寺坂「進歩」説の難点

田中光郎

 赤穂事件の関係者の中には俳諧をたしなむ者が少なからずある。「子葉」の大高源五、「春帆」の富森助右衛門などは有名だが、正体がはっきりしないのが「進歩」である。橋本平左衛門をこれに擬する説が有力で、ほかに早水藤左衛門、進藤源四郎、貝賀弥左衛門などの名が挙がっているが、最近優勢になってきたのが寺坂吉右衛門である。
 「進歩」を寺坂吉右衛門に比定したのは、復本一郎氏の『俳句忠臣蔵』が最初らしい。その後、江下博彦氏が『七人の寺坂吉右衛門』などで紹介し、最近では飯尾精氏が『忠臣蔵 時代を動かした男たち』で支持を与えている。三氏の業績はそれぞれ素晴らしいものではあるのだが、こと寺坂進歩説に関する限り、にわかに賛成しがたい。

 大高源五が元禄15年の夏に出版した『俳諧二つの竹』がある。私は風流の道にうといのでもっぱら復本氏の解説に従うのだが、同書に子葉・了我・進歩による「膝送り歌仙」が収載されている。歌仙というのは付句の形式で、合計36句になるものをいう。この歌仙の行われた時期が元禄15年夏、場所が京都というのは、成立過程からして間違いないようだ。とすれば、「進歩」は元禄15年の夏に京都にいたということになる。
 俳句研究家の復本氏が気づかなくても不思議はないが、義士研究家ならここで気づくだろう。このころ、寺坂吉右衛門は吉田忠左衛門に同行して江戸にいるはずなのだ。『寺坂信行筆記』によれば、2月21日に京都発足、3月5日に江戸到着している。その後京都に戻ったという記事はない。寺坂にはほぼ完璧なアリバイが成立しているのである。

 復本氏が寺坂進歩説をとる主要な根拠は、2通の書状である。1通は元禄15年12月15日付けの水間宛大高源五書状(『赤穂義人纂書』所収)で、「進歩事のみ気の毒」という記載がある。もう1通が同12月20日付けの梅津半右衛門宛宝井其角書状(『赤穂義士史料』)で「竹平、進歩・・・両人も此度連判四十七人ノ内なり」と書かれている。四十七人のうちで「気の毒」と呼ばれるのに値するのは、終わりまで行動をともにできなかった寺坂だろうということである。この2通について考えてみよう。
 まず其角書状であるが、復本氏はこれを偽簡と認定した上で、偽作者を事情に明るい人と見なし、「進歩」を四十七士のうちとするにはそれなりの根拠があったものと推定している。この書状については本物だとする説もあり(田中善信「其雫宛其角書簡−赤穂浪士討ち入りの報告書」=『芭蕉の真贋』所収)、私としてはこちらに従いたい。この書状には赤穂側に2人の討死があったという誤情報が含まれているが、後世の偽作ならばこの種の誤りはありえないだろう。だから、真簡だと推定した上で、誤情報を含んでいることに十分の顧慮を払うべきであろう。「四十七人ノ内」という記述を無条件には信用できないのである。
 もう一方の大高書状についていえば、「進歩事のみ気の毒」の文言が原文書にあったという確かな証拠はない。かりにあったとしても、復本氏の理解は現代語の「気の毒」に引きずられているきらいがある。この語は現代語と同じ意味で用いられることもあるが、江戸時代の用法はもう少し広く、「不愉快」などの意にとるべき場合もある。「進歩」が脱盟者だとしても、この表現はあり得るであろう。『沾徳随筆』所収のテキストが進歩についての記事を欠いているのは、偶然ではないかも知れない。門人「進歩」の不名誉を後世に残さないために、沾徳が意図的に削った可能性もある。しかし、あくまでも可能性でしかない。
 要するにさほど強固な根拠はなく、上述のアリバイを考慮に入れた場合、「進歩」は寺坂吉右衛門ではないとする方が妥当なように思われる。

梅津半右衛門については与謝蕪村『新花摘』に記事がある。同書により半右衛門の俳号は「文鱗」でなく「其雫」とするのが正しいようである。「其雫」のよみであるが、復本氏や『近世俳句俳文集』(小学館日本古典文学全集)は「きてき」、田中善信氏は「きか」としている。漢和辞典でみると「雫」の音は「ダ」または「ナ」である。いずれが正しいか疑問が残るが、今は保留としておきたい。

 それでは「進歩」の正体を、と言われても、残念ながら期待にはそえない。「気の毒」を「不愉快」のニュアンスでとれば、橋本平左衛門でも不都合はない。しかし、橋本の自殺は佐々小左衛門の書状(『赤穂義士史料』)などにより元禄14年11月頃と見られるから、歌仙の行われた15年夏にはこの世にいない。寺坂以上に完璧なアリバイが成立してしまう。進藤源四郎のような脱盟者にも「気の毒」と言えるだろうけれど、進藤は大高とあまり仲がよくなさそうなので(元禄14年9月14日付大高書状=『赤穂義士史料』)これも公算は低そうである。「気の毒」が討入そのものとは関係ない事情を言ったもので、「四十七人ノ内」というのが正しい可能性も、依然としてある。早水や貝賀でないとは言い切れない。可能性のレベルでなら、親の方の岡野金右衛門(元禄15年秋まで生存)あたりも候補になるかも知れない。あわてて結論を出すべきではないと思う。