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『<原作>死ぬまでにしたい10のこと』 | |||||
ナンシー・キンケイド 著<祥伝社> | |||||
十年近く前に観た映画化作品の日誌に「所詮は誰にも救いようのない病魔について告げることなく短い時間の苦難を一人で背負って立ち向かおうとする。その気丈さは、並大抵のものではない。」と綴った部分が、原作ではまるで違っていたことに驚かされた。病院での検査が終わって3人の子供を乗せて迎えに来た夫に車中で「べリンダ(映画ではアン)は手を窓の外に出して、こぶしを握ったり開いたりしていた。爪は噛みすぎたせいで、下の皮膚がむき出しでピンク色になっていて、ひりひりと痛んだ。ヴァージル(映画ではドン)に言わなければ。もちろん彼には知る権利がある。「ヴァージル……」彼女は言った。しかし彼は聞いていなかった。…べリンダはヴァージルの腕に触れ、とても静かに言った。「子宮にできものが見つかったの、ヴァージル」」(P25〜27)と告げるのだ。そして、母親にも早々と話すし、映画化作品の設定のような既に手遅れの不治の病という前に、自ら治療や手術自体を拒み、死を選ぶことによって生を得た女性というような印象だった。 もうひとつ驚いたのは、死ぬまでにしたいことリストの筆頭が映画化作品の「1.日に何回も娘たちに愛してると言う」ではなく、映画化作品のリストにはなかった「もう一度洗礼を受ける」だったことだ。以下、「2.次にシアーズに写真家が来るときに、自分の写真を撮ってもらう(みんなに焼き増ししたものをあげる)⇒映画化作品にはない」、「3.最低でも三人、ほかの人と愛し合う(どんなものか見てみるだけ)⇒映画化作品では、7.夫以外の気に入った男とセックスをする」、「4.ヴァージルに彼女を見つける⇒映画化作品では、2.娘たちの気に入る新しいママを見つける」、「5.子供たちのために、みんなが二十一歳になる分までの誕生日のメッセージを、テープに録音する⇒映画化作品では、3.娘たちが18歳になるまでの毎年のバースデイ・メッセージを録音する」、「6.毎日、子供たちにアイ・ラブ・ユーを言う⇒映画化作品では、1.前出」、「7.好きなだけ煙草を吸って、お酒を飲む⇒映画化作品では、5.好きなだけお酒とタバコを楽しむ」、「8.好きなだけ乱暴な言葉でののしる⇒映画化作品にはない」、「9.言いたかったら、本当のことを言う⇒映画化作品では、6.思っていることを話す」、「10.十ポンドやせて、もっといいヘアスタイルにする⇒映画化作品では、10.付け爪をし、ヘアスタイルを変える」となっていて、原作小説にない項目が「4.家族でビーチへピクニックに行く、8.誰かを私との恋に夢中にさせる、9.刑務所にいる父親に面会に行く」となる。(P36) 子供たちを中心とした家族への想いの順位を上げ、恋への想いを添えた映画版のリストのほうが原作小説を上回っているような気がした。「ゲーブル(映画ではリー)が裸になると、べリンダは彼をじっと見つめた。もっとよく見たいから立ち上がってほしいと言うと、彼は彼女のことを笑ったが、そうした。彼女は彼をじっと見た。ヴァージルのことをこんなふうに見たことはなかった。ゲーブルは平気なようだった。彼女は突然、気持ちがすわった。心から感嘆しながら、彼のことをじっと見つめた。「きれい」彼女は言った。 彼女がびっくりしたのは、彼の、まあ、つまり、ペニスが、ヴァージルのと同じではないことだった。ヴァージルのはピンクで、あまりにもピンクで、ときどき暗闇でも光るくらいだった。ゲーブルのは黒っぽく、青っぽく、それにたくさんの毛が胸から腹に向かって、矢印の形のように生えていた。べリンダは感動した。男性のペニスの色がいろいろだとは知らなかった。 「今まで、主人としか、したことないの」べリンダはそっと言った。」(P49)という場面から触発されたのだろう。「言葉のおかげで、セックスがただのセックス以上のものになることを知った今、もう前と同じにはなれないだろう。彼女は確信していた。…それから(リストの)「最低でも三人」に線をひいて消し、その上に「ゲーブルと三回する」と書いた。」(P51)となっている。 また、「べリンダはヴァージルの気持ちを理解した。彼は分かりやすい人間なのだ。最初の頃、彼女は彼のそんなところを愛した。今は、そんなに彼のことを理解していたくないのに、と思うこともあった。たまには、彼が何を考え、どう感じているかが、見えないときがあったらいいのに。彼女は、いいかげんいやになっていたが、しかし今さら、彼のことを理解するなと言われても、それは無理な相談だった。 彼はもう何カ月もべリンダと愛し合っていなかった。彼女ができもののことを口にしたときからというわけではないし、まったくしようとしなかったというわけでもない。ただ、べリンダがどんなに手伝おうとしても、彼の装置はどうにもならなかった。何度か失敗したあと、彼は試してみるのすらやめてしまった。」(P82)という対照を描き出すうえでも、原作小説の夫は妻の病を知らされてなければならなかったのだろうとも思った。 原作小説の原題は『ベッドが筏というつもりになって(Pretending The Bed Is A Raft)』らしいのだが、映画化作品のタイトルを『My Life Without Me』にしたのは、病が重くなるなかで、べリンダが仕掛けたとおり、ヴァージルの幼馴染のキャンディを家族に馴染ませることができるようになって、べリンダが「これでいい。…私のいない私の人生はこうなる。」(P97)と思う場面からであることが判明した。まさしく映画日誌に「夫ドンや娘たちを含め、彼女と関わった人たちのその後の人生を、まるで“私は居ないけど私の人生”とまで言えるほどの大きな影響を与える足跡を残し得た2〜3ヶ月に彼女がしたこと」と綴ったことを意味していたようだ。 | |||||
by ヤマ '13. 8.12. 祥伝社 | |||||
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