『梶川氏筆記』の読み方 

田中光郎

はじめに

 いわゆる赤穂事件とは、元禄14年3月14日の浅野内匠頭刃傷事件と翌15年12月14日の赤穂浪士討入事件を指す。さらに細かい事件が派生しているが、中心になるのがこの2件であることに異論はないであろう。赤穂事件について今なお多くの解明されていない問題があるが、最初の刃傷事件についても分らないことだらけである。そもそも、この事件の根本史料たる『梶川氏筆記』の読み方についてすら、いまだ精緻な検討がされたとは言い難い。もちろん、多くの研究者がこれを読んでいるには違いないのだが、不十分な点があるように思われる。浅学を顧みず『梶川氏筆記』の解読に取り組む所以である。
 まずは刃傷事件そのものとは関係のない、当日の梶川の動きから。

(1)事件前の梶川の行動

一、十四日。今朝五ツ時、例の通登城、御広敷へ参る。「拙者儀今日御使に参り候に付、御口上の趣も可承、并に包熨斗請取申度」の段申込候処、岩尾殿御出候て、御台様よりの御口上あらまし被申聞候て包熨斗を御渡し候故請取、夫より御下男部屋へ右包熨斗を持参候時、土屋勘助に逢申候へば、「主計殿被申候は『今日御使御勤被成候』由被仰候。其段手紙を遣し可申と存候」旨申聞候。拙者「其段は相心得候」由を申、自分部屋へ参り刀を差置、御留守居衆の部屋へ参り候へば、主計殿御申には「先刻吉良殿より『今日の御使の刻限早く相成候』旨申参候」旨被申候故、「委細承候」と申て、夫より中の間へ参り候処、多門伝八被居候故、公家衆を尋候へども、居られ申さず候。「然ば殿上の間に可被居候はんや」と申候処、「最早公家衆には御休息の間へ被参候」由に付き、「左候はゞ大廊下には高家衆被居可申哉」と申候へば「如何可有之哉」と被申候間、「然らば大廊下へ参り見可申」と申捨て、大広間の後通りを参り候処、坊主両人参り候。一人は大広間の御縁頬杉戸の内へ入申候。一人は我等後の方へ参り申候。

 まず登場順に人物を確認する。まず筆記者梶川与惣兵衛頼照(正保4−享保8、1647-1723)55歳、700石、留守居番。岩尾は不詳だが、いわゆる三字名を持つ女官で、御台所(徳川綱吉正室鷹司氏)から勅使への口上を伝えるのだから、かなり上級の者(御年寄クラスか)であろう。土屋勘助正春(寛永19−享保3、1642-1718)60歳、400石、広敷番頭。松平主計頭近鎭(正保2−享保元、1645-1716)57歳、2500石、留守居。多門伝八郎重共(万治2−享保8、1659-1723)43歳、700石、目付。松平主計頭は梶川・土屋の上司である。
 3月14日朝五つ時(午前8時頃)登城した梶川は広敷へ行く。念の為江戸城本丸御殿の構造を復習しておくと(このあたりは稲垣史生『時代考証辞典』などによる)、いわば幕府の政庁である表・将軍官邸ともいうべき中奥・将軍私邸の性格の強い大奥に分けられる。大奥はさらに御広敷向・長局向・御殿向に分れ(野口氏が広敷を中奥にしているのは誤りだろう)、御殿向が将軍の家・長局向は女中宿舎になっていていずれも原則的には男性がいないのに対し、御広敷向はいわば大奥管理棟であって男の大奥役人が勤務する。この広敷と長局との間に御錠口があって容易に通行できないこと、周知の通りである。土屋と会ったという御下男部屋も広敷のうちである。
 言うまでもなく、留守居(留守居年寄)は大奥の監督を職掌としている。留守居番はその下につきもまた、この場合のように大奥の用を勤めたものであろう。このような役人は役目がら大奥へも出入りできたようだ。しかし、彼等はあくまで表方の役であるから、部屋(執務室)も表御殿にある。御台所の口上を預った梶川は、広敷を出て表御殿に回った。もちろん将軍専用の御錠口(これは中奥から大奥奥向への直通路で、上述の広敷・長局間の御錠口とは異なる。念の為)を通る筈はないから、面倒でも外を回っていったのは間違いない。
 広敷で会った土屋から、松平が使者の件について何か言っていたというのを聞いたからであろうか、留守居の部屋を訪ね、そこで吉良から刻限の変更についてのメッセージを受け取る。これが梶川運命の分かれ道。吉良にこの件を確認しようと捜し求めることになる。このあたり、梶川は公家の所在を尋ねているが、固より直接勅使と話をする積もりではなく、公家の近くにいるだろう高家を捜していたと考える方が無理がない。というのも、その前日に梶川は吉良と使者に行くタイミングについて打ち合せをしているので、変更があれば当然相談するだろうと思われるからである。
 中の間で多門伝八郎に会って公家の所在を「休息の間」と聞いた梶川は、大廊下に向かう。吉良を捜して、梶川は大広間の後ろ(つまり松の大廊下に近い側)を通って大廊下に出た。これはどうも最短距離とは言い難いのだが、恐らくは儀式を行う白書院の側を通るのを避けたためであろう。少なくとも文面からは殿上の間などを見に行ったようには受け取れない。

 ここで問題になるのは公家の「休息の間」のことである。『柳原資廉卿関東下向道中日記』によれば「秋ノ野間」ということになるが、これがどこにあるかがはっきりしていなかった。しかし小野清『史料徳川幕府の制度』(新人物往来社、昭51第2刷、原題『徳川制度史料』)によるべきだろう。すなわち所謂御三家の格式を述べ、その席を「大廊下休息所」とした上で、「右休息所は、三家の部屋と唱え候えども、元は大廊下休息所と唱え候事にて、それ故、勅使並びに日光御門跡、増上寺方丈も休息に相成り候」(同書202頁)と述べている。この部屋の存在は野口氏も着目しているのだが、馳走役の控え室としている。そうではなくて勅使の控え室だったのであり、それゆえ御馳走役の浅野・伊達はその前の廊下に控えていたのである。このことは、斎藤茂氏が『田村氏記録』(文政十二年の勅使饗応の際の記録)から結論していること(『赤穂義士実纂』66頁)と符合するはずである。そして公家が大廊下の脇の部屋にいるからこそ、梶川は高家がその近く大廊下にいるだろうと推測したと考えられる。資廉が「浅野内匠乱気歟、次ノ廊下ニテ吉良上野介ヲキル」と記述していることは注目してよい。この休息の間からは「次ノ廊下」と表現できるほど、刃傷の現場は近くだったのである。

管見の限りでは、ここを勅使の控え場所としているのは、斎藤氏のほかは中島康夫監修『「忠臣蔵」の謎学』(青春出版社)くらいのものだが、少数意見ではあってもこちらをとるべきであろう。

(2)事件直前の位置関係

さて大廊下御縁の方、角柱の辺より見やり候へば、大広間の方御障子際に内匠左京両人被居、夫より御白書院の御杉戸の間二三間を置候て、高家衆大勢被居候体見え候間、右の坊主に「吉良殿を呼びくれ候様」申候へば、参候て即立帰り「吉良殿には只今御老中方より御用の儀有之候て参られ候」由申聞候。「左候はゞ内匠殿を呼参り候やう」申遣し候処、則内匠殿被参候故、「拙者儀今日伝奏衆へ御台様よりの御使を相勤め候間、諸事宜しき様頼入」由申候。内匠殿「心得候」とて本座へ被帰候。其後御白書院の方を見候へば、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主呼に遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被参候間、拙者大広間の方御休息の間の障子明て有之、夫より大広間の方へ出候て、角柱より六七間も可有之処にて双方より出会ひ、互いに立居候て、今日御使の刻限早く相成り候儀を一言二言申候処、

 さて、いよいよ刃傷事件だが、その直前の位置関係を明確にしておかなければならない。梶川は懇切丁寧に記述しているが、読み方に気を付けなければ支離滅裂になってしまう。江戸城表御殿の図を傍らにおいて見て頂きたい。松の大廊下は大広間後の間から西側に二間幅で十二間、そこから直角に折れ曲がって北へ向かって二間半幅で十八間(これが狭義の大廊下であろう)、杉戸につきあたる。杉戸の向こうが桜の間で、その向こうに御白書院がある。庭に近い側は縁になっている。本文にある角柱がその折れ曲がったあたりであることは間違いなかろう。しかし、そこから「大広間の方」というと、今梶川が来た方向(東側)になる。さらにそこから「御白書院の杉戸の間二三間」おくとなると、どうも解釈のしようがない。そのまま素直には読みづらい。結論を先に言うと、このあたりで梶川が使用している「大広間の方」と「御白書院の方」の語は、要するに(狭義の)大廊下で南と北を表現している。そして、「御白書院の杉戸の間」という文言の「書院の」の後に「方」の一字が欠落(誤記か誤写かはわからない)していると考えられる。
 そう解することにして梶川の記述をリライトすれば、大廊下の南寄り(つまり梶川に近い方)に浅野・伊達が居り(上述の通り休息所の前の廊下になる)、そこから北側、杉戸の手前に二三間おいて(これは浅野・伊達から二三間ではなく、杉戸から二三間だろう)高家の人々が見えたのである。

 吉良を呼びに坊主を遣わしたが、老中と用談と言うことで、浅野を呼んで挨拶をし、浅野は本座(元の場所です、念の為)に戻った。ところへ、白書院の方から(これはそのままでも差し支えないが、北側からである)吉良が来る(もちろん高家衆のいるところを目指したのであろう)のが見えたので、また坊主を呼びにやったところ、承知したとこちらへやって来る。梶川も進み出て…、ということなのだが、ここでまた解釈の難しい箇所に当たる。

 「大広間の方御休息の間の障子明て有之」という。休息所は上下二つの部屋から成るので、「大広間の方」は「下之御部屋」と呼ばれる方であろう。その障子を梶川が「アケテコレアリ」(開いた)と読むと、分りづらくなる。梶川は「御休息の間」にいた訳ではあるまいに、何故障子を開けなければならなかったのか。しかもそこから「大広間の方」へ進んだとすると、梶川は吉良から逃げている格好になって、意味不明になる。これは、障子が「アキテコレアリ」(開いていた)と読むべきだろう。障子の開いていた所よりも大広間側(南側)で、角柱からは六七間ほどの所。ここが梶川と吉良が立ち止まった地点である。彼はまことに丁寧に状況を説明してくれているのだ。

(3)殿中刃傷

誰やらん吉良殿の後より「此間の遺恨覚えたるか」と声を掛け切付け申候(其太刀音は強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外、切れ不申、浅手にて有之候)。我等も驚き見候へば、御馳走人の浅野内匠殿なり。上野介殿「是れは」とて、後の方へ振り向き申され候処を又切付けられ候故、我等方へ向きて逃げんとせられし処を、又二太刀ほど切られ申候。上野介其侭うつ向に倒れ申され候。其時に我等内匠殿へ飛かゝり申候(吉良殿倒れ候と大かたとたんにて、間合は二足か三足程のことにて組付候様に覚え申候)。右の節、我等片手は内匠殿小さ刀の鍔に当り候故、それともに押付けすくめ申候。其内に近所に居合申されし高家衆、并に内匠殿同役左京殿などかけ付けられ、其外坊主共も見及候処に居合候者共、追々かけ来り取りおさへ申候。

 三人の位置関係は、南側(大広間の方)から梶川・吉良が向い合う格好で、吉良の後ろに浅野が座っていた。で、二人が話をしている時に、浅野が吉良の背後から切り付けたのである。驚いて後ろを振り向いた吉良をまた切り、さらに与惣兵衛の方に逃げようとする後ろを二太刀(従って、後・前・後・後の都合四回切ったことになる)。吉良は「うつ向」つまり前にのめる形で倒れ、それとほぼ同時に二三足の間合いから梶川が浅野に飛び掛かった。梶川と浅野は吉良を間にして向い合う格好になるから、この場合は正面から組止めたと見るのが妥当であろう。梶川の片手が(右か左かわからないが)浅野の刀の鍔にあたり、それを放さず押さえ付けているところへ、高家や伊達や坊主らが駆け付けて皆で押さえたとある。

(4)直後の混乱

さて最前倒れ申候上野介殿を尋ね候へども、一向に見え申さず。右の騒ぎの中に、何人か介抱いたし引退き候や、其近所には見え申さず候。後に承り候へば、豊前殿・下総殿など駈付けて上野介殿を引起し候へども、老人の手負故一向正気無之候へば、両人して引かゝへ、御医師の間の方へ連れ行き申され候由に御座候。

 切られた吉良がどうなったか、梶川は自分でも見てはいない。聞いた話では、高家の品川豊前守伊氏・畠山下総守義寧が助けて医師の間へ連れて行ったと言う。

夫より内匠殿をば、大広間の後の方へ、何れも大勢にて取囲み参り申候。其節内匠殿申され候は「上野介事此間中意趣有之候故、殿中と申し、今日の事かたヾヽ恐入候へども、是非に及び申さず打果し候」由の事を、大広間より柳の間溜り御廊下杉戸の外迄の内に、幾度も繰返しゝゝゝ被申候。其節の事にてせき申され候故、殊の外大音にて有之候。高家衆を始め取囲み参り候衆中「最早事済み候間、だまり申され候へ。あまり高声にて如何」と被申候へば、其後は申されず候。

 梶川が直接知っているのは浅野の方である。ここでは大勢に取囲まれ大広間後の方へ引かれながら、浅野が自分の行動を説明している様子が描かれている。「此間の遺恨覚えたるか」と声をかけたかどうかは別にしても、繰り返し遺恨によると言っていたことは確かである。大広間から柳の間の方へ舞台はぐるりと回っていく。興奮して大声で喚いていたので、周囲からたしなめられ、ようやく落ち着いたのか黙ったというあたり、情景が目に浮かぶようである。

(此度の事ども後々にて存出し候に、内匠殿心中察入候。吉良殿を討留め申されず候事、嘸々無念にありしならんと存候。誠に不慮の急変故、前後の思慮にも及ばず右の如く取扱ひ候事無是非候。去ながら是等の儀は一己の事にて、朋友への義のみなり。上へ対し候ては、かやうの議論に及ばぬは勿論なれども、老婆心ながら彼是と存めぐらし候事も多く候)

 ここは梶川の述懐である。恐らくは一件が済んでからの加筆であるが、講釈などでは情知らずにされている梶川だが、浅野への同情は示している。

夫より柳の間くらがり東の方御敷居際に引すゑ置き、皆々取巻き守り居候。高家衆より御目付衆呼に遣られ、我等事は初より大広間の後の方迄附き参り候へば、最早諸人大勢取付き候ゆゑ、片手を放し候て小刀を取り、内匠殿の腰にさし被居たる鞘を抜取候て小刀を納め、片手に持参り申候。御目付衆被参候て、御徒目付を呼に被遣、早々参り候へば、右の衆へ内匠殿を渡し候て、高家衆始めいづれも立退き申候。其時我等五兵衛・伝四・平八へ申候は、「内匠頭帯し申され候小刀を、拙者取候て納め申候。坊主へ渡し可申哉」と断り候へば「左様に可致」旨申され候間、則坊主へ渡し申候。其時右の坊主申候は「其元最前よりの次第を委細見候」由申聞候。夫より柳の間を通り候節、ふと存じ付き候は「此以後今日の一件に付御尋の事も有之候時、右坊主衆の名を存ぜず、毎度見知り候へども、しかと姓名を覚え申さず候事はいかゞ」と心付き候間、又々立帰り、先刻の坊主を尋ね候て承り候へば「何の久巴と申候」由承り届け、

 柳の間のくらがり(別系統の「からかみ」の方がよさそうである)の東方敷居際に浅野をすえ、目付を呼びにやる。梶川は最初に飛びついた時からずっと離さなかったらしい片手を放して、小さ刀を奪い取った。浅野と梶川との直接の接触はここまでである。目付に浅野を引き渡して梶川らはその場を去る。ただし、この時梶川は刀の処理について目付と相談している。その目付であるが、天野伝四郎(富重)・近藤平八郎(重興)は問題ないとして、五兵衛は誰か。斎藤茂氏に従って曽根五郎兵衛(長賢)としておこう。別系統には「五郎三」とあるが、甥に五郎三郎(金次)がいる。このあたりの記述は『多門伝八郎筆記』と齟齬する点が多いが、今は触れないことにしよう。

又御白書院の方へ参り候処、「越中守殿御呼び被成候」旨坊主申聞候間、則罷越候へば、最早其処には御入被成、直に時計の間の御次へ参り候へば、豊後殿・相模殿・佐渡殿・丹波殿・大和殿・対馬殿・伯耆殿其外大目付衆も御列座にて、先刻の一件御尋有之候に付、初中終の趣逐一に申上候。其後相模殿御申には「上野介手疵の儀は如何程の事に候や」と御尋ゆゑ、「二三ケ所にて可有之、尤深手にては有之間敷」旨申上候。豊後守御申には「上野介事其節脇差に手を懸け、或は抜合などいたし候や」と被仰候。「拙者見及び候へ共、帯刀には手は懸け不申」段申上候。右御尋の事ども相済候て、越中殿へ「私事是より御使に参り可申候や」と相伺候へば、「やはり可相勤」の由御申被成候。

 それから梶川は事情聴取を受けることになる。老中阿部豊後守(正武)・土屋相模守(政直)・小笠原佐渡守(長重)、若年寄加藤越中守(明英)・井上大和守(正峰)・稲垣対馬守(重富)・本多伯耆守(正永)などの名が見える。丹波はあるいは老中稲葉丹後守(正通)か。若年寄・加藤の呼出を受け、時計の間の次で錚々たる幕閣の面々から聴取された梶川は、事情を逐一申し述べた。土屋から吉良の疵について問われ「二三箇所だが深手ではないだろう」と答え、また阿部から吉良が脇差に手を掛けなかったかと問われ、かけなかったと答えている。その後加藤に使者を勤めてよいかどうか確認している。
 この後筆記は使者を勤めた事に移るので、事件とは関係なくなる。再び一件に触れるのは翌々十六日のことである。

(5)後日の吟味

一、十六日。御列座罷出。御尋。先日之通申上候。「誰々一二に参候哉」「其段不存。不残坊主共欠付候」由。「意趣之分は内匠殿不被申」由。「上野介殿脇差へ手を懸け被申候哉」「見不申候。ぬきはらひ候はゞ見可申候得共、其段も見不申候。取付何も仕候以後見申候得ば、最早上野介居不申候」。「誰つれ候て参候哉」「此段も不存候」由申上候。豊前殿「先日申候通」の由被仰候。

 列座の前で再び事情聴取を受けたのであるが、先日と同じように答えたと言う。特に新しい事もないが、いくつかの点はここで再確認できる。たとえば「意趣」すなわち「遺恨」の内容については何も言わなかったこと。上野介が刀に手をかけなかったこと(およびそれを幕閣が気にしていたこと)。なお豊前は高家の品川か。次にある通り、どうやら高家衆もこの場にいるらしいから。

一、対馬殿(私記、高家京極)被申「脇差取候由被申候へと、自分のうそつき成候」よし被申。「左様にてぞ可有候。我等取候故坊主きらはゞ渡候」由申聞候。是斗にては済不申候故、不残高家退去の刻、御祐筆部屋の御椽にて何もとめ、御老中の御前にて申候より、其上対馬殿脇差取候様申聞候得共、我等取候故、其段御老中えも申上候。安藤筑後殿も其段にて被申候。対馬殿とかふ不被申候。

 さて、この事情聴取の席で思わぬ事件がもちあがる。奥高家の京極対馬守高規(1643-1708、59歳)が浅野の刀をとったのは自分だと言い立てて、梶川を嘘吐き呼ばわりしたのである。このあたり少し文章が混乱していて整理が難しいが、とにかく梶川はそのままに捨て置かず、自己主張をはっきりしており、大目付の安藤筑後守(重玄)の支持を得ている。ちょっと詰らないことのようだが、恐らくこれは武士たる者にとっては大問題、太平の世に少しでも武勲めいたことを求めての功名争いだったのであろう。なおここで「私記」として注記をしている人物は、梶川自身なら殊更に「私記」とする必要はないのだから、筆写者であろう。

一、十七日。明番。筑後殿・伯耆殿、対馬殿(私記、若年寄稲垣)被申候通り、[此間有脱文]成程聞届私歟[ママ]取候に紛無之、対馬殿手を付候」由六郎被申候。「手付被申候事は成程可有之事、左様無之と私も不被申」由相達候。金左より明日御成の廻状来る。

 脱文がある関係ではっきりしないところがあるが、ともかく梶川の正しかったことが判明。京極対馬は手をついてわびると伝えてきたようである。この六郎が誰かは分らないが、この日は非番(明番)だった事を考えれば、恐らく梶川の与力か何かで、梶川不在の間にこういうことがあったと伝えてきたのだろう。金左は同役の川副金左衛門重頼に違いない。で、翌十八日に土屋相模守から呼出を受け、十九日に出頭する。

一、十九日。四ツ時登城。相模殿へ「拙者罷出候」段申上候。大和殿御呼被成候に付罷出候処「麻上下にて無之候間、麻上下着用罷出可申」と被申候。則着用仕り、九ツ時少し過ぐる頃、時計の間より桐の間通りに相詰め罷在候。其後、御座の間へ被為召候て「今度内匠頭不法の刻、其方取扱宜しく致し候に付、御加増被下置候」段上意有之、難有旨御礼申上、夫より御老中方・御支配方へも御礼申上、退座の節、御台所の廊下にて出羽殿へ御礼申上候。尤何れも方へ御礼に参上申候。其後戸川肥前殿御申被成候は「此度御加増五百石、領知の近所にて勝手次第に可相渡」段被仰候。拙者申候は「只今迄の知行所は近辺に川無之候故、通路の儀甚難儀仕候間、今度は何とぞ川岸有之候処にて拝領仕度」旨を申上置き候。

 「抱きとめた片手が二百五十石」で有名な梶川の加増の件である。梶川は加増の話とは思わなかったのであろう、略装(恐らくは継上下)であったので、正装である麻上下に着替えるように指示され、かなり待たされたようだが(登城は四ツで九ツ過だから一刻あまりかかった訳だ)加増を受けた。後で勘定奉行の戸川備前守安広(別系統をとる)から領地の近所で好きな所をと言われているから、相当の厚遇だろう。交通の便から川の近くを要望するあたり、領主としての旗本を考える上でも興味深いが、あまり深入りはしないようにしよう。それより退座の時に出羽殿に御礼を言ったという件が意味深長である。これは柳沢出羽守保明(松平美濃守吉保)に違いあるまい。別に挨拶しても不思議ではないが、「御老中方・御支配方」が十把一からげであるのに、特筆されたのは何故か。単に柳沢の威勢を意味するのか、それともこの一件に関する特殊な位置をしめていたものか、判断はできない。

 ともかく『梶川氏筆記』という有名な史料も細かく読むと、今まであまり注意されなかった点をいくつか指摘できるようだ。まだ不十分な点もあろうが、取り敢えず史料の読み方についてのノ−トかくのごとし。