『赤穂城引渡一件』と「帳面書付之目録」

田中光郎

(1)『赤穂城引渡一件』と「帳面書付之目録」

 片山伯仙『赤穂義士の手紙』に、大石内蔵助が落合与左衛門に提出した「帳面書付之目録」が収められている(以下「目録」)。この「目録」中現存するものは箱根神社蔵の「預置候金銀請払帳」のみである、と片山氏は指摘する。現物が残っている、という意味では、多分その通りである。だが、写しと思われるものはないでもない。『赤穂義人纂書』に『赤穂城引渡一件』(以下『一件』)として収載されているのが、それである。

* 
現在は中島康夫「大石内蔵助 最期の密使」に転載され、不鮮明ながら写真も見られる。また、この目録に言及した論考としては佐藤誠「大石良雄「金銀請払帳」再考」(『ぐんしょ』56)がある。併せて参照されたい。

 『一件』はもと11冊から成る。内容は次のようである。

 覚書目録6のうち
 城御引渡前之覚書目録6のうち
 御目付様方其外覚書目録6のうち
 御代官方覚書目録6のうち
 播磨国赤穂城内本丸建家改帳目録12b
 播磨国赤穂城内屋鋪改寄帳目録12a
@引料米渡帳目録2i
 A引料金渡帳目録2b
 物成切米金給之帳目録10断簡?
 着領具足并小道具帳目録4b?
10 御武具帳目録4b
11@瑶泉院様へ御引取被遊□□品の帳
 A江戸上下路銀等差引帳

 さて「目録」の方だが、これも一覧にしてみよう。番号はないが便宜上記載の順序に従って付す。

 袋入2冊
 御用金之帳
 御金御米支配帳
 惣帳袋入10冊
 金銀請取元帳
 引料金渡帳一件7A
 従江戸上り候面々路銀渡帳
 払物代聚以後金渡帳
 定江戸面々内赤穂江来候者共へ金子渡帳
 御城引渡以後迄勤候者之内江遣金帳
 口帳上リ候迄勤候者其外へ金銀渡帳
 巳三月十九日より同六月四日迄金銀払帳
 引料米渡ス帳一件7@
 札座大積書付1通
 右帳面之小手形共袋入
 1封
 大学様御金之書付1通
 武具帳1冊一件10
 絵図3袋
 覚書袋入4冊一件1〜4
 赤穂四ヶ寺江寄付之書付
 高野山悉地院より来日牌証文箱入
 紫野瑞光院寄付候山証文并寄付箱入
10 分限帳1冊一件8?
11 正保二年御引渡帳箱入3冊
12 袋入4冊
 赤穂城内改寄帳一件6
 本丸二ノ丸建家改帳一件5
 城附武具帳一件9?
13 女証文願書箱入
14 御由緒書箱入1冊
15 預置候金銀請払帳1冊
16 右之小手形共袋入

表題から考えて『一件』の5・6・7@・7Aが、「目録」の12b・12a・2i・2bと一致することはまず間違いない。
 「目録」4bには、「大学様御金之書付一通」と「武具帳一冊」について「此二品、本紙者井上団右衛門江遣也」と記載されている。ここに「三通を継立候分」という但し書きがあり、活字にすると「御金之書付」についてのもののようだが、写真版で見れば「武具帳 一冊」についてとも見える。『一件』10「御武具帳」の末尾に「右之諸道具、井上五左衛門・ 鈴木忠内・岩城藤太夫え預置候に付き、帳面三冊に認、武具奉行人より相渡置候。右三冊の帳面つゞめ候て、一帳に相認指越候様申談、巳六月十六日、忠内持参候也」とあり、さらに「右の本帳面、井上団右衛門迄指遣、団右衛門方より大学様へ指上申様に申遣候 大石内蔵助」という記載があるのと照応する。ともかくも『一件』10が「目録」4に相当するものと考えるのに不都合はあるまい。
 「目録」にもう一つ12c「城附武具帳」があり、今の「武具帳」との関係は分明でないが、『一件』9「着領具足并小道具帳」にあたる可能性はあるだろう。『一件』8「物成切米金給之帳」については、直接相当するものがない。ただし内容的には「目録」10「分限帳」の一部であることは考えられる。『一件』11の二点については、照応するものを見出しがたいが、どれかに紛れている可能性までは否定できない。
こうなると、『一件』の1〜4の4冊の「覚書」が、「目録」6「覚書 袋入四冊」であると推定するのも、あながち無理ではないように思われる。『一件』のほとんどは「目録」に記載されている書類だったのである。

(2)『一件』の成立をめぐって

 『一件』の成立について、『纂書』には次のような奥書がついている。

此書は、播州赤穂城主浅野氏領知被召上、依家臣所記書也。内匠頭長矩弟浅野大学方へ贈たるを、天保甲辰三月、借抄于浅野長年
瀬名貞固誌
甲辰六月借抄于瀬名君
白藤鈴木恭

 これによれば、浅野家家臣から大学家に直接伝えられたようだが、実際は少々違うだろう。先に掲げた「武具帳」の「本帳面は・・・大学様へ指上申様に申遣候」という記載は、これが大学に届けられた「本帳面」でない証拠である。
 もう一つ、『一件』11@「瑶泉院様へ御引取被遊□□品の帳」は、元禄15年閏8月に斎藤七郎兵衛・前田市右衛門らから落合与左衛門に引き渡された長矩遺品の目録である。前田市右衛門は浅野美濃守の家臣だから(中島前掲書)、これらの品物は美濃守が預かっていたのであろう。大学家が関与する性質のものではない。
 あわせて考えれば、『一件』は三次浅野家にあったもので、その中核は「目録」と共に大石から落合に引き渡された書類の一部であると推定できる。『一件』では巻ごとに元の体裁が示されている。瀬名以前にこの形になっていたとすれば奥書は異なる表現をとったのではないか。恐らく浅野家にあったのは未整理な状態の現物で、瀬名貞固がこれを整理し、元の体裁まで丹念に記録したと考えるのが自然である。
 「目録」にある他の書類はそれ以前に散逸していたのだろう(『金銀請払帳』のみが別の運命をたどって箱根神社にたどり着く)。かわりに別のルートで伝わった関連文書が(少なくとも11)一体のものと認識され『赤穂城引渡一件』の総タイトルが付されたものと思われる。

(3)『江赤見聞記』の情報源

 『一件』の記事は『江赤見聞記』=『家秘抄』と重複するところが多い。著者に落合与左衛門を比定する立場からは、彼の手に渡った資料が使用されるのは当然とも言えよう。私も落合著者説に傾斜しているのではあるが(拙稿『江赤見聞記について』)、事態はそれほど単純でもない。成立に関してなお不明な点が多いこの書を、編纂物と喝破したのは佐藤誠氏の卓見である(赤穂義士史料館「江赤見聞記」)。編纂の原資料を確定していくことが、この書の成立事情を明らかにする道筋に連なるであろう。

 『江赤見聞記』六の冒頭部分は『異本浅野報讐記』と、同じく末尾の「諸士行跡」と題された部分は『浅野仇討記』と、重複の多いことが知られている。このうち『浅野仇討記』には次の奥付がある。

此一冊者浅野隼人殿藩士前田氏蔵也。自村部貞幹子借覧而密写之。寔時代之実録尽于此書焉。可希代珍書也。
享和三年癸亥仲冬初旬写以珍蔵
萌鑑寺村安征

 浅野美濃守家は代々隼人を通称とする。その家臣・前田氏とあるからには前田市右衛門の末であろう。前田は落合から材料を集めて『亮正記』を編んだことが知られている(中島前掲書)。『家秘抄』『亮正記』『浅野仇討記』三書にどういう関連があるか、今後の課題としたい。