元禄15年閏8月7日の会合
「東行違変の舞台裏」補遺

田中光郎

(1)はじめに

 拙稿「東行違変の舞台裏」では、いわゆる神文返し前後に通説とは異なる事情があるのではないかということを考えた。簡単に復習しておこう。元禄15年7月末ころ、大学左遷の報を承けたいわゆる円山会議(ただし円山で開催されたかどうか疑問がある)において敵討決行方針は確認されたが、この時点では慎重論(延引論)が優勢であったと考えられる。この時点で、大石はむしろ強硬派であると考えられ、小山源五左衛門・進藤源四郎等の穏健派との違いが見られる。ただし、進藤・小山らは幹部として行動しており、重要会議に欠席したとは考えがたい。脱盟の動きは、8月15日の長沢六郎右衛門の書状から始まる。これを承けて、いわゆる神文返しが行われる。神文返しは浅野本家の圧力を受けた進藤・小山等の意向によって必ずしも大石の本意でなかった可能性がある。恐らくこの神文返しが一段落したあたり、江戸組の強硬論を背景に大石が即時東下を決心し、進藤・小山らの幹部が脱盟する。
 今のところ大筋において変更の必要を感じていないのだが、その後脱盟届を読み返していくつか論じ落とした点があることに気づいたので、補足しておきたいと思う。

(2)A期・B期に関する補足

 前掲拙稿では、いわゆる神文返しまでをA期、幹部脱盟以前をB期とした。その時期について、以下の2点を補足しておきたい。

 第一に、灰方藤兵衛の(8月)23日の脱盟届の中に「御延引御見合被遊候ては有之候へども」とあって、この当時延引論が採用されていることが確認できる。灰方の脱盟の論理は、東下したくないからではなく、いつ下向するかもわからないからだった。

 第二に、B期に数えた幸田与三左衛門であるが、文言を見るとC期のもの同様に「御手はなれ申」とあって、単純に神文返しに応じたとも言い切れない。幸田の脱盟届は『浅野長矩伝附録』(『赤穂義士史料』中p490)によれば「後ノ八月廿八日」すなわち閏8月28日付けなので、C期に属する可能性もある。これについては断言を避けたい。

(3)閏8月7日の会合

 さて、C期脱盟届の皮切りは、閏8月8日の進藤源四郎、ついで同9日の粕谷勘左衛門(乙部又兵衛)・岡本次郎左衛門、10日の小山源五左衛門ということになる。このうち、粕谷・岡本連名の書状に「一昨日何も御寄合被成候間、私共参上仕候様に被仰下候得共…差ひかへ申候」という記述がある。
 これに従えば閏8月7日に「寄合」があったことになる。 この「寄合」は、恐らく潮田又之丞の携えて戻った江戸組の強硬論を背景に、大石が「殊外せき候て、源四郎などが申分不聞入、是非共に下り候相談に相究」める(『江赤見聞記』)という流れの会議だった。だから、粕谷や岡本は欠席したのである。進藤・小山らが出席したかどうかは定かでないが、欠席した可能性もある。『赤城義臣伝』の記述が信用できないこと、前掲拙稿でも述べたが、全くのデタラメでもないとすれば、この会合と混同したのかも知れない。閏8月7日の会合こそ、大石と進藤・小山が袂を分かつ分節点になったと考えてよいだろう。

 7日の会合に欠席した粕谷・岡本に対して大石は手紙を送った(脱盟届に「一昨日は御手紙忝」とある)。これへの返書として、両名は脱盟届を提出する。『江赤』はこれに続いて宛名も署名も欠く文書を収める。内容からいって大石の返書だと思われるが、「御勝手次第」としている。やりたくない奴は来なくていいということで、粕谷の考えを「面白き御思慮」と述べているのはイヤミかも知れないが、まずあっさりしたものだった。
 進藤・小山については、そう簡単にはいかない。進藤のところには閏8月21日、小山のところには同25日、寺井玄渓を派遣して説得させている。1ヶ月半前、大石はこの両名に河村伝兵衛・原惣右衛門・小野寺十内を加えたメンバーで、寺井玄渓に江戸下向を断念するよう説得させた。その際の論理は「御勤方違」すなわち医師であって戦闘員でないということだった。玄渓の説得を受ければ、同じ論理(進藤・小山は武士=戦闘員)で、一挙に参加せざるを得なくなるだろうという考え方が、大石にはあったのだろう。しかしその説得は功を奏することなく、大石としては不本意ながら一族の主要メンバーを欠くことになるのである。