『やわらかい手』(Irina Palm)
監督 サム・ガルバルスキ


 二十代の時分から観たいと思っていた『あの胸にもういちど』('67)を僕が観たのは、五年前の県立美術館の企画上映“モンドムービー探訪”でのことだった。ジャンプスーツに身を包んだマリアンヌ・フェイスフルの颯爽とした格好の良さと魅惑の肢体に目を奪われるとともに、思いのほか前衛的な映画の作りにも魅せられた覚えがある。そのときからちょうど四十年を経て、若い頃のイメージとは打って変わった彼女の演じた、寡黙で慎ましく母性豊かで辛抱強いマギーの姿が味わい深い作品だった。

 難病を抱えた孫息子オリーの命を救う最後の手段として、オーストラリアでの手術を受けるのに必要な渡航費用をわずかな期間で稼ぐために、ロンドンの歓楽街ソーホー地区の風俗店に務めるようになったマギーが、息子の妻サラが深い感謝の思いで用意してくれた航空券を受け取りながらも、息子家族とともにオーストラリアに向かう旅支度のまま渡航を止めて“ラッキーホール”のオーナーであるミキ(ミキ・マノイロヴィッチ)の元に向かう決意をしたのは、いつの時点だったのだろう。サラの気持ちを汲んで航空券を受け取ったときからだったようにも思うし、近所に住む老女仲間との付き合いとの訣別を決めたときからだったようにも思うし、空港への搬送車のなかで横たわるオリーの顔を観たときだったようにも思うのだが、僕としては、ミキの元に向かう決意から渡航を止めたのではなく、孫息子に久しぶりに会えて、彼のために少しでも倹約しなくてはならないことを改めて強い実感として味わったことで、ロンドンに残る意思を固めたような気がした。サラが「私はお義母さんを誤解していました。」と言っていたときに指していたのがどういうことなのか、単に孫の見舞いのための来院頻度が間遠くなったことを言っているのではなさそうな様子を窺わせながらも、映画のなかでは明示されなかったような気がするが、こういった事々にも表れているように、非常にニュアンス豊かな作品だったと思う。

 僕の目を惹いたのは、孫のために実母マギーが売春婦まがいの風俗業で大金を手に入れてきたことに対して激昂して怒っていた息子トムの姿だった。「身を挺して稼いでくれた」とサラの気持ちが感謝に向かうことに対して、トムがそうなれないのは、彼が繰り返し非難していた稼業の卑しさによって自分が穢されたように感じてしまう実母子関係を示していたのかもしれないが、そう思うと同時に、それ以上に、自分の息子のために必要な金を用立てられずに年金暮らしの母親にそんなことをさせるまで追い込んだ自分の甲斐性のなさと向き合わされることへの怒りが、母親のほうに向けて迸っていたようにも思う。確かに褒められた稼業でないのは、マギーとて百も承知なのだが、身近にあればあるほどに非難や反発を向けてくる人々を恐れ隠そうとしていたことに対し、向かい対象化できるようになってきたことにおいて、最も大きかったのは、やはり行き掛かりのようなものだった気がするが、ミキがマギーに向けてくれた視線のもたらしたものも決して軽くはなかったように思う。その異能を発揮した分野が何であったにせよ、人にとって最も必要なものは、“認められ、理解され、必要とされること”という至極当たり前のことが、なんかしみじみと伝わってくる作品だった。

 風俗的なところでもいろいろと興味深く、一体いつの頃のロンドン、ソーホー地区を舞台にした作品なのかが気になった。確かケータイは出てこなかったように思うし、ミキがトウキョウで流行っているのを取り入れたと言っていたから、かなり前のことにはなりそうだ。あの手の風俗が日本で流行り、“ゴッドハンド”と呼ばれる売れっ子が週刊誌などで取り上げられていたのは、僕が学生時分のことだったように思うから、三十年近く前になる。ミキがトウキョウから移植してきたのもまだ日が浅く、他の追随業者がまだそうは多くもない状況だったように見えたから、やはり四半世紀前のロンドンなのだろう。元祖“ラッキーホール”の日本でも、最早風俗業としては廃れてしまっているのではなかろうか。もっと直接的に身体接触が安価に得られる売春が横行するようになっている気がする。売春よりもこちらのほうが、むしろ職人技と言うべき技巧や資質才覚を要する技能職とも思えるからして、ミキが自分でもこっそり試してみて“得難い感触”と語っていたような超絶技巧による手淫というものを僕自身が味わったことがないせいか、ああいったことに行列を為して順番待ちをする客たちの心境が計りがたいものの、その光景自体は、世の東西を問わない普遍的な姿なのだろうとは思う。ラッキーホールなどという相手の姿も形も手肌さえ見えない、怪しげな妄想全開系の風俗ではなくて、対面式のいわゆるヘルス系の風俗でも同様に、順番待ちの大行列が出来る“ゴッドハンド”と呼ばれる売れっ子がいて伝説化していたような記憶もある。また、そこまでには至らない風俗嬢であっても、腱鞘炎は彼女たちの職業病だという話には聞き覚えがあったので、マギーが罹患したことには驚きがなかったが、それを風俗嬢たちがテニス・エルボーならぬペニス・エルボーと命名していたことについては初めて耳にしたので、何とも笑える新鮮さがあった。巧い命名だと感心した。

 よく「職業に貴賤なし」といったことが言われるのだが、僕はそんなことはないと思っているようなところがある。但し、職業それ自体の貴賤というよりも、職業によって貴賤が生じると言ったほうが適切なのかもしれない。貴に上りやすい職業と賤に陥りやすい職業があるということであって、破格の報酬を得たり強い職権を得たりする職業は、やはり賤に陥りやすいところがあるように思う。そういう意味では、政治家とか風俗嬢はとてもリスキーな職業だし、農林業や職人などの物作りにはリスクが少ないような気がする。マギーの姿が味わい深く映るのは、日が浅いということがあったにしても、彼女がそのリスクの高い職業のなかで、心に荒みや窶れを来すどころか、むしろポジティヴに自己革新を遂げていたからだと思うのだが、現実にはこれはなかなかむずかしいことのような気がする。八年ほど前に読んだ菜摘ひかるの著作『恋は肉色』には、性感マッサージからSMクラブ、ホテトル、ソープランドとさまざまな風俗業種を渡り歩いた著者が仕事や客、同僚や自身に向けた透徹したまなざしに清冽なきらめきと知性が感じられ、靭さと哀しみに彩られた彼女の肯定感に強く惹かれた覚えがある。そのときの肯定感を彩っていた靭さと哀しみというのは、まさしく荒みや窶れ、賤に陥りやすいリスクに負けない靭さであり、身を挺してリスクを負わずには済まない仕事の哀しみだったような気がするのだが、マギーの踏み入った業界の様相にもきちんとそういった佇まいが捉えられていて、二十年余り前に観た、秋野暢子がソープ嬢を演じた『片翼だけの天使』のような甘さを注意深く削いだうえで、納得感のあるファンタジーに仕上げていたところが、なかなかの作品だったように思う。


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20080203
by ヤマ

'08. 3.25. 美術館ホール



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