『ノーマ・ジーンとマリリン』(Norma Jean and Marilyn)
監督 ティム・フェイウェル


 マリリン・モンローほどに調べ尽くされ、語り尽くされてなお、謎につつまれ、伝説化している女優はいない。彼女についての大概のことは一般の者でも何らかの形で目にし、耳にしたことがあるものだ。それゆえ、マリリンの名を知る者には既にして何らかのイメージが出来上がっているのが普通で、しかもそれは大概の場合、複雑な色合いを帯びている。そんな彼女の伝記的な物語を敢えて今、映画にしようという勇気は大したものだと言える。
 ひとつの特長は、この作品は、マリリン・モンローを愛惜する者たちや彼女についてよく知らない者たちに、彼女の魅力を伝え偲ぼうとするものではないということだ。そんなことには、彼女が残した出演映画や写真にかなうはずもなく、それ以上の形で今さら新たに為し得るものが何もないことをよくわきまえている。それゆえに、彼女を讃え崇めるのではなく、また、殊更に露悪的に貶めるものでもなく、野心に溢れ、愛と認められることに飢えた一人の女の生涯として描いている。そのことによって、天賦の魅力と存在感に磨きをかけることで却って自らを損なう形でしかそれを使うことが出来なかった女の哀れさが印象に残る作品となった。
 しかし、今、マリリン・モンローの映画を撮るに際しては、おそらくは正しいスタンスだと思われる作り手の意図が作品に充分に結実していたとは言い難い。一人の女の生涯として描くのであればこそ、もっと生な存在感を感じさせて欲しかったように思う。構成的には、よく知られている史実的なところをなぞることに追われ過ぎたような気がするし、描写的には、一人の女としての彼女自身の存在を感じさせるということよりも、彼女の人生に対する作り手の解釈表現が強くなり過ぎていて、彼女の生きた存在感というものに乏しかった。
 もっとも史実的な部分をなぞるということでは、さすがに数多の調査研究がなされている彼女の生涯だけあって、素人目にも実に丹念に手際良くあまさず再現していて、観応えがあった。また、彼女の死因が何であるかはともかく、自分で自分を追い詰め、肉体的にも精神的にもボロボロになっていってたことはよく描かれていた。そして、その原因が生い立ちのなかで満たされることのなかった承認欲求や愛情への飢餓と不信感であることや精神を病むことへの不安であるという解釈は、実証的で説得力を備えているものの、描き方としては、リアルな存在感よりもいささか図式的になり過ぎていたような気がする。
 ノーマ・ジーンとマリリンを二人の女優で演じ分けさせた手法については、そのことで自分で自分を追い詰めていったことが効果的に表現されたとは思うのだが、ノーマ・ジーンとマリリンという二つの人格を存在感をもって表現する可能性という点でも大いに期待をさせたにもかかわらず、結果的には物足りないものにとどまり、作り手の解釈を図式的なものにしてしまう逆効果に繋がった部分があるようにも思った。
 二人の女優は、マリリン・モンローであることを感じさせるという点ではともに実によく演じていて、違和感がほとんどなかった。特には、アシュレイ・ジャッドが見せた表情や喋り方、ミラ・ソルヴィーノの歌い方などに感心させられた。とは言え、仮に二人の勝負という見方をするならば、僕はアシュレイに軍配を挙げたい。

by ヤマ

'98. 4.24. 県立美術館ホール



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