池田公の007

田中光郎

 最近の赤穂事件研究の中で重視される史料のひとつが、岡山藩の忍びの報告書とされるものである(赤穂市『忠臣蔵』第3巻、以下同書の参照箇所は頁で示す)。これは、元禄14年の開城をめぐる経過について多くの情報をもたらすものであり、中でも、4月11日の城中会議の生々しい様子(p105)は大変貴重なものである。しかしながら、これをそんなに簡単に信用してよいか、というと、若干疑問がある。

 岡山藩が「忍」を放ったことは、数カ所で確認できる。その最初は、赤穂へ「忍」を派遣して様子を見聞させるようにと命を受け、3月20日の申刻(午後4時頃)に出発させたうちの一人、今中喜六郎が22日朝に戻って報告した内容を、浅野瀬兵衛がまとめた文書である(p82)。ただし、この場合の「忍」がいわゆる忍者を指しているかどうかは確認できない。瀬兵衛について、校訂者は「岡山藩忍頭」という注を付しているが、 岡山大学図書館の諸職交替データベースによれば、500石の「判形」であった。岡山藩の職制についてなお研究するのは後の課題とするが、役名から推定すれば藩主の秘書のような立場らしく、忍者を統括していても不自然ではなさそうである。ちなみに、今中喜六郎のほか、瀬野弥一兵衛・萩野仲右衛門という「忍」の名が見られるが、いずれも同データベースで検索できなかった。身分の低い者であることが考えられ、これもいわゆる忍者であることの傍証になるだろう。
 ただし、忍者マンガ的感覚には用心しなければならない。情報収集のプロではあっても、テレビ・映画のように、赤穂城の床下(天井裏)で話を盗み聞きするような場面は考えがたい。浅野瀬兵衛の報告書も、町の様子とか、表だった人の出入りの情報ばかりである。

 それでは、上述の4月11日の会議は、というと報告者は野崎六大夫。宛名は津田佐源太・藤岡勘右衛門である。岡山大学のデータベースで検索してみると、津田は1000石の作廻方(兼郡代)、藤岡は300石の大目付、そして野崎は無足の郡目付(コオリメツケだと思うのだが図書館はグンメツケと読んでいる。岡山藩ではそういうのかも知れない)となっている。野崎同様に津田・藤岡に報告書を提出している佐治八大夫・石津八兵衛(ただし、石津は六郎兵衛になっているので、別人かも知れない)も同じ時期に郡目付になっている。野崎らは、浅野瀬兵衛配下の「忍」とは、指揮系統も家格も異なる。やはり情報収集を職掌とはするものの、通常の任務として来ているものであろう。
 4月11日の会議の情報は「忍」の報告ではなさそうである。しかも、その末尾に気になる一行「右之趣承伝候」がある。こんな噂を聞きました、ということである。ニュースソースとしてはあまり信用できない風説であって、特別な機密事項を報告した訳ではないのである。

 もちろん、風説だからといって価値がないという積りはない。ことにリアルタイムで記録された噂話である。かなり事実に迫っている可能性はある。しかし、「忍」の報告だから、機密に肉薄した良質な情報に違いないと思いこむのは危険である。取り扱いは慎重であるべきだろう。私自身は、4月11日に大石が誓紙を集めたという説はとらない。多川・月岡の帰着までの間に大石に誓紙を提出した者があったということが、誤り伝えられたものだろうと考える。
 それにしても、岡山大学のデータベースは有用であった。公的な機関のこういうサービスがもっと増えることを願わずにはいられない。