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『悦楽』を読んで | |||||
勝目梓 著<祥伝社 単行本> 1990 | |||||
帯文に「祥伝社創立20周年記念特別書下ろし 谷崎潤一郎「痴人の愛」を凌ぐ“性愛文学”の傑作ここに誕生!」と記されている作品だ。 あてずっぽうに電話の番号ボタンを押して「ぼくは四十九歳です。身長一六八センチ。体重六二キロ。禿でもデブでもない。容貌には若いときにはいささか自信があった。今もそれほど醜くは見えないはずです。職業は広告代理店の営業部長で、年収は一千万とちょっと。…もちろん家族がいます」(P9)と言って射止めた愛人である長崎出身二十六歳の真崎順子に対して「この女とベッドにいるときは、何を求めても恥とならず、どういう振舞いをしても侮蔑を受けず、すべては受け入れられ、彼女もまたそれを歓びとするにちがいない、という気持ちに私はなっていたのだ」(P52)という保坂謙四郎の述懐を読みながら、彼には及びもつかず愛人契約などしたこともないけれど、遠い昔に同じような気持ちになったことがあるのを懐かしく想い起した。 単行本のそでに四十九歳の保坂のことを人生に倦み疲れた初老の男と記している時代の作品で、二十七年前に発行されたものだが、“禁忌も制約も拒絶もない性愛――私が求めていた蜜の如き快楽とはそういうものだった”という保坂が、順子に対して行ったオナニー観察や排尿観察、目隠し、アニリングスや肛門性交などは、今や禁忌とまでは思われなくなっている気がしなくもない。痴漢プレイや片方の脇だけに腋毛の手入れを禁じたこと、淫らな絵柄のタトゥの施術といった閨房外に及ぶことまでもが特異なことではなくなっているとは思わないが、ちょっと特別なことを試みたりはしたくなるものだという気がする。そもそも性行為そのものがそういうものであって、そういう特別なことを試みるとき「「入れ墨にしたら、あたしを保坂さんのものにしてくれるんだったらいいわ。…保坂さんの女になりたい」「順子をぼくのものにしたいから、入れ墨を入れたいんだよ。わかるか?」「わかるわ。ことばでこうだって言えないけど、わかるの。ああ、やっとあたしを自分のものにしたいって、言ってくれたのね、保坂さんが……」」(P212)との二人の遣り取りと似たようなものは、わりと交わされるとしたものなのだろう。 だから、「…素裸の順子が、…肌を細かくわななかせて声を洩らしながら私の指の先で果てていくようすは、淫らとか卑猥とかいった印象を通り越して、ひどく生なましく、生き物のセックスそのものの持っている一途さを私に見せつけているようだった。エロティックな感じなどどこにもなくて、どことなく解剖学的な感懐と、女性の肉体がいかにも性感の容器であるといった実感を私に与えてくれるのだった。 そうした感懐や実感は、私の色情を満ち足りたものにすると同時に、どこかで私の心そのものをも、深いところに沈みこんでいくような安堵で包みこみ、ひっそりと暗い、しかし居心地のよい場所に誘ってくれるのだった」(P97)との保坂の感慨は、その特別感が増して禁忌にさえも触れるものであれば、さもあらんというものだし、「順子をたじろがせ、尻ごみさせるほどのどぎつい性愛の愉しみを追い求めて、私はつぎつぎに頭に浮かぶまま、気持ちの赴くままに、さまざまなことを試み、愉しもうとしていたのだ。そして順子のほうは、私がしかけていく数々の淫らな試みを、片端から受け容れ、際限もなく飲み込んでいってしまう色情の海のようなところがあった」(P95)ということを重ね、「いろんなことを思いつく人ね」(P63)という半ば呆れ気味の台詞を女が口にするまで耽るのは、男の性のようなものかもしれない。それは確かに「…視ることによってもたらされる快楽というものは、実は見ていながら眼には映さず、見えないものを視ることによって生み出されるのかもしれない。…見えないものを視ようとして何かをたぐり寄せる過程に、ほんとうに濃密な快楽の味わいは潜んでいた」(P70)と記されているようなことだという気がする。 だが、そういった蜜の快楽への希求は、「私はすっかりいびつな人間になっていた。私は働いて金銭を得て家族とともに生きていくために、多くのものを犠牲にしてきた。それはある場合はプライドであり、ある場合は道徳観や価値観であり、ある場合は人としての情であり、あるいは自分の心身の健康といったようなものであったりした。 それは当然の犠牲というべき物だった。そして私は、そうした犠牲を埋め合わせるための本当の愉しみを、四十九歳になるまで探せず、持てなかった。自分で稼いだ金を、ほんとうに自分が愉しめるものに、いびつになって疲れた自分の気持ちを癒してくれるもののために使ったことが私には一度もなかった。 その揚句に、天啓のように、あるいは喉の渇きの極限に達した者が、オアシスの幻影を見るように私の心を占めてきたのが、蜜の味の快楽だった。そのこと自体がすでに、私の心のありようのいびつさを示していた。すでにいびつになってしまっている私の心は、いびつな愉しみ方しか求められなくなっていたのかもしれない。 あるいは、私の心をいびつにしてしまった自分の人生に対して、そういうやり方で私は仕返しをしようとしていたのかもしれない。」(P89)というものを必ず要するものではなく、もっとシンプルな好奇心の旺盛と女体のみならぬ女性の神秘というものに対するある種の畏敬を伴った探求心が向かわせる場合もありそうに思う。 そして、「「性愛も精神の愛も同じだというのは、ぼくもそうかもしれないと思う。きっとそうだろうね。そしてぼくもきみとのセックスをいつもすばらしいと思ってる。だけど、ぼくはやっぱり、きみとは契約した娼婦と専属の客という関係でいたい。契約の上で行われるセックスだから、快楽の蜜の味が一段も二弾も濃くなるんだ。そう思わないかね?」「わからないわ。契約と快楽の味とが関係があるとは思えない」「あるんだよ。ぼくはきみにこれまで、したいと思ったことを片っ端からして愉しみを味わってきた。片方の腋毛を剃ったり、おしっこで遊んだり、目隠しセックスをしたり、今だって痴漢ごっこをした。普通の愛し合っている恋人同士や夫婦の間でそういうことをしようとすれば、軽蔑されたり顰蹙を買ったり、変態だといって気味わるがられたりするようなことでも、契約の間柄なら平気でやれるんだよ。プライドとか、体面とか、羞恥心なんかにこだわることなしにね」「保坂さんは絶対にまちがってる。まちがいよ、それは。あたしはお金をもらってるから保坂さんがしたいということを黙って受け入れてるわけじゃないわ。保坂さんのことを愛してるからするのよ。契約してお金をもらってても、自分がいやだったらあたしはさっさとそんなこと断わって、契約なんか解除しちゃうわ。男と女がほんとうに愛し合ったら、そしてそれが二人とも快楽だって思ったら、どんなセックスだってすると思うわ。汚いとかいやらしいとかっていう考えは、そういう二人の間では消えちゃうのよ。愛情だけが絶対の価値になるのよ。だからすばらしいんじゃないの」「残念ながら、ぼくはそういうふうにロマンティックに愛情というものを信じられないんだ。だから、契約という手つづきを踏まなければ、自分の欲望を満たすことができないんだよ」」(P173~P174)という二人の遣り取りで言えば、男であっても、保坂の側ではなく順子の側にいる者もあるに違いない。 また、排尿観察のみならず両手をそろえて上に向けた掌におどろくほど熱い尿を受けたとき、「順子はもう眼を閉じることはせずに、暗い歓喜と哀しみを思わせる眼差しをまっすぐ私に向けたまま、ゆっくりと首を横に振っていた。そのとき順子が心の中で味わっていたものが何であったのか、私には見当はつくものの、正確に言い当てる自信はない。順子は、尿を両手に受けている私の突然の行為の中に、冥い情愛の現われを見ていたのかもしれない。」(P100)となるのは、契約関係であるか否かには拠らずとも起こり得るものだろう。 描出された「目隠しあそび」(P130)は、「その夜、私と順子は素裸になって、交代で目隠しをした」(P120)というなかでも、保坂の側が目隠しをして行なったクンニリングスの場面だったが、その執拗で精緻な描出は、勝目作品のなかでも出色のものだという気がした。「…私は唇で女陰のありかを探った。そこに頬ずりをくれた。私はバルトリン氏液を自分の顔中に塗りつけてみたかったのだ。わずかに粘る気味のある温かいその体液は、望みどおりに私の頬や口の周りをたっぷりと濡らしてくれた。バルトリン氏液の塗りついた部分は、かすかに皮膚が突っ張る感じが残った。 私の頬ずりのたびに、順子は浮いたままの腰をもどかしげにゆすり立てながら、甘やかな呻き声を洩らした。今なら私はいくらでも破廉恥になれると思った。順子のアヌスに舌を這わせ、そこに唇を押しつけて吸った。吸われて順子はおどろいたような高い声をあげた。押しつけた唇に、濡れたアヌスの小鳥の息づきのようなひそかなうごめきが伝わってくるのを、私は息を殺して愉しんだ。私はそのひそやかなうごめきが、アヌスだけではなくて、順子の膣口からその内部の一体に連動するものであることを知っていた。唇に送られてくる何かの信号のようなうごめきは、私に順子の膣口のうねるような収縮と膨満のようすを想い起させた。 視覚を奪われている分だけ、私の愛撫は執拗になっていたし、自閉的にもなっていた。 アヌスだけではなく、私は順子の膣口にも唇を押しつけて吸った。そのときの私の快楽は、顔面をバルトリン氏液にまみれさせることにあった。そのために私は手や指は使わなかった。口唇による愛撫だけを行なった。それは順子をもどかしい思いにさせたようだった。彼女は二度ばかり、指もいっしょに使ってほしいと私に懇願した。私は彼女の願いに耳をかさなかった。…私のクンニリングスは、いつになく荒々しさといらだちを含んだものとなっていた。私の頭の中は、順子の部分としての女陰だけで占められていた。舌で掃かれ、唇で吸われて、そよいだり延びひろがったりする小陰唇の姿が、赤いスクリーンに大写しにされていた。それはひどく生なましい映像で、私は孵化したばかりの雛鳥の濡れた小さな羽を連想した。小陰唇を強く吸われるたびに、順子は淫らな笑い声のまじった喘ぎを洩らした。 クリトリスは、いつも私には小さな隠然たる性感の支配者といったイメージを抱かせる。赤いスカーフで眼は覆われていても、そこに唇をかぶせたり、舌を這わせたりすれば、小さな支配者の姿を私はつぶさに思い描くことができるのだった。…包皮をむくと、短い鳥の嘴に似た姿を現わす。赤くつややかに光る小さなその姿は、いくらか滑稽ではあるが醜怪ではない。見るからに、目立たぬようにという配慮から慎重にそこに隠されている秘密の押しボタンといった印象がある。舌で触れると、柔らかい果肉にくるまれた芯の部分に固い小さな種をひそませているかのような感触が備わっていて、それが奇妙に私の心をそそってくる。果肉の中にひそんでいる小さな種こそが悦楽の源であるかのような思いにかられて、私はそこに執着する。唇で捉えて揉み、吸い、舌を這わせて、その種を破り、溢れ出てくるはずの甘い果汁をすすろうといった思いがつのる。 舌は思いを受けて、突起の底部の、赤い沼地に細く接した部分のかすかなくぼみを攻略の主眼におく。そこがもっとも柔らかく、果肉もうすいために、中の種に至る道すじとしてはもっとも容易と思えるせいかもしれない。 私の意識は、そのいくらか滑稽な姿をした小さな肉の突起物に集中していた。私はその上で舌を小刻みに躍らせた。底のほうの小さなくぼみに当てた舌先で、根から握り起こすようなやり方でクリトリスを舐めあげた。そのときは舌に力をこめた。鳥の嘴のもっともとがった先端では、力をすっかり抜いた舌を、柔らかくそよがせるようにしてすべらせた。嘴の両側の側面では、すばやくこするような舌の動きに替えた。 唇で強弱をつけて吸うこともした。歯で甘噛みすることも忘れなかった。それらをとりませながら、私はずいぶん長い間そこを愛撫しつづけた。私は勃起したままだったが、それを順子の中につなぎ入れたいという気は、ほとんど起きなかった。クンニリングスに耽けること自体が、私の蜜の快楽となっていたのだ。そして、長い時間にわたるクンニリングスの間、私は独りあそびの気分をたえず強く感じていた。眼隠しのせいにちがいない。 そのときの私は、順子を相手にしているのではなかった。私の悦楽のパートナーは、クリトリスとバルトリン氏液の温もりと、それらを含む女陰そのものだった。乳房やアヌスは、いつものようには私の気持ちをそそらなかった。私は異様な気がするほど、女陰だけに執着し、それとの戯れに熱中し、そこに心を遊ばせた。 何度目かの愛咬を、私はクリトリスに与えはじめた。咬むというよりは、嘴の両側を上下の前歯の先でそっとこするようなやり方だった。それを静かにくり返している最中に、不意に順子が軀をわななかせて、高い声を放った。わななきがはげしさを増し、順子の腰が跳ねるように反った。「噛んで、そこ! それ、とってもいい。強く噛んで!」 順子はうわずった声で低く叫んだ。私は歯の摩擦を止めて、そっと噛んだ。少しづつ噛む力を強めていった。 順子はことばにならない叫び声をあげて、両手で私の頭をつかみ、両足をこわばらせた。私の頬の下で、順子の下肢の筋肉が張り、固く盛りあがってくるのが感じられた。「洩れちゃう。だめ!」 順子はそう言って、ヘッドボードにもたせかけていた上体を起こそうとした。そのとき、彼女の全身にまた強いわななきが走り、順子はエクスタシーの声を放って横ざまに軀を投げ出した。」(P133~P137)と綴られたものは、しかし、男の側が赤いスカーフを巻くのではなくて、例えばアイマスクを施した女体への愛撫であっても同じようなことが起こっているはずだと思う。 それにしても、「先のことを考えるな。快楽を貪れ。淫らな虫のように生きよ。失うことを怖れるな。乞食の死と王様の死のどこにちがいがあるか。百年の時の流れは一切を無にする。あんたが死んで一ヵ月もたたないうちに、あんたのことを思い出す者はほとんどいなくなるさ。持っている金と時間のすべてを快楽に注ぎこめ。どうということはない――そのものは甘美なひびきをもって、そういうことを私に囁きつづけた。」(P163)というような熱情は、何がもたらしたものなのだろう。言うところの“蜜の快楽”そのものではないように思った。これは、おそらくセックスにおけるタブーについての感覚の違いから生じたものなのだろう。 “蜜の快楽”それ自体は、前掲した二人の対話で言えば、タブーというよりは“他の者とは交せない稀有な共有における愛情の深さ”を感じる者と、“タブーを冒せばこその快楽”だと考える者との、いずれにも訪れ得るものだという気がする。 保坂が感じていた「火が恋しく思える晩秋の季節はあっという間に過ぎて、山の中の家では、火がなければ過ごせなくなっていた。ヒーターの設備はあったのだが、私はスイッチを入れなかった。テレビもつけず、新聞も取っていなかった。偏屈な暮らしにはそれがふさわしく思えた。自分が偏屈になっていることはわかっていた。偏屈であることが、私には言いようもなく居心地がよかった。偏屈であることで、私は生まれて初めての自由というものを味わっていた。」(P201)というような感覚は、今どきケータイも持たずアマゾンやヤフオクの利用もしない僕の中にも確かにあるように思う。だが、「自分が求めてやまないものは、蜜の如き快楽であると同時に、ひとたび入りこんだら、二度と開かれることのない、温かくて静かな闇の如きものでもあるのではないか、といった考えにとりつかれた。」(P206)というような熱情に見舞われたことはないような気がする。 保坂のこの執着は、おそらく、エロスの先にあるタナトゥスというものを作者がイメージしてエロスの極北を描こうとしたところから生まれたものだろう。ある意味、凄惨とも言える顛末に強い悲哀を感じつつ、そういう意味では、むかし読んだ著者の『夢魔』を思い出させる作品だとも感じた。 | |||||
by ヤマ '17. 9. 5. 祥伝社 | |||||
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