Noam Chomsky ノーム・チョムスキー』を読んで
鶴見俊輔 監修<リトル・モア 単行本>


 映画作品チョムスキー 9.11 Power and Terrorを観たのは十二年前だが、アメリカとイスラエルを徹底的に批判するマサチューセッツ工科大学教授のユダヤ人言語学者が“世界で最悪のテロ国家”と呼んだアメリカとの関係を“血の同盟”などという不穏当な言葉を冠して憚らない首相の暴走が加速化してきたなかで、改めて二〇〇二年九月初版発行の書籍のほうを読んでみた。

 講演、Q&A、インタビュー、監修者あとがき、という目次に示されたものは、二〇〇二年五月二十五日のニューヨーク州ブロンクスのモンテフィオーレ・メディカルセンターでの講演の採録、二〇〇二年三月から五月にかけてカリフォルニア州のバークレー・コミュニティシアター、リッキーズ・ハイアット・ハウス、カリフォルニア大学バークレー校、ニューヨーク州のモンテフィオーレ・メディカルセンターでの質疑、二〇〇二年五月二一日のジャン・ユンカーマン監督によるインタビューの採録に、鶴見俊輔が「ノーム・チョムスキーについて」と題する文章を添えたものだ。

 講演では、のっけからノースカロライナ大学のシュルツ教授による研究やペンシルべニア大学ワートン校の経済学者・ハーマン名誉教授の研究を引き、アメリカの対外援助と拷問には驚くべきことに不気味なほど強い相関関係があることが判明したのです。アムネスティ・インターナショナルによる記録を見てもその関係は非常に密接だということがわかりますとし、同時にアメリカの援助と投資環境の好転にもっとも強い相関性があることがわかりました。つまり、投資家にとって資源などを吸い取るチャンスが増大すればするほど、その国への(軍事)援助も増加していたのですとして、拷問と投資環境の好転の相関について、第三世界の諸国における投資環境を良くするにはどうすればよいか。もっとも良い方法としては、労働組合や農民のリーダーを殺害すること、宗教者を拷問すること、農民を虐殺すること、社会保障プログラムの土台を揺るがせること、などが考えられます。すると投資環境が好転します。そこでまた第二の相関関係が生じます。つまりシュルツ教授が発見したアメリカの対外援助と甚だしい基本的人権侵害の相関関係ですね。 恐らくこれが実情でしょう。アメリカが利益を得るために選んだ手段が、他国での甚だしい人権侵害という結果をもたらしたのです。(P8~P10)と看破し訴えていた。

 そして、現在、テロとの戦いのリーダーとされる国(アメリカ)は、国際司法裁判所によってその国際テロ活動を糾弾された唯一の国であり、また、国際法を遵守しなければならないという安保理の決議にも拒否権を行使した唯一の国なのです。これは現在の状況と関連性があると言えるでしょう。今お話ししていることに言及する報道はいくら探してもありません。(P12~P13)と述べていた。

 僕は、幼い時分から今もなお、ハリウッド映画を筆頭に、政権批判にも臆することのないように見えていたジャーナリズムも含めて、アメリカの国内文化に親しみ惹かれもしているのだが、外交政策については幼時のベトナム問題以降ずっと、大いに批判的な立場にあるので、イデオロギーや民主化を名目にして戦争を繰り返すことに反発してきた。だから、一九八九年前の口実は、我々の首を絞めようとしているロシア帝国の手から自衛しなければならないというものでした。つまりテロと経済戦を支援しなければならないということですね。一九八九年にソ連体制が崩壊し始め、その口実が使えなくなると、…今度の口実は我々の“民主主義への愛”ということになりました(P42~P43)との弁に大いに頷くし、我々や我々の同盟国に対するテロのみがテロなのです。それより規模が大きくても、我々や我々の同盟国が他者にテロを行った場合はテロにはなりません。これは報復テロもしくは正義の戦争というわけです(P26)といった弁に共感を覚える。

 自分のことは棚に上げるこの考え方は、私の知る限り世界共通、ほぼ普遍的なものP26)として、ナチスはパルチザンのテロから守っていたとし、満州国や中国北部で日本人がやったことも同じです。「彼らは住民にこの世の天国をもたらし、満州民族の国民政府を中国の無法者から守った」などということになります。我々に非常に似ています。(P27)と述べていた。ヨーロッパの帝国主義時代を貫いているのは「我々が行うのは、彼らに対する報復テロか正義の戦争であり、野蛮人などに文化をもたらすもの」という考え方(P26)が二〇世紀を経ても今なお克服できないどころか復古強化されてきているように思える昨今だという気がする。彼がアメリカというとき、共和党政権も民主党政権も含めて、それぞれの大統領の時代の外交軍事政策を指摘しているところに大いに納得感があった。アメリカの(いや、アメリカに限らず)戦争の本質がそこにあるなかで、憲法解釈を捻じ曲げて“血の同盟”として“ショウ・ミー・フラッグ”に応えなければならない道理はどこにもないような気がしてならない。

 チョムスキーが述べる彼らには、この地域の富がなぜ自分たちのところではなく、西側や、西側と協力している裕福なイスラム教徒のほうへ流れていくのか、理由がわからないからです(P54)といった弁ややみくもに騒ぎ立ててもしょうがありません。もしも、本当にこれ以上の残虐行為を防ぎたいと思うなら、問題のルーツを探すことです。路上の犯罪でも戦争でも、何であれ、犯罪行為の背後にはいくらかは正当な理由があるものです。そうした要素について考えなければなりません(P116)との弁に対して、そういう分析を聞いて、あなたがテロリストを弁護していると非難する人もいますと問うたユンカーマン監督に対し、弁護するというより、正気かどうかの問題です。さらなるテロ攻撃が心配でないならいいですよ。原因なんか気にしないでおきましょう。しかし、それを防ぎたいと思うなら、原因が気になるはずです。弁護するしないの問題ではありません。(P117)との回答に共感を覚えた。対テロの問題だけではない。我が国での犯罪抑止のための監視強化や厳罰化を求める風潮も、こういったアメリカナイズされたグローバルスタンダードとやらにシンクロしているような気がしてならない。

 そんななかで、僕が最も快哉を挙げたのは、ジョージ・ブッシュの大好きな…聖書の中に、偽善者についての有名な定義があります。偽善者とは、他人に対して自分が適用する基準を、自分自身に対しては適用しない人間のことです。 この基準によれば、対テロ戦争といわれるものに関するあらゆる論評や議論は、例外なく純粋な偽善です(P135)との指摘だった。さしずめ今の日本だと「対テロ戦争」「集団的自衛権」「偏向報道」に置き換えれば、たちどころに、なぜ国会答弁をこれだけ不毛に感じるのか得心がいくような気がした。

 そして、チョムスキーの言葉以上に印象深く感じられたのが、巻末資料の「映画はこうして始まった―ノーム・チョムスキー氏への最初の手紙よりと題された二〇〇二年一月六日のシグロの山上徹二郎の文章のなかの私にとって最もショックだったのは、同時テロそれ自体よりも、その後のアメリカ合衆国のアフガニスタンに対する強権発動と、それに盲従し、なし崩し的に自衛隊を派遣した日本政府の対応、そしてそれらの事態に無批判に支持報道を繰り返した両国の主だったマスメディアの在り方でした。(もっとも、私を含めた日本の市民社会が抱える政治に対する諦念と不感症こそが、最初に問われるべき問題かもしれませんが)(頁記載なし)だった。あれから十年以上経って事態は、より悪化しているように思えてならない。

by ヤマ

'15. 6.27. リトル・モア



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