『蜉蝣』を読んで
若合春侑 著<角川書店>


 伊藤晴雨と彼のモデルを務めた女性に材を得た平成15年刊行の本書は、ピアニストで文筆家の青柳いづみこが、新聞の書評に晴雨の責めは、極限状況の女性がどんな反応を見せるか、一種の実験の趣があった。…しかし、女の方は、単なる実験道具では沽券にかかわる。何か情緒的な理由がほしい。…愁雨が榊に嫉妬する構図は、歸依と帰世子の違いを鮮明に浮びあがらせる。嗜虐性の実験は、父親のような“をぢさま”によって加えられる甘美な“罰”に移行し、共犯関係をまぬがれたヒロインは限りなく浄化される。このあたりが、女性の手になるSM文学の魅力だろう。と書いてあるのを読んで、気になっていた小説だ。

 ちょうど丸谷才一を読んで旧仮名遣いにも慣れたところだったので、手に取ってみた。丸谷才一は仮名遣いのみ旧字体だったが、若合春侑は、漢字も全て旧字で少々読みにくかったが、確かに時代掛った趣はあったように思う。

 小説自体は、SMに迫るものでも、恋愛小説でも、官能文学とも言えない中途半端な作品だという印象が残ったが、作中で引用していたイエーツの詩から取ったことを明示していた題名からすれば、儚く散ったヒロイン歸依の恋愛小説なのだろう。だが、彼女が交わった四人の男、松枝空二、榊、佐々修太郎(愁雨)、佐吉(アラン)のうち、彼女自身は、恋心を抱いた自覚があったと思しき三人のいずれにも、本当のところは恋してなどいなかったのではないかという気がした。

 何となく、自分は子を生したりしないで生きていきさうな豫感がする。 一代で終はる自分はせめて、生きて誰かの役に立てるなら好いのだけれども。 … もとより、百貨店の店員、電車の車掌、バスガール、お針子、食ひ物屋ならまだしも、わざわざ二十歳半ばの女を雇ふ處は少ない。學校の先生やら醫者になる女性も少しはゐたが、碌な教育を受けてゐない歸依には遠い世界だ。ましてや『青鞜』で活躍した女性達のやうに、筆と瓣舌が立つのでもなし。 教養も専門技術も持たず、男の庇護も受けない女は、社會に要らない、役立たない、と云はれてゐるやうな錯覺に陷る。 … 新宿、澁谷は詳しくないから心細い。銀座、新橋、日本橋は敷居が高過ぎる。 結局は、家から歩いて行ける範圍でしか獨り歩きが出來ないのだ。 考へてもみれば、遠出の經驗など數へる程だ。 何時閧煖D車に搖られて上京した美校の學生は、若い内から何と冒險心に溢れてゐるのだらう。 東京在住の田舎者。 世闥mらずの自分は、世闥mらずゆゑに、未知の場所へ出向いて行く勇氣がないのだから、都會に在っても、淺草區、下谷區、本ク區しか知らない田舎者。(P114)というセルフイメージを抱いている女性の“自分の居場所としての恋情”だったような気がする。だが、ここに投影されていたのは、昭和十年の二十代半ばの女性ではなく、平成十年の二十代半ばの女性だったような気がしてならなかった。だから、責め絵のモデルとしても、その延長線での物語の展開を期待したのだが、すっかり外されてしまったのが残念だった。

 それでも、描出などにはなかなか目を惹く場面もあった。執拗なのは口だけではなく、尻を撫で回す掌だつた。 洋服が擦り切れて終ふのではないかといふほどに長いこと撫でてゐた手が、やうやう移動した先は、歸依の期待とは違ふ箇所だつた。愁雨は服の上から歸依の肛を指先で摩擦し始めたのだ。 羞恥と恐怖と快感とで、思はず聲を漏らした歸依に「此處は、まだ、生娘なのでせう、僕は、此處が慾しいのだよ、好いね」と愁雨が云ふ。 尋ねてゐるのではなく、奪ふ事を斷言したのだ、と氣づくのに時閧ヘ掛からなかつた。 指を一本入れて掻き回し、二本插し入れられた時には小水と慾情の液體を垂れ流してゐた。 俯せの尻を掴まれ、裾を捲り上げられても逃げる事をしなかつた。 膣から溢れた液體を潤滑油にした愁雨が押し入つて來た。 窄まる部分の護謨がぷちんと切れるやうな衝撃の痛みを感じたのは最初だけで、其の後の餘りの氣持ち良さに歸依は吼えるやうに呻いた。 疊に額を擦りつけて何かに詫びる姿勢で、快樂を貪るやうに前後の動きに合はせる。疊の上すれすれに搖れる乳首は、強く抓って欲しいと疼き、熱く火照る膣や陰唇は一物で破壊されたいと膨れ上がる。 くちづけの後に肛を犯されるなど豫想もしてゐなかつたが、屈辱を感じなかつたのは「此れで、君は僕と同じになつた」と云ふ愁雨の聲が聞こえたからだ。 僕はね、十五の歳までかうやつて同じ事をされてゐたのだよ、男色を日本に持つて來たのは空海で、廣めたのは弘法大師だと云はれてゐるが、大和朝廷の頃からあつたらしいンだ、つまり決して異常な行爲ではないといふ事だよ、實際、氣持ちが好いでせう、僕が知る處の快樂を、君にも教へてあげたいだけなんだ、君は體が軟らかいから好い。 喘いでゐるのか、呻いてゐるのか分からない聲を吐いて蹲る歸依は、何故かしら幼兒期に譯もなく泣き出した感覺が蘇り、子宮が乳首と繋がつてゐるやうに、肛は腦の奧底の一番古い記憶と結ばれてゐるのか、と不思議でならなかつた。 生まれたての犬や猫の尻の穴を母親が舐めて排泄を促すやうに、恐らく此の器官への刺戟は動物に共通する快感を齎すのかも知れない、をぢさまは私を無防備だつた幼い頃に戻さうとして、かういふ行爲を試してゐるのだ、さうに違ひない、と意識しつつも次第に快樂の波に飮み込まれて行つた。 空氣の拔け掛けた護謨毬になつた自分が串刺しにされ、突かれて搖らされてゐる内に思ひも寄らない方向へポオンと飛ばされ、もう氣を失ふといふ寸前で、愁雨は動きを止めた。 荒々しく肩で呼吸をしてゐるのはどちらも同じで、やがて愁雨が歸依の體から自身を引き拔き、疊紙を當てて「氣張つて御覧なさい」と片方の尻を輕く叩いた。氣恥づかしさを堪へながら歸依は排便をするやうに力を入れた。 自分が放つた液體を疊紙の中に見た愁雨は、歸依を抱き起こして髪を撫で、額にくちづけ、それから佐吉を呼んだ。(P134)といった場面の出だしのところは、ありきたりの官能小説にも頻出する描写だけれども、中盤の愁雨の台詞以降は、通常の官能小説ではなかなかお目にかかれない展開だ。
 瞠目したのは最後のところで、肛交に放った精を排泄させて眺めるなどという場面には初めて出くわした。いかにも在り来たりで始めて、仕舞いに度肝を抜く手管にしてやられた。少々見くびりながら読むようになっていた段だっただけに、なかなか侮れないもんだわいと思わされるとともに、映画アウェイ・フロム・ハー 君を想うの日誌に綴ったような“女性作家ならではのタフな描写力”というものを感じた。男性作家の見せるタフさのような悪趣味感が漂わないところが好もしい。
by ヤマ

'11. 9. 8. 角川書店単行本



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