※ 本稿は、谷口真子氏の「武士道考」についての感想(「読書日記2007」)で述べたことを踏まえている。
谷口眞子氏の『武士道考』の第四章は「敵討概念の再検討」と題されている。私も「敵討概念の再検討」は必要だと思ってきた。同章第三節に西鶴の『武道伝来記』を取りあげているのも、私の考えていた方法と近い。にも関わらず、氏の所説は私の考えていたのと全く逆の方向に向かっているようだ。私の考える筋道を提示しておく。
前提となっている「敵討」の概念は、平出鏗二郎氏などが近世後期の法制を基本に定式化したものである。AがBを殺害し、これに対してBの縁者=bがAを殺害する行為。原則として逆縁(目下の者の敵を討つこと)は認められず、又敵(上述の規定でいえばさらにAの縁者=aがbを殺害すること)も認められない。 少なくとも近世前期に行われた「敵討」について言えば、こうした定義にスッポリはおさまらないという事情がある。「敵討」の代表ともいうべき“赤穂事件”の場合、吉良が浅野を殺した訳ではない、という点が議論になっていた。同様の事情が“浄瑠璃坂の敵討”についても指摘できる。“伊賀越の敵討”は逆縁である。これらは変則であるがゆえに有名になったのかも知れないが、少なくとも同時代人は「敵討」であることに疑問を持ってはいない。つまり、かの定式は近世人の「敵討」概念と一致してはいないのではないか、という疑問が生ずるのである。
そこで「諸国敵討」の角書を持つ『武道伝来記』の出番となる。元禄時代に生きた井原西鶴という人物は「敵討」をどのようなものとして捉えているか。そこでは彼の作品がどれほど“事実”と離れているかは問題ではないはずである。
もっとも“看板に偽りあり”で内容が題目とずれている可能性は否定できない。谷口氏が、西鶴が「敵討ではない実力行使」を取りあげた例としているのが、巻五の第三話「不断に心懸の早馬」である。なるほどメインの筋は「敵討」でない椿井民部と綱島判右衛門の果たし合いだが、脇筋として大野笹右衛門の「敵討」が盛り込まれている。なくても構わないような脇筋を入れたところに、西鶴のこだわりを読みとることができまいか。書きたかったのは民部と判右衛門の話であっても、あくまでも「諸国敵討」という作品集として仕上げようとしたのである。そうだとすれば、それ以外の「法制的な意味では敵討でない」ような話柄にこそ、“法制的な意味ではない敵討”の概念が浮かび上がってくるはずである。
私は今のところ、「闘争の相続」として「敵討」を理解しようとしているのだが、必ずしもうまく説明しきれる訳ではない。しかし法制的な意味での敵討から抜け出すことは、やはり必要だと思われるのである。
別に「AがBを殺害し、報復としてbがAを殺害する」という「定式」を否定するつもりはない。ただ、おおむね元禄ごろまで活きていた「敵討」概念はこの定式におさまりきらないのではないか、ということを言いたいのである。それ以降に法制的な「敵討」概念が確立していく、という見通しがついてくる。赤穂事件後に儒者を中心に行われた、いわゆる「義士論争」を、その文脈に載せて理解することも可能だろう。
この事件は、同時代的に「敵討」であることがほとんど自明であった。林鳳岡が『復讐論』を著したのは、これを「敵討」と認めたうえで、その漢語表現を採ったものと考えられる。これに異を唱えたのが佐藤直方で、要するに吉良が浅野を殺した訳ではないから讐にあたらないというのである。この論法は、この段階では少数のひねくれ者と言っていいだろう。三宅尚斎は「常式ノ讐ニハ非ズ」としながらもおおむね讐と認め、直方の議論を「目ノ子算用」(現代なら「形式的にすぎる」とでもいうところであろう)と批判する。浅見絅斎の「四十六士論」は「播州赤穂敵討ノ物語」と書き出しており、これが「敵討」であることに疑問を持たない。「吉良が浅野を討ったわけではない」という意見は、春秋の筆法を知らぬと一蹴される。「主君の敵を討つのは当たり前のこと、ほめるにはあたらない」とする「一武人」の議論を直方が援用するのは、大石らをほめないという一点で共通しているからであるけれど、これが「敵討」だったという前提に立つという意味では鳳岡らと同じである。ほかに荻生徂徠も敵討でないという主張をしているけれど、いわゆる義士論争の第一期では、「敵討にあたらない」という意見は旗色が悪い。
ところが太宰春台以降の第二期では、少し風向きが違っている。春台自身、事件当時は「良雄らの行う所を義として」いたというぐらいだから、敵討だと認識していたに違いない。数年して学問が進み「吉良子は赤穂侯の讐に非ざるなり」と認識するようになり、大石らを非とする。春台の批判に反対し擁護の立論をするのが松宮観山や五井蘭州だが、第一期の義士論者とは異なり、復讐よりも亡君の遺志を継ぐと言っている部分を強調する。もちろんこの時期でも敵討だと主張する意見もあるが、第二期では「敵討ちにあたる」という議論を正面からすることが回避される傾向が見られる。正面から議論すると「敵討ちにあたる」とする立場が不利だったからであろう。
第一期と第二期の間で一般的な「敵討」理解に微妙な変化が起こっていることが伺われる。その間にあるのが享保の改革である。法制的な「敵討」概念の成立を、その時期に措定するのは必ずしも無稽の説とは言えまい。さらに敷衍するならば、法制的な「敵討」概念を確立させたのが義士論争である可能性もあるだろう。日本語の「敵討」では気づかれなかった定義の問題が、「復讐」という漢語が用いられたことによって表面化したのではないだろうか。いや、これは先走りしすぎか。
もとより十分な証拠があって述べているわけではない(正直なところ、現在諸般の事情で十分な史料にあたれていない。『近世武家思想』所収のものだけで間に合わせてしまった)。あくまでも仮説の提示である。御批正たまわれば幸甚である。