『沾徳随筆』ノート

田中光郎

(1)『沾徳随筆』について

 水間沾徳は子葉大高源五らの俳諧の師である。その生涯は白石悌三の編んだ年譜「水間沾徳」(『江戸俳諧史論考』九州大学出版会)に詳しい。私は俳諧史の探求を目指すものでないが、彼の著した『沾徳随筆』の中に赤穂事件に関する記事があるので、若干考えておこう。

 『沾徳随筆』は享保3年(1718)ごろ成立、全2冊で、江戸時代には写本として伝わった。幕末の藻魚庵大虫の筆写とされる天理大学綿屋文庫所蔵本が、「俳書叢刊」第7期第1冊として翻刻され(昭37)、臨川書店の合冊復刻本第4巻に収められている(昭63)ので、今では図書館などで見ることができる。『随筆』の内容は俳諧論と実作がほとんどで、赤穂事件に関する記述はほんの僅か、臨川書店本で311〜316頁に過ぎない。

(2)沾徳門の「義士」たち

 上述の通り、赤穂事件への言及は少ない。しかも、厳密な意味で『沾徳随筆』の内容を為すといえるのは、最初の一項だけかも知れない。

 浅野氏家臣四十六人の内春帆(富森助右衛門)子葉(大高源五)竹平(神崎与五良)涓泉(萱野三平)此の涓泉ハ牢々の後親にしたかひて摂州摩耶の山下辺に居たるか親ハ一統の志をくミて他の名跡を涓泉に大坂に出し跡にて約束す故のかれかたくて其年の夏自殺せしなり然る上世間に此の人の忠義をしらす皆予俳門に入て秀作たり

 これに続けて、涓泉・子葉・春帆の句を挙げ、そして更に

 其夜の明方誰ともなく予か門迄来て届たる書置の中に
山を抜く力も折れて松の雪   子葉
 悼
なき跡もなを塩梅の芽独活哉  沾徳

の二句を記録している。その後にある「君臣塩梅書経、反古集といふ小集に委書」というのは自句に関する注であろう。

 「四十六人の内」というが、涓泉・萱野三平が46人に入らないことは沾徳自身もよく承知していたはずである。修辞上の理由かも知れないが、やはり不正確のそしりは免れまい。「牢々の後」に彼がいたのは摂州萱野郷(現大阪府箕面市)で、「摩耶山下」(現兵庫県神戸市)からはかなりの距離がある。三平の自殺は元禄15年1月とするのが通説で「其年の夏」というのは無理がある。沾徳が涓泉の忠義を称揚しようとする意図は明白であるが、同時に、彼のことをあまりよく知らないことも露呈してしまっているのである。

(3)大高子葉の書状

 沾徳は上の記述に続けて子葉の書簡を載せる。これは前項にある「誰ともなく予か門迄来て届たる書置」であって、本文に混入してしまった参考資料である可能性がある。もちろん、それ以上の意味を見いだすことも可能であろう。

 尚々尤世に沙汰御座候迄ハ御沙汰被成被下間敷候以上
其後ハ彼是御無音、背本意奉存候。何茂様御堅固ニ御座候哉。扨者私義所存之一筋難止、今晩存立候趣御座候。年来御懇意ニ罷成候一道御伝御厚情、彼是以生々世々ニ及申候事ニ御座候。
 山をぬく力も折れて松の雪
春帆竹平も同し道にて候。涓泉ハ御存の如くにて御座候。御恩借の御蒲団ハ申談て其儘打捨置申候。御一句之引導奉頼ヽヽ候。以上
十二月十五日                  
子葉
 沾徳先師

 「今晩存立候趣御座候」とあるからには、書かれたのは十四日でなければならず、十五日の日付には問題がある。「其夜の明方誰ともなく予か門迄来て届たる」という伝来ともども、疑おうと思えば疑えるのだが、いちおう信用しておこう。
 単なる参考資料以上の意味が見いだしうると書いたのは、この書状に意図的な改変が加えられている疑いが持たれるからである。

 この書状には異なるテキストが伝えられている。『俳家奇人談』に収めるもの(岩波文庫版p155)との間にも出入りがかなりあるが、本稿では問題としない。ここで取り上げたいのは『赤穂義人纂書』所収のもので、「涓泉」を「湯泉」とするような誤写はあるものの、ほとんど同文。ただ一カ所、重大な相違は「春帆竹平も同じ道にて候」と「湯泉は御存のごとくにて候」との間に「進歩事のみ気の毒」の文言が見えるのである。
 俳号「進歩」が誰かについては今後の検討をまたなければならないが(拙稿「寺坂『進歩』説の難点」を御参照いただきたい)、其角が梅津半右衛門あての書状でポロリと「進歩」の名を出しているのに対し、より深く関わっていたはずの沾徳が、おくびにも出していないあたりは注目に値しよう。「進歩」が不名誉な脱盟者であり、それを承知している沾徳が(庇う意図でか、関係を否定する意図でか)あえて言及しなかったと考えらるのは、あながち無理ではあるまい。そうだとすれば、大高の書状にあった進歩の名を『随筆』に収録するにあたって沾徳が削除した可能性も少なからずあるだろう。
 いずれにしても、この大高書状は「進歩」問題とからんでなお検討されるべきものである。

(4)七回忌の追悼文

 これに続いて沾徳が収録しているのが「七年忌子葉をいたむこと葉」である。
 特に『沾徳随筆』のコンテンツとは言えないかも知れない、独立した俳文である。七年忌なのは一統同じであるのに「子葉をいたむこと葉」が書かれたのは、沾徳の意識における大高子葉の特殊な位置を示すであろう。ここでは先の書状に見えた「御恩借の御蒲団」が重要なモティーフになっている。

 「脱捨ぬハ雨後の蓑、脱捨しハ子葉が蒲団也」と書き出した沾徳は、元禄15年11月20日過ぎの、大高の思いがけない来訪を記している。

 その秋京より来て身をひそめ、いつくにかり寐せしそ。・・・過し八とせの霜月廿日余、おもハす机辺に来りぬ。去々年洛下同酔の事なと語あひて「扨、寒夜なれとも秋より丸寐の境界、今猶凌かたし。紙に綿入ても、綿に板つゝみても、寒夜の楯となる物許借あれかし」なとたはふれなから申侍れハ「『一半西窓無夕陽』と云しハ、客と眠しふとん。閑居ハ同し場にして、今以十分の貧いかゝハせん。火燵に負し食次ハ垢膩のあかつきけるふとん也。是にても見ゆるすへきや。」

 文学の素養の乏しい私には若干解釈の苦しいところもあるが、大旨は明らかであろう。子葉が寒さをしのぐものを貸してほしいといったので、炬燵にかけてあった汚れたふとんを与えたというのである。七回忌にあわせて書かれたものだから「過し八とせ」が切腹の前年元禄15年であるのはよいとして、「去々年洛下同酔」とあるのは如何であろう。沾徳の上京は元禄14年2〜6月で、赤穂開城後の大高と会ったことはじゅうぶん考えられるがそれなら「去年」でなければならない。誤記または誤写か、あるいは別段の事情が存在するのか、現時点ではつまびらかにしない。
 酒をくみかわし別れた後に、文武にすぐれた子葉のことをつくづく思ったのである。沾徳の感慨は貴重なものであるが、ここでは贅しない。七回忌にあたり、沾徳は

 過けりな世に白魚の七里灘

を発句とする独吟歌仙を巻いたという。ただし、脇句以下は省略されている。

(5)滅亡濫觴

 『沾徳随筆』に見える赤穂事件関連最後の記事は「浅野氏滅亡之濫觴」と題された文章である。内容は、浅野・吉良不和の原因を浅野側が勅使饗応の費用を切りつめたためとするもので、古くは三田村鳶魚『横から見た赤穂義士』で紹介され、近くは野口武彦氏『忠臣蔵』で取り上げられている。もっとも前者は小宮山南梁から聞いた話としており、『沾徳随筆』は見ていないらしい。後者は前者の孫引きである。
 細かい点まで一致しているので、これが出典であると推定するのが穏やかであろう。私がこの説の出所を『沾徳随筆』と知ったのは、復本一郎『俳句忠臣蔵』による。ただ、復本氏はこの説を大いに支持されているようだが、無条件で史実と認める訳にはいかないように思われる。
 まず、文体が『沾徳随筆』の他の部分と明らかに異なっている。この項は『沾徳随筆』ではないものが混入したと見るべきだろう。沾徳自身が書いたのか、他人の手になるものか、判然としない。小宮山南梁が『沾徳随筆』に依拠したのでなく、共通の種本があった可能性も残るだろう。
 かりに沾徳自身が書いたものだとしても、全面的に信用してよいかどうか。上述の通り、比較的よく知りうる立場にあったはずの涓泉についての記述も、あまり正確とは言えない。所詮は局外の人であり、事情に通じていたとは考えがたい。当時そういう風説もあったというくらいに認識しておいた方がよさそうである。
 そういう用心をしたうえでなら、参考にしてよい。老中から費用の削減を言われた長矩が「性質迫なる人故」どうしても削減しなければならないと考えて無理に減額予算を立てた。ところが老中は本気ではなく、毎年決まり切ったことを言っていただけ(「毎年上より被仰出候趣者同し事」)だという。問い合わせた畠山民部大輔は“そういう指示が出ているならそうすれば・・・”といい加減な返答しかしない。そのあげく吉良と不和になり、指示が日限ぎりぎりになったりするので「心悶難黙止」刃傷に及んだという。沾徳は幕府批判などせず浅野の「若気之至」としているが、事実この通りだったとすれば、物価の高騰や浅野の吝嗇ではなく、無責任な官僚体制が最大の問題だろう。そういうことが“いかにもありそう”に思えるのが、我々の不幸ではある。
 それはさておき、この文中に「報讐の年は午ノ年にて今年十七年其後」とあって、書かれたのが元禄15年(1702)から数えて17年の享保3年(1718)ころだという証拠になっている。

 末尾に林祭酒の挽詩が載せられているが、通行のものとはかなりの異同があり、『忠誠後鑑録』に見える初稿に近い。こうしたことも成立事情を考える参考になるので、念のため付言しておく。