『盗馬賊』
監督 田壮壮


 田監督は、寺山修司の作品を観たことがあるのだろうか。あるいは、寺山修司は、チベットの地を旅したことがあるのだろうか。ドキュメント・タッチと評される田監督の映像を観ながら、幻想的と言われる寺山の映像を想起させられたのは、何故であろう。主人公の遊牧民の物語とともに、四季の移り変わりのなかで追った仏教行事や風習に向けられた眼は、驚くほどに寺山のイメージの世界と似ている。一方は、映像のなかに現われる事物があくまで幻想的な世界を形造るオブジェとして在り、もう一方は、実在のものに向けた記録的な眼指しによる映像なのである。その、ある意味では対極的とも言える性格の映像を繋ぐものが仏教文化というわけだが、そのように考えると、この作品は、幻想というものと現実というものがいかに不可分で相互性を持つものなのかを示し始め、誠に興味深いものとなってくる。そして、ドキュメントを標榜しつつ、このような映像を展開されると、映像というものに対して安易に冠せられることの多い「幻想的な」という形容動詞が実に芯のない言葉であることが判かってくる。そういう意味では、この作品は刺激的であり、挑発的である。

 しかし、その他の点では、作品としていささか物足らないところが多い。ストーリー性が薄いと言われたりしているそうだが、本当はそんなことはなく、明瞭で骨の太い物語がある。にもかかわらず、そのように言われるのは、そのなかに血が通っていないからであろう。現実のそれが余りにも圧倒的だった歴史的事実に油断したせいなのか、カメラを通して描かれている苛酷な自然とか逼迫した生活とかは、ラマ教という仏教文化に向けられた眼に比べて、充分に捉えているとは言い難いものでしかない。また、タイトルに続いて大きく映し出される「一九二三年」という時代設定にしても、精々でその文字の仰々しさが、何故この作品が二二年でも二四年でもなく二三年なのだろうという疑問を抱かせることにしか役立っていないという皮肉な結果になっている。中国西域文化の地方性の持つ輝きと牽引力という点でも、この作品から得られるものは、それ自体に備わっている魅力が主であって、そこに眼を向けた稀少性以上に、作品のなかで昇華し、結実するところには至っていない気がする。そういった点で題材をこなし切れなかったところが、この野心的で可能性に満ちた作品に、最後の部分で神話的構成、即ち盲目の母の予言とそれに続くオボの落雷による炎上、そして、死体なき死(復活)といった展開をとらせ、作品を神秘性のなかに包み込ませる形でまとめさせることになっているように思われる。決してつまらない作品ではないが、一見観客を突き放しているかのような姿勢に惑わされて、観客の側から迎合して過大評価すべきではない。
by ヤマ

'88.10. 4. 県民文化ホール・グリーン



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