続報・細井広沢の致仕
『近世能書伝』より

田中光郎

(1)はじめに

 つい最近(2001年8月某日)のことだが、古書店で何気なく手に取った1冊の本に重要な記述を発見した。その本は三村清三郎『近世能書伝』(昭和19年、二見書房)。恐らく書道関係者には有名な本なのであろうが、恥ずかしながら全く知らなかった。私の関心は、もちろん細井広沢にあり、近世の能書家の本なら広沢についても書いてあるだろうくらいの軽い気持ちだったのだが、読んでみて驚いた。
 以前「細井広沢の致仕」と題する小文を草して「ろんがいび」上に発表したことがある。これを読んだ佐藤誠氏から佐佐木杜太郎『細井広沢の生涯』を教えられた。内容的に大きな間違いはなかったが、重要な参考文献を逸していたので、追記を加えておいた。本書を読んでも、同様に拙稿の大きな誤りを発見した訳ではない。しかし、この本を先に読んでいたらあんな文章は書かなかっただろうと思われるくらい、詳しく確実な情報が載せられているのである。もっともこれは私ばかりでなく、碩学・佐佐木氏も本書を見ておられないようである。孫引きが多くなるのは心苦しいが、稀覯書ということもあり、この本からどういうことが知れるのか、紹介するのも無駄ではないように思われる。

 ことの順序として、著者の紹介からはいるべきだろう。三村清三郎、号は竹清。『日本芸林叢書』の編者の一人と言ったらわかるだろうか。現在彼の日記を翻刻している早稲田大学演劇博物館三村竹清日記研究会によれば「三村竹清(1876-1950)は、書・篆刻・古典籍・近世文芸・地誌・民俗に通じた研究家であり、また趣味の人でもあった」とある。巻末のプロフィールによれば明治5年東京生まれ「書家成瀬大域の門人にして、書道研究に半生を捧ぐ」とある。生年が食い違っているが後考を待とう。要するに大変な教養人であって、書かれたものは信ずるに価するということである。もっともそんな経歴など知らなくても、執筆の態度を見れば、疑おうなどという気持ちは露ほども起こらないはずだ。

(2)細井広沢致仕の時期

 広沢の致仕の時期であるが、子の文三郎(九皐)の親類書により、元禄15年5月25日であることがわかる。この親類書は、元文元(1736)年九皐が家督相続に伴い組頭・近藤登之助に提出したものである。

亡父次郎太夫儀、松平美濃守方ニ近習鉄砲組預之相勤罷在候。
元禄四年辛未九月十一日、常憲院様美濃守宅江御成之節、御目通江罷出、御講釈拝聞・御仕舞拝見被仰付候。其後、同月十五日、御本丸江罷出、御座之間御講釈拝聞仕。其後、御能御仕舞度々奉拝見、尤被下物毎度頂戴仕候。御学問筋之御用向、度々相勤申候。元禄七年甲戌四月六日、於御休息御能被遊候節、拝見被仰付、自是御休息所江茂毎度罷出候。同年御判物御用被仰付、出来仕候而差上申候処、御褒美被下置候。
元禄十五年壬午五月廿五日、有故美濃守方浪人仕、甥長田甚左衛門小四郎方ニ罷在候処、大御所様当御代享保元年丙申御印文黒印書上之申候・・・

 この文は将軍家と細井家の関係を記すことに主眼がおかれている。ともかくも松平美濃守(柳沢吉保)方を浪人したのが元禄15年5月25日と明示され、『楽只堂年録』から広沢致仕を15年5月と推定した佐佐木杜太郎氏の分析の正確さを証明している。

(3)細井広沢致仕の事情[上] 太田左兵衛

 広沢致仕の子細は「中村筆記に今井元昌の話として詳しく出てゐる」。大略は前掲拙稿のよった『元禄世間咄風聞集』(岩波文庫)に同じいが、より詳しく、またニュアンスの異なるところもあるので、三村氏の本文を引きながら、再話してみよう。

『中村筆記』は水戸の人・中村浩然の著すところ(『近世能書伝』佐佐木玄龍文山の項)。今井元昌は「広沢と心易い」人物だったそうである。

 広沢致仕の原因となった問題の人物は、太田左兵衛という(三村氏は「左」と「佐」を両方使っている。引用部分を除いて「左」に統一しておく)。以前は越前松平家の家臣で8000石(一説3000石)を取っていたが、貞享3(1686)年に松平綱昌が改易となり、あらためて昌親が藩主となるが石高は半減した。左兵衛はこの時に牢人したものである。牢人といっても、裏長屋の傘張り浪人と同日の談でない。親類の一柳土佐守(末礼、播磨小野1万石。左兵衛との関係は不詳であるが、妻が太田備中守資宗の娘である)を頼って江戸に出た。旗本になることを望んだのである。
 どういう経緯かはわからないが、太田左兵衛は細井広沢と親しくなった。広沢が柳沢家に仕えたのは元禄4(1691)年7月らしいから(三村氏によるが、根拠は必ずしも明らかでない。佐佐木氏は元禄3年末から4年初の頃と推定している)、広沢牢人時代からの知己とすれば出府後数年のうちに交誼を結んだことになる。

吉保は将軍家の御覚えが目出度いのでそこを見込み佐兵衛を御旗本に推挙して頂きたいと願ふと、吉保はそれはむづかしい、太田備中守は佐兵衛の本家であるから、それへ頼むが然るべきであらうといはれ、備中守へ願い五百石位分地して貰ふ事にして、吉保から老中へ相談した所、大名の兄弟とか叔姪ならとにかく遠い親類では先例が無いといふので許されなかつた。吉保も無據それでは一時わしの家来になつてゐてはどうか、二年とは待たせず何とかしやうと言つたが、左兵衛は越前家を不足申て出た時、他に主取りは仕らぬと言つてゐる手前、上様より外ではいやだといふ。
原文はにんべんに作る。JISではフォローしていないのでおんなへんで代用した。

 ここでは、左兵衛が旗本になることを望んでいたことを確認しておこう。将軍に仕えるのは「他に主取りは仕らぬ」という誓約と矛盾しないという感覚にも注意をしておきたい。
 もう一つ、柳沢吉保(当時は保明)の態度について考えておく。後で「三年も待つた」云々が出てくるので元禄12年頃の話と思われるが、“権勢並びなき柳沢が横車を押す”様子はない。太田備中守(資直。駿河田中5万石)の分地というのは、穏やかな策であろう。上述の通り一柳氏に身を寄せていたとすれば、太田家(当主・資直は一柳末礼室の甥である)も左兵衛に肩入れしていたと考えるのが妥当である。その話を老中に持っていって“先例がない”と断られる。そこでも自分の顔がつぶされたと怒るわけでもなく、「一時わしの家来になつてゐてはどうか」というあたり、なかなか話せる殿様である。もちろん“二年とは待たせず何とかしやう”というのは、将軍家の寵をたのんでの自信ではあろうが、強引な手腕を発揮する訳ではない。

(4)細井広沢致仕の事情[下] 獅子王の剣

 さて、ここに左兵衛の古傍輩の忠衛門なる人物が登場する。苗字を逸しているのでただの忠衛門で通しておくが、松平右京大夫輝貞に仕えていた。松平家と柳沢家は縁戚関係にあるので、この忠衛門も柳沢家に出入りをしていた。で、この一件が捗らないのを知った忠衛門がこんなことを言い出した。

あの獅子王の剣を私の主君右京大夫様にさし上げたらよからう、主君だつてたゞ貰つてゐる筈もない

 この「獅子王の剣」が悶着の種である。源三位頼政が近衛天皇を悩ませたヌエを退治した褒美として獅子王の剣を下された話は『平家物語』にもあり広く知られたところ。その獅子王の剣を太田左兵衛が伝えており、旧知の忠衛門が思い出したという次第。これが真物かどうか、私は知らないが、常識的には眉唾であろう。輝貞に左兵衛を旗本にする力があるのかもわからない。ともかく、左兵衛もその気になって献上した。輝貞も喜び一方ならず「能をして左兵衛を振舞ひ、肴を三度迄引いては御馳走して帰した」という。

左兵衛はこれで其中に吉報が来るかと三年も待つたが沙汰が無いし忠衛門も死んで右京大夫との縁も心細いので、御家老の所まで内々伺ひに行つた所、家老はそんな事は少しも知らず右京大夫に申上ると、右京大夫も驚いて、そんなことで剣をくれたなら貰はなかつた筈だつた、それでは返さうかといつてゐると、それを吉保が聞いて広沢を使者にしてやつた、ここでどういふ行違があつたが広沢が立腹してとかく剣を返せと言つたらしい、所が吉保と御城で右京大夫が逢ふと話が相違してゐる。とにかく左兵衛へは越前へ帰る贐として銀三百枚贈り引続いて右京大夫へ出入を許し、又吉保から紗綾二十巻遣し、此方は落着したが、此の為め右京大夫がひどく広沢を憎み吉保も困つて、已むなく暇を出した

 『元禄世間咄風聞集』の伝えるところと大筋は同じだが、ニュアンスは異なる。ただの系譜類でなく獅子王の剣というお宝だというのが第一点。松平輝貞がだまし取ったというより、意志の疎通を欠いたと言うべきで、死んでしまった忠衛門に責任の大部分がありそうである。輝貞にしてみれば、3年も経ってから(これも数日の間のように書いた『風聞集』とは異なる)そんなことを言い出されては、当惑するに違いない。それにこれが贋物の疑いがあるとしたら、御馳走大盤振舞で大名の鷹揚さを示したとして、旗本に推挙はできないだろう。ただし(これはもう100%想像だが)間に立った家老が疑うようなことを言ったとしたら、広沢も激昂して「さりとては右京太夫様ならずの儀を被仰候と奉存候」(『風聞集』)くらいのことは言いかねない。そうなれば、輝貞の怒りも尤も。左兵衛には銀300枚を贈ったうえに引き続き出入りを許す寛仁大度を示しても(これも紗綾とも柳沢から出たとする『風聞集』と異なる)、広沢だけは許せないと思っても不思議はないように思われる。

 以上が今井元昌の伝える事態の概要だが、事実確定という訳ではない。『中村筆記』には異説も載せられている。それによれば、広沢を仲介として獅子王の剣を献上した浪士(名は記されていない)に、松平輝貞は銀百枚を与えた。その後又この浪士のことを広沢が言い出したので「某へ無心申まじきと申所になんぞや剣をくれておき又無心は如何ぞや」と怒ったとある。こうなると広沢の方がタカリめいてくる。
 今井元昌の説、『中村筆記』の異説、いずれが是とも定められない。なお検討の余地はあるが、『風聞集』よりは確度の高い説といえよう。

(5)むすびに

 『近世能書伝』に見る細井広沢致仕の事情は以上の通りである。これだけのものが義士研究者の情報網から漏れていたというのは、信じ難いことではある。
 本書には他にも重要な記載が多い。余裕があれば、また検討してみたいと思っている。引用されている史料『中村筆記』や『求艾録』『広沢翁和歌』などは著者の架蔵品であったらしいが、その行方なども知れればありがたい。