『江赤見聞記』について

田中光郎

 拙稿「赤穂城の政変」(ろんがいび0009)では、赤穂開城の政治過程について、通説とはいささか異なる見解を示している。これは、『赤穂義人録』のような著作物に極力頼らずに再構築した結果である。その点では、八木哲浩氏(『忠臣蔵』第1巻)と同じ方向を目指すものであったのだが、描きあげた像はこれとも趣を異にしている。その理由はいくつかあるだろうが、最大のものは『江赤見聞記』の取り扱いにあるように思われる。八木氏はこの書をほとんど用いていないが、私は『堀部武庸筆記』と同じくらいには信用してもよいと思っている。本稿では、この『江赤見聞記』の史料的性格について考えてみる。

(1)『江赤見聞記』と『家秘抄』

 現在使われる『江赤見聞記』のテキストは『赤穂義人纂書』補遺に収録されたものであるが、元をただせば明治20年(1877)に広島の人・岡謙蔵が東京の九春堂から『赤穂義士事蹟』と題して出版したものである。同書に「赤穂義士事蹟を刊行するの由緒」という岡の文章がある。それによれば、岡家には祖先の頃から「江赤見聞記と題せる一の古記録」を所蔵していた。これは「赤穂義士大石良雄等が復讐の顛末を録せるもの」で、世に伝わる他の記録類と比べても「大に実録に近し」と思われたが、「当時に成し記録なるや否やを詳かに」しなかった。大石家の末裔(ご存じの通り、大石の遺児大三郎は広島に仕官している)に「江赤家秘抄と云ふ当時の実録を写せし記録」があると聞いて、家蔵の見聞録と照合したいと思ったが、幕府を憚ったか承諾が得られなかった。
 維新後タブーが解かれたのを機に再び大石家の末裔(多久蔵)に請い、両者を比較対照したところが「二書殆んど符節を合する如し」であった(明治四年七月大石が岡に与えた保証書の写も同書に収載されている)。そこで岡は「家秘抄を刊行し彼の推測想像の惑ひを解かしめんことを」勧めたのだが、多久蔵は「自家祖先の事蹟を以て世間に誇る如きは余の尤も快しとせざる所なり」と拒絶、ただし、見聞記を刊行することについてはとがめないというので、岡はたいそう恥じかつ感じて「見聞記を以て義士の功績を明にせん」と誓った。その後しばらくそのままになっていたが、岡の門人の紹介で東京の九春堂から出版の話が持ち込まれ、多久蔵も同意したので刊行の運びとなった、という。

 大石多久蔵良知は明治23年まで存命であるから、岡の記す事情に偽りはないだろう。つまり『江赤見聞記』が『家秘抄』の別名であるという点に疑いはないということである。

(2)内容の構成

 『江赤見聞記』=『家秘抄』は七巻から成っている(大石多久蔵の保証書にも「七冊」とあるので、全部を対象と考えてよいであろう)。構成は次のようである。

  1. 勅使御馳走役任命から開城決定までの過程(覚書風)
  2. 開城終了までの過程(覚書風)
  3. 脇坂家・木下家の行列
  4. 開城後、討ち入りまでの過程(覚書風)
  5. 関連文書の写し
  6. 切腹までの状況。及び銘々伝
  7. 落首等

 内容を見ると、巻五までと巻六以降はがらりと雰囲気がかわる。明らかな俗説が相当混入しているし、部分的には巻五までと矛盾するような記述も見られる。巻六の最初にあるのは仙石伯耆守と大石の問答であるが、これは『異本浅野報讐記』(『義人纂書』第二)と共通である。『江赤見聞記』=『家秘抄』がほとんど流布しなかったことを考えれば、『報讐記』が先行しているか、または共通の種本があると見るべきだろう。つまり、巻六・巻七はオリジナルでなく、別途収集した資料を収載したものと考えられる。
 このことは筆者問題の重大な手がかりとなろう。

(3)『家秘抄』の筆者について

 『家秘抄』の信頼度は、浅野本家の保証付きである。すなわち、浅野家で編纂した『冷光君御伝記』(『赤穂義士史料』中に『浅野長矩伝』と題して収録)に信頼できる史料として用いられている。浅野家が使用したのは落合軍兵衛所蔵の『家秘抄』であるが、同書はさらに筆者が落合与左衛門勝信であることを明言している(史料中p377)。
 周知のことに属するであろうが、落合与左衛門は三次浅野家臣が長矩夫人の入輿に付いてきたもので、刃傷事件後は江戸と京阪の書状の仲介をするなど、列外の同志といってよいほどの協力者であった。当然ながら、かなりの程度機密に触れうる存在である。
 問題は、これが事実落合の手になるものかという点である。『冷光君御伝記』はその根拠を明らかにしてはいないが、次のような事情が想像できる。三次浅野家は享保4年に断絶して浅野本家に吸収されているから、落合家は浅野本家に仕えることになった。浅野家で伝記類を編纂するのに家臣から史料を集めたが、その中で落合軍兵衛が『家秘抄』を提出する際に、これは与左衛門勝信の手記であると申告した。来歴を考えれば、落合勝信筆者説には無理はないだろう。実物が伝わらないので断言はできないが、伝記の編纂者が信用したという判断は相応に尊重すべきであろう。

 内容面で、落合の手になる証拠として指摘されているのは、元禄14年冬に大石が江戸に出たときの記述である。この時大石はしばしば瑤泉院を訪れるのだが、『家秘抄』=『見聞記』には「此方へ為御機嫌窺罷出る」と記されている。瑤泉院とともにいる落合だからこそこういう表現になるという『冷光君御伝記附録』の指摘(史料中p470)は十分説得力がある。
 そして、先に指摘しておいた巻六以降の杜撰である。落合は、討ち入りまでの事情にはかなり詳しかった可能性が高い。また、討ち入り時の様子などについては堀内伝右衛門の好意で藩医だった寺井玄渓に報告書が届けられており、知りうる立場にあった。しかし、それ以降の状況については、格別に情報を入手しやすい位置にはない。真偽の混交することは承知のうえで、耳目に入る様々な情報を記録していったことは想像できるであろう。巻六・七の質の悪さは、落合が筆者であるという説を補強するものである。
 大石の放蕩にはあまり根拠がないのだが、『家秘抄』=『見聞記』には大石の不行跡が進藤源四郎・小山源五左衛門らとの訣別の一因になったことが記されている。この記述には進藤らをかばう気持ちが現れているように思われる。進藤らと交際のあった人物の手になるとすれば、理解がしやすくなるだろう。これも落合筆者説の傍証にはなるのではないか。

 結論を言えば、『家秘抄』=『江赤見聞記』は落合与左衛門勝信の筆記であるという説は、ほぼ支持されてよい。従って、巻五までについては、当事者の記録に準じた扱いがされるのが妥当であり、これを無視しては事件の真相を理解しがたくなると考えられる。