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『ザ・ピンポインター』または、『少年の日の夏の思い出』 | |||||
映画館主・F | |||||
僕らが子供の頃、夏休みの宿題でよく昆虫採集なんて課題が出されたりしたと言えば、若い人たちは信じられるだろうか? 僕らは東京に住んでいたから日頃は昆虫採集なんて望むべくもないが、夏休みには大概両親の郷里に遊びに行くので、そんな自然と向き合うことが出来る。だから夏休みというとそんな宿題が出されたりもするのだ。 今じゃ夏休みでも塾だ補習だと忙しいのだろうし、何しろ昆虫だって稀少価値だ。でも、僕らが子供の頃はカブトムシに1万円の値を付けて売るなんてヤボなマネをする大人はいなかった。まだ万事のんびりとした古き良き時代だったのだろう。 そうそう、確かに古き良き時代だったのだ。何しろ環境破壊だってまだなかった。今はまず昆虫たちが生き延びる余地がなくなっている。そこへ来てもっとタチが悪いのが、環境保護と人道的見地からの当世版生類憐れみの令みたいな考え方だね。昆虫採集なんてまかりならんという、一見真っ当に見える考え方だ。 確かに生き物を殺すのは良くない。言ってしまえば無益な殺生だ。そこへ来て、子供ってのは本来残酷なもので、生き物を楽しんで殺すところがある。無邪気ほど残酷なものはないからね。 でも、だからって昆虫採集まかりならんってのは、ミスコン反対って叫ぶフェミニストみたいに偏狭な考え方で僕はイヤだな。それって一種のエコ・ファッショじゃないか。だって、そうやって虫に実際接してみて分かることだってあるんだよ。 仮にみんながみんな昆虫学者になるんじゃあるまいし…と言うなら、僕はそんな学習効果だけじゃないんだと言いたい。色とりどりのチョウチョに触れて、それらをボードにピンで止めて並べた経験。もっと言うなら、そんなチョウチョを追いかけて汗をかきヒザに擦り傷をこさえた、あの夏の日の思い出こそが最も大切なもの…それこそが他の何者からも得ることが出来ない、本物の「実感」なのだと思っているからね。 まずはこの一文を読んでいただこう。これは韓国映画「JSA」について書いたヤマさんの映画日誌の一節である。 「中立国監督委員会の女性将校ソフィー・チャン(イ・ヨンエ)の立会のもと、事件後初めてギョンピル士官と再会した場面で、ギョンピルほどに鍛え上げられた自己ではないゆえに、スヒョク兵長が涙を流し、秘密を守り続けられなくなる弱さを露呈することや、それに対して、自分たち四人以外にはけっして本当のところは理解してもらえるはずのないことだから喋るなということをスヒョク兵長に伝えるための覚醒行動としか思えないようなギョンピル士官のふるまいなど、人物造形の確かさが窺われ、真に迫っていた。」 長い。驚異的に長い。点、マル、カッコその他を除いた文字だけで合計223文字。マルによって切られていない一行の文章として、通常で考えれば異例の長さを持った超ロング・センテンスだ。ヤマさんの文章を語る上でまず誰もが指摘する部分は、まずこのセンテンスの長さであることは万人が納得するところだろう。 今回、僕は自分のサイトの3周年記念企画にヤマさんから頂戴した寄稿文の返礼というかたちで、この文章を書くことにした。本来、僕に語るべくもなく、語れるとも思えなかったテーマではある。ヤマさんの、広範囲に渡りかつ長期間に及ぶ(サイト上にアップされているものだけでも1984年まで遡れる鑑賞記録だ)膨大な映画鑑賞歴の産物である「映画日誌」を語るとは無謀もいいところだ。しかも、その内容には奇をてらったりウケを狙ったりしたようなところは微塵もない。だから、何かをここぞと一点をブチ上げて語り尽くせるはずもない。第一、一体何のどこをテコにして語ればいいというのだ。 そんな僕がフトしたことで気付いたのは、「ピンポイント」というキーワードだ。それについては追々語っていきたい。そして、僕のサイトの3周年記念寄稿文ヘの返礼として書いている以上、また僕自身ヤマさん同様に映画についての文章をネット上にアップしている立場である以上、自分の感想文の在り方等との比較の上で語っていくのが妥当であると思える。どうか以下の文章は、僕がそういう考え方で書き進めていったものとご理解いただきたい。 さて話は戻って、その圧倒的「長さ」、だ。これをもって僕はかつてヤマさんの文章を、「現代国語のテストの問題みたい」と評し、褒め言葉としたつもりになっていた。それは、長いセンテンスにも関わらず、その文章が文法的に混乱をきたしていないということに僕が気付き、かつそれに驚嘆していたからなのだ。以下、それを証明しよう。 「中立国監督委員会の女性将校ソフィー・チャン(イ・ヨンエ)の立会のもと、事件後初めてギョンピル士官と再会した場面で、ギョンピルほどに鍛え上げられた自己ではないゆえに、スヒョク兵長が涙を流し、秘密を守り続けられなくなる弱さを露呈する[こと](1)や、それに対して、自分たち四人以外にはけっして本当のところは理解してもらえるはずのないことだから喋るなということをスヒョク兵長に伝えるための覚醒行動としか思えないようなギョンピル士官のふるまいなど、人物造形の確かさが窺われ、[真に迫っていた](2)。」 問1:(1)の[こと]と同格に相当する単語を文中から抜粋せよ。 問2:(2)の[真に迫っていた]とは、何が「真に迫っていた」のか。文中から抜粋せよ。 正解 問1:(ふるまい) 問2:(ギョンピルほどに鍛え上げられた自己ではないゆえに、スヒョク兵長が涙を流し、秘密を守り続けられなくなる弱さを露呈することや、それに対して、自分たち四人以外にはけっして本当のところは理解してもらえるはずのないことだから喋るなということをスヒョク兵長に伝えるための覚醒行動としか思えないようなギョンピル士官のふるまいなど) いかがだろう? こうやってみると、ヤマさんの「映画日誌」は実にたやすく現代国語の長文問題に変貌する。それは単にセンテンスが長いということではない。長い…上に文法的に曖昧さがないのだ。ただしこれは元々無味乾燥な試験問題のための文章ではないので、隅々まで文法的に完璧な正確さとまではいかないが、それにしては主部・述部などの線引きが極めて明確だ。これはみんながみんな実現出来ているように見えて、実はかなり稀なことなんだよね。 実際のところ、普段の人間の話し言葉は極めて文法的に曖昧なものだ。話し言葉でなく書き言葉でもその影響は確実に被っている。主語が混乱をきたしたり、述語がどこかに消えてしまったりということはザラだ。そんな中、いかに書き言葉を全うしようと心がけているとは言え、このヤマさんの文章に対する明確さは極めて意識的に見える。 一読すれば誰でも気付くこの点を指摘して喜んでしまった僕は、「現代国語の試験問題」という言葉まんまを用いてヤマさんの文章を賞賛した…つもりになっていた。だけど、ヤマさんは決してそれを喜んではいなかったんだよね。むしろ、そんな文法的うんぬんなんてことを言われるのは心外だと公言してやまなかった。これには今度は僕の方が驚いたんだね。 ともかく、これは頭に置いておいたほうがいい。ヤマさんの文章はセンテンスが長くて、しかも明確だ。だが、それは本人が望んでいるものではない。いや、狙ってそうなったものではないと言うべきか。 ヤマさんという人との出会いについては、何度も他のところで述べてきたから繰り返さない。ただ、最初にその文章の正確さに圧倒された時を過ぎてからは、むしろその着眼点に対する驚きや共感で深い興味を持つようになった。つまり意外な内容なら「面白いとこに気付いてるな〜」でもあるし、ちょっと偉そうではあるけど共感できる内容なら「俺もそう思ってたんだよな〜」ということだね。この後、偉そうな言い草はしばらく続くが、それを指摘されると先に続かないのでここはご容赦いただきたい。 さて、今回なぜ「JSA」の「映画日誌」を引き合いに出させていただいたかと言えば、この「俺もそう思ってたんだよな〜」を最も分かりやすく感じさせてくれたのがこの文章だし、かつまた「なのに、何でこんなに書き方に違いがあるの?」と思わされたのもこれだからだ。その最大のポイントは、この映画の主人公の一人である韓国側兵士=イ・スヒョク兵長(イ・ビョンホン) の扱いにある。 僕はこの映画の感想文で、このイ・ビョンホンなる俳優が当時ニューヨーク・メッツで意外な大活躍を果たした新庄選手に似ていたことをテコに、感想文中で徹底的に新庄を引き合いに出してオチャラかした。だが、今だから白状するがそれは故なきことではない。偶然ではあったが、この主人公が「越境する」こと、根っから「ネアカ発想で行動する」ことに両者の共通性を見い出したからだ。そこで、「他の奴には通用する理屈も新庄には通用しない。こいつ国境なんて屁とも思ってやしない。」とか、「だけど新庄何とも思っちゃいない。屈託も邪心も何にもないから。ホラ、そんなクラい顔してないでさ。国境なんて越えるのは簡単さ。」などと、主人公と新庄を同一視した文章が並ぶことになる。 ところで、ヤマさんはこの主人公をどう語っているかというと、以下の通りだ。「韓国側のイ・スヒョク兵長(イ・ビョンホン) には、そこまで鍛え上げられた自己はないが、潜在的な自己の力があるために、与えられた教育や常識よりも自身の経験に基づく感覚に身を委ねる柔軟さとも軽薄さとも言うべきものが備わっている。命を助けてもらった恩義によって生まれた感謝を信頼関係へと育てていくだけのものに発展させていくようなオプティミズムや目の前にいても言葉掛けすら禁じられている北と南の兵士なのに、事の重大さにとらわれず、投げ文を仕掛けたり、ひょいと国境線を越えて訪ねていく軽やかさは、ギョンピル士官にはないものだ。」…引用が長くて恐縮だが、読んでいただければ分かる。「感覚に身を委ねる柔軟さとも軽薄さとも言うべきもの」「オプティミズム」「軽やかさ」…これすなわち「新庄」であると言っても、何ら違和感はないだろう。つまり、全く同じ点を同じように指摘しているのである。 しかるに、一方はスポーツ新聞ネタ、一方は正確かつ長文の文語体。これはどっちがどうというものではないんだね。あえて偉そうにここで述べさせていただければ、アプローチの違いとしか言いようがない。しかし、言わんとしているところは全く同じものなのだ。ここだけは、僕も自分を誇れる点だと思うね(笑)。 では、なぜこのような違いが出るのか? 特にヤマさんにおいては、なぜにこうまで頑ななまでの文語体なのか。それは単にクセなどと片付けられるものではないはずだ。 ヤマさんの文章と、それを書かせている人そのものに興味を抱いた僕は、ヤマさんがかつて書いた本を読んでみることにした。『高知の自主上映から−「映画と話す」回路を求めて−』(発行:映画新聞、発売:フィルムアート社、書籍コード:ISBN4-8459-9662-6 C0074)がそれだ。 この本、前半が高知で自主上映活動に参加してきたヤマさんの言わば実録もの、後半がサイトでもおなじみ「映画日誌」という構成。ヤマさんの「映画日誌」のファンになった人にはまず後半が興味そそる内容であろうことは想像に難くないが、ここで話題にしたいのはむしろ前半部分。その中でも最初のあたりにおいて、ヤマさんは自らが思うところの「映画」というものについて、「こんなものではないのか?」とさまざまに想いを巡らせている。これが正直言ってそこらの映画評論家や映画作家などハダシで逃げ出すくらいの堂々たる「映画論」になっていて圧巻なのだ。 その内容についてここで長々と引用するのは本意でないし、それは営業妨害以外の何者でもないだろう(笑)。立ち読みは厳禁とここでクギを打ったところで、そこでの論旨を僕なりに簡単に語ってみると、要はヤマさんにとって映画というものは、他の芸術形態やメディアとは異なる特殊な性格を持っていると見えるようなんだね。 それを事細かく説明すると僕の知識のボロが出るからこのくらいでやめておくけど(笑)、つまりは映画って確固たるカタチのある「作品」であることは事実だけど、それをつくるシステム、入れ込むハコ、見せるためのウツワといったものまで考えないと語れないと思っているみたいなんだよ。 それで思い出したのが、かつて僕のサイトの2周年企画でやはり寄稿をお願いした時のことだ。あの時のテーマが、「映画は映画館だけで見るものじゃないだろう」というもの。ビデオだってDVDだってテレビだっていいじゃないかという内容で展開する中、ヤマさんには高知で自主上映をやっていた経験から語っていただきたいと思ったわけ。ところが出来上がってきた原稿の主張には、僕はちょっと困惑しちゃったんだよ。そこではヤマさん、自分はあくまで映画はスクリーンで見る、スクリーン以外では見たくないって連呼していたからね。 事実、ヤマさんはこの自身の信条を忠実に守っている。だから、高知では劇場公開されなかった映画も見逃した映画も、例えビデオがあろうとも一切見ない。「2001年宇宙の旅」など、何と本当に2001年まで見なかったほどだ。そこには「どっちでもいいや」的な曖昧さや揺らぎが全くない。 ところでここで念のため明言しておくと、確かに「ヤマさん」はビデオを見ないけれども、それが「正統」であるとは僕は一言も言わない。僕自身も、全くそんなことは考えていない。そしてヤマさん自身もそうは思っていないはずだ。自身では映画館で見るというだけで、他者にまでそれを強いるつもりはないし、ましてそうでなければ「邪道である」などと言うつもりもないだろう。あえて、ここでご本人になり代わって言っておく。 ヤマさんが「映画=映画館で見るもの」と強く念じるその根源には、だから映画への自身の考え方が横たわっているんだね。映画とはただフィルム上の連続するイメージを、残像の作用を利用して動いているように見る技術=あるいはその技術を応用した作品というだけではない。まず、それが映画館という暗闇の中でスクリーンに投影されているというところまで含めたシステムそのものだと言っているのだ。こういう考え方からすれば、上記のように「映画館でしか見ない」という考え方も理解できる。映画というものの在り方、それについての自身の考え方に「忠実」であればあるほど、そういう行動に出るはずだ。僕にとってはそれをトコトン全うするところに、ヤマさんの「曖昧さ」に逃げ込むことを良しとしない「潔癖さ」「一途さ」を感じずにはいられないのだ。 ヤマさんとのやりとりの中で戸惑ったことが実はもう一度ある。それはいろいろな映画作品を監督名を挙げて僕が語っていた時だ。マーティン・スコセッシ、ブライアン・デ・パーマ…そんな時にヤマさんは出し抜けにこんな発言をしたんだね。 映画をつくるには俳優だっている、いろいろなスタッフだっている。なのに何で監督だけを「映画のつくり手」だと言い切るんだろうね? これは正直言って痛いところを突かれたと僕は思ったよ。それは確かにそうだからね。 いわゆる作家論で言えば、映画では監督がそれにあたる。そういう「作家」のつくったものだから、映画は「作品」なのだという考え方だ。だけど、それって本当はどうかというと、極めて曖昧な点があるんだね。画家が絵を描いたり、彫刻家が彫刻を彫ったり、作家が小説を書くようには映画作家は映画をつくれない。まず何より一人では出来ない。そこに関わるすべてのスタッフ&キャストの技量や意見が反映されていると考えるべきだ。そして、映画は映画作家の作品と言い切れない理由は他にもある。それは予測不能のファクターだ。 お金の都合もある。イメージ通りの俳優が使えない場合もあるし、第一自分で演じることだって出来ない。いいロケ地が見つかるとは限らないし、天候だって思うようにいかない。まず何よりみんなが言うことをきくかどうか分からない。 それを作品として定着していくのはオプティカルなカメラであり、ケミカルなフィルムであり、メカニカルなポストプロダクション器材であり、いまやデジタルなコンピュータでもある。その特性やら限界が作品に反映する。 そうして出来た作品は、そのまま見る側に届くわけではない。現像の質はどうだ? 上映される映画館の状態は? スクリーンはきれいか? スピーカーはクリアーか? 上映中にフィルム事故が発生して何コマかカットされなかったか? 第一、それを見ている側の体調はどうなんだ? 映画というものは本来は「記録」だ。写せるものしか写らない。レンズの前にちゃんとあるものしか写らない。CGであっても 、デジタル・クリエイターがつくったものしか写らない。だから、本来は明快にして絶対的なもののはずだ。 だけど、それを作品化して観客の目の前に提示するまでは、かように不確定要素がゴロゴロしている。そのプロセスがあまりに多岐に渡って、あまりに多くの人が介在しすぎるんだね。つまりはモヤモヤとして、つかみどころがなくて、曖昧さを多く伴ったものなんだ。そういうことを視野に入れた上での、上記したヤマさんの“何で監督だけを「映画のつくり手」だと言い切るんだろうね?”…発言があったんだと思うよ。 ヤマさんはこうした映画の曖昧さ、不確定さをイヤというほど知っている。だからこそ、少しでも映画本来のコンディションに近づけたいがゆえに「映画館で映画を!」と叫ばずにはいられないのだろう。それは、映画純血主義みたいなことを主張する頭でっかちの映画マニアとはちょっと違うポジションからの発想なんだ。 そしてヤマさんに「映画館で映画を!」と言わしめた、「曖昧さ」を嫌う「忠実さ」「潔癖さ」「一途さ」こそが、先の「JSA」の「映画日誌」の内容に反映してもいる。なぜ、僕の感想文とヤマさんの「映画日誌」は、同じことを言おうとしていてもかくも表現が変るのか? 厳密に考えた場合、映画を映画たらしめているのは、スクリーン上映まで含めた「映画というプロセス」だろう。だが、多くの人々はビデオやテレビでの映画を「映画」と受け取って疑うことはない。これはメディアの在り方に自覚的かどうかという問題なのでどちらが正しいとは言い難いが、少なくともプロセス全体を「映画」だと考えるヤマさんの発想の引き出しにはビデオという選択はない。そこにもヤマさんは明確さを望むから、自らのスタンスに何らブレは存在しないわけだ。「曖昧さがない」こと、「明確である」こと…これすなわちヤマさんの求めているものであると同時に、すでにして身についたスタイルなんだよね。 これほど表現というものに対してセンシティブでデリケートに接しているヤマさん、物事の「曖昧さ」というフィルターを出来るだけ排除して考えたいヤマさんなら…そしてそんなヤマさんだからこそ、本来別モノであるはずの「イ・ビョンホンなる韓国人俳優演じるイ・スヒョク兵長」と「大リーガーで野球選手である新庄」なる本来全く別ものの人物を、顔が似ていてキャラクターに共通性があるからと言って、まるっきり取り替えて代用するはずもないのだ。いや、したくても出来ないだろう。自身の表現に対する真摯な姿勢、その「忠実さ」「潔癖さ」「一途さ」が決してそれを許しはしまい。他人がそれをやっているのは面白く見るかもしれない。だが、自身では決して試みようとはしないはずだ。だって、それは所詮似て非なるもの…「不正確な表現」と分かっているから。 その代わりヤマさんは、勇猛果敢にも一番オーソドックスだが最も困難な道を選ぶ。何か似たものを持ってくる連想ゲームや、面白おかしく人におもねる表現の羅列ではない。読者一人ひとりにとっての意味の揺らぎが最小限度にとどまる言葉、漠然とした感覚的イメージや空疎さが極力ないような言葉、意味がカッチリと確立して流行廃りの影響を受けにくい言葉を使う。それらを紡ぐのはこれまた文法的に明確な文語文体だ。今までの考え方を逆に見ていくと、そうにしかなりようがないのだ。でも、それは映画が表現しようとした何かを、忠実に潔癖に一途に再現し反映しようとしたが故のことなんだね。そして「曖昧」さと「主観」という安易な言葉に決して逃れまいとする、一つの確固たる決意の表われとも言える。 ただ、僕はここまで書いてきて、ちょっと気になってきた事がある。ここまでこの文章を読まれたみなさんは、ヤマさんの「映画日誌」についてどのように思われただろうか。ヤマさん自身はよく自身の「映画日誌」を難しくて敷居の高いものと読者に評されて、それを残念に思っていたようだ。だけど読者にそう思われてしまうのは、前述するような見事なまでの表現についての真摯な思いが読者にイヤでも伝わってくるからでもあり、その長いセンテンス故のことでもあるだろうね。そして、この僕の文章を読まれたみなさんは、なおさらそんな片寄った印象ばかり持たれてしまうかもしれない。頑なに「映画とは何か?」という自身の思索に忠実で、それゆえ自身の文章も正確に書き記さずにおかない「忠実さ」「潔癖さ」「一途さ」。何だか「書斎の人」然としたクソ難しいイメージ。だけどそれはちょっと違うんだよね。微妙だけど確かに違う。そう思われてしまうのは、これを書いた僕の本意ではない。なぜなら、実はヤマさんの映画に関する文章の、一番重要なポイントについてまだ述べていないからだ。 みなさんは講談を聞いたことがおありだろうか? 扇子を手に持ちながら軽快に語り、話が佳境に入って演者の興が乗ってくると、扇子をパンパンと打ち据えながら一気加勢に語り倒す。その最高潮時には、演者は決して落ち着いて息継ぎなんてしない。お客の気持ちを一点に惹き付けたいからだ。いや、おそらくは自身も語りそのものに夢中で、その緊張感を手放したくないからだろう。 ヤマさんの文章が難解であると言われてしまう理由の最も大きなものは、おそらくはこの文章でも冒頭で挙げた、そのワンセンテンスの長さにあると僕は思う。それだけで読者によっては身構えてしまい、内容まで目がいかなくなる。だが、その文章のリズムに身を委ねてみれば、実はこれほど明快で分かりやすい文章もないのだ。何しろ自身が徹底的に抽象的で曖昧な表現をそこから排除しているのだから。では、なぜ長い? その時、ヤマさんは絶好調の講談師のようにノっている。一言だってしゃべり損なうまい、伝え損なうまいとシャカリキになっている。そこには実は「書斎の人」なんて取り澄ましたものは微塵もないんだね。ただ四方八方にツバを飛び散らかして、顔を赤くして語り尽くそうとするヤマさんがいる。 そして、そこに僕はもう一つのイメージを見ずにはいられない。 意味とか概念なんてものは、どれもこれも空気みたいで、掴んだと思ったらパッと手から離れて消えてしまう。だけど、ヤマさんはそれが我慢できない。だって安易に「曖昧」さに逃げてしまわない人だから。その「忠実さ」「潔癖さ」「一途さ」で、語れるなら語り尽くせるところまで語ろうと努める人だから。ことに最後の「一途さ」ということにかけては、たぶん右に出る者はいないと僕は思っているんだよ。だから、舞い降りてきては飛び去っていこうとするチョウチョの群れのような概念を、何とか自分の考えという網で捕まえて、それを自分の文章というボードに言葉というピンで刺して何とか無理にでも抑えつけようとする。概念の群れはどれもヒラヒラと激しくはばたいてアッチコッチに逃げようとするから、それを捕まえるのもやっとだ。でも、そうせずにはいられない。ちゃんとピンで止めてねじ伏せてこそ、それは本当に自分のモノにしたということなんだから。そんなチョウチョの群れと格闘している時に、落ち着いてなんかいられるものか。休んでなんかいられるわけがない。文章を短く切って整えるなど、出来る訳がないだろう? ヤマさんのあの特徴的なスーパー・ロング・センテンスは、そんな息せき切った男の一生懸命なあえぎだ。汗をかきながら「夏休みの収穫」を残そうとする男の夢中さの表われだ。そこに「書斎の人」の落ち着いて気取ったたたずまいなど、微塵もあるはずがない。 「一途さ」とは、子供の心の特権だ。 ヤマさんが「映画日誌」で見せるやむにやまれぬ超ロング・センテンスは、難解さを伝えてなどいない。よく見つめてみれば、そこにはある熱い思いだけが残されているはずだ。 あの少年の日の、何もかも夢中だった夏の思い出が。 推薦テクスト:「間借り人の映画日誌」より http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2001/25.htm 推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/2001_06_11.html | |||||
by フマ | |||||
'03. 6.20. 『間借り人の映画日誌』サイト開設3周年に寄せて | |||||
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