『通俗演義赤城盟伝』成立に関する覚書

田中光郎

 『通俗演義赤城盟伝』の成立についても、その著者野村逸民についても、確実なことはほとんどわかっていない。
 「通俗演義」という題名は、もちろん『三国志』を念頭においたものである(序では大石を孔明に比している)。漢文の『赤城盟伝』をわかりやすく述べるという趣旨であろうが、取り立てて創作をくわえたあとは窺えず、諸書を斟酌して(序の言葉によれば「諸家の紀聞に拠りて」ということになる)事実を求めたまじめなものである。
 逸民は「読書堂」の堂号があるので、相応の知識人であろう。おそらく上方の人である。そう考える理由は、京都周辺の話題が多いことで、上述円山会議の状況や大石の京都転居などに加え、本文最後のエピソードが(泉岳寺でなく)瑞光院であることを挙げておこう。大坂の片島深淵が『通俗演義赤城盟伝』を入手しえたということも、逸民が上方の人であると推定する理由のひとつになる。
 片島深淵は『通俗演義赤城盟伝』を「本拠」として『赤城義臣伝』を書いたと言っているが、実にその通りである。従来『義臣伝』独特と思われていた記述のいろいろが『通俗演義』に依拠していた。たとえば円山会議のやり取り、大石の四条道場転居などがそうである。堀部弥兵衛の討入遅刻の件もこれに数えてよかろう。
 堀部弥兵衛が仮眠をとって寝過ごしたというユーモラスな逸話は、いかにも作り話めいているのだが『佐藤条右衛門覚書』で事実と確認される。『義臣伝』にあったのでそこそこ知られているが、そのもとが『通俗演義』だった訳である。気になるのは、野村逸民がどうしてその情報を入手したかということだ。
 ここで注目したいのが『義士文通』(=『堀部武庸筆記』抜粋)を手にしているという事実である。『武庸筆記』の流布について、佐藤条右衛門ルートの可能性を示唆したことがある。(『堀部武庸筆記』の流布について)この段階ではかなりまれな情報を野村逸民がつかんでいたとすれば、何らかこの系統との接点があったのではないかと思う。
 今後の参考のため、よって件の如し。