにも見え、あまり羨ましくはなく、むしろ災難のようにさえ感じられた。ラストカットで大写しにされた絵金の形相は、まさしく彼の描いた芝居絵『浮世柄比翼稲妻』の幡随院長兵衛さながらに、左右の目の指す視線の向きを違える異様な相貌を麿赤兒が体現させていて圧巻だったが、その凄絶なる苦悶とも映る形相が駄目押しをする形で、そのような印象を与えていたような気がする。
by ヤマ

'08. 5.25. 赤岡町弁天座



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