『トリスタンとイゾルデ』(Tristan & Isolde)
監督 ケヴィン・レイノルズ


 ワーグナーの歌劇としてその名は知れど、物語は何も知らずに来ていたから、思いのほか面白く観た。特にイギリスの歴史にアイルランドの側に優位に立たれていた時代があったことが僕の覚えにはなかったので、とても意外に映るとともに、妙に新鮮だった。
 なかなか風格のある画面で、下手をすれば『ザ・センチネル』のごとき脱力をもたらしかねない“いやはや やれやれの恋”を、ある種の品格を湛えて綴ることに成功していたように思う。そのうえでは、なんと言ってもコーンウォールの領主マーク王(ルーファス・シーフェル)のキャラクターが効いていたように思う。妻イゾルデ(ソフィア・マイルズ)への惚れ込み方にしても、トリスタン(ジェームズ・フランコ)とイゾルデによる裏切りとも言える不義密通への向かい方にしても、トリスタンに焦がれつつもイゾルデが敬愛の情を傾け、トリスタンがイゾルデへの想いを募らせつつも苦しみ罪悪感を募らせるに足る人物であることに説得力があったからこそ、二人の恋の苦悩に納得感が備わったように思う。そして、画面の風格とともに、マーク王の品格が投影される形で、この物語に悲恋としての美を宿らせていたような気がする。
 思えばアラゴン領主の遺児トリスタンは、幼き頃にマーク王に引き取られ育ててもらう前に一度死にかけ、アイルランド王の娘イゾルデと出会う前にもモーホルトの毒塗剣による負傷で死にかけていたのだ。だから、元々なかったような生命からすれば、マーク王と出会えたこともイゾルデと巡り会えたことも果報と言うべき人生にも見えるわけで、悲恋に命果てつつも、彼が求めた義も名誉も共にからくも守り得つつ愛に殉じた生涯は、ある意味、申し分なかったようにも見受けられる。それよりも、マーク王を慕いつつも認められない不遇さに、遂には逆心を抱くまでに至ったマーク王の甥メロートの哀れさは、トリスタンとの器量の違いと言ってしまえばそれまでなのだが、幼い時に身寄りなきトリスタンに奢った態度を取ったりしてはいても、長じてそれなりの人物然としたところも窺わせていただけに、人の世の無常を偲ばせていたようにも思う。元々の物語がどのようなニュアンスで伝えられているかについての知見は僕にはないが、この映画に描かれたメロートには明智光秀を想起させるところが強くあって、とても興味深かった。
 トリスタンとイゾルデの逢瀬にしても、単に王の目を盗んでの密会ということでの外聞面からの許されざる愛というだけならば、かほどの興趣は醸し出せなかったはずなのだが、トリスタンもイゾルデもともにマーク王を敬愛し慕っているなかでの止みがたさに、いささかも卑しさや横着さが漂っていなかったところに感心した。イゾルデの乳母の台詞にも出てくる“若気の至り”のなかで身勝手さばかりが際立ちかねない恋に、やむなき熱情のほうを強く印象づけて品位を醸し出すには、当のマーク王すらが認めた二人の真摯さと運命の悪戯という形を調えることで外側からは文句を付けさせないという作劇的な周到さが功を奏している面があるように思うが、それもまた、マーク王の人物面での説得力があってこそのものだという気がする。
 イゾルデの自由に憧れる大胆さや奔放さと共にある自律性が確かに造形されているなかでの揺らめきが、なかなか微妙で目を惹いた。肉感的なボリューム感も手伝って、マーク王が自ら惑溺ぶりを懸念するほどに惚れ込んでいくことにも納得感があった。なにせ彼は、妻の不義密通について馴れ初めからの顛末を妻から直接聞けば、赦しを与えざるを得なくなるほどに妻を愛していたわけで、イゾルデの幸福を想えば、自身の願いや体面も二の次にできたのだから、その想いの深さも半端ではない。
 だが、僕はそこにマーク王のイゾルデへの想いだけではなく、男としての真の誇り高さのようなものを感じていたように思う。惚れた女に醜態を晒したくない自負心がその寛容さを彼に与えたわけで、そこには彼なりの切実な苦悩が窺える。トリスタンもまたマーク王のその思いを汲み取ればこそ、自分たちの恋愛で国を滅ぼすわけにはいかないとイゾルデとの旅立ちを断念して、コーンウォールの窮地を救いに戻るわけだが、男たちの沽券に囚われた美学に過ぎないと言ってしまえばそれまでだけれども、やはり騎士物語なればこそ、こうならなければ話にならない。悲恋としての美を引き立てるうえでも当然の帰結であり、その文脈に沿った出来映えのよさを湛えた作品だったように思う。
by ヤマ

'06.11. 1. TOHOシネマズ2



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