『言継卿記』に見える上泉信綱

田中光郎

 戦国期の兵法者の伝記があいまいなのは、史料不足による。多くは後世に作られた伝説を書き留めたような代物しかない。その中で、上泉信綱だけは、同時代人である山科言継の日記の中に三十回以上登場するという、きわめて恵まれた存在である。しかしながら、これまで必ずしも十分にこれを読み解いてはいないように思われる。私もまた完全にそれを出来るような能力がある訳ではないが、信綱の伝記研究のためのノートを作成してみようと思う。
 『言継卿記』に上泉信綱が(多くは大胡武蔵守の名で)登場する三十二日分は『前橋市史』が網羅している(第1巻九七六〜八頁)が、以下その箇所を刊本(国書刊行会版第四巻)と照合し、以後の引用のための記号を付けておく(例えば永禄十二年正月十五日条はA1のようである)。

 永禄十二年(A) 1正月十五日(三〇二頁) 2十六日(三〇三頁) 3二月二日(三〇七頁) 4四月二十八日(三二九頁) 5二十九日(同) 6五月七日(三三一頁)7十一日(三三二頁) 8十五日(同)
 永禄十三年=元亀元年(B) 1正月五日(三七四頁) 2五月二十三日(四一七頁)3二十六日(四一八頁) 4六月二十六日(四二五頁) 5二十八日(四二六頁) 6七月七日(四二八頁) 7九日(四二九頁) 8十五日(四三一頁) 9十七日(同) 10十九日(四三二頁) 11八月十日(四三七頁) 12十八日(四三八頁) 13十九日(四三九頁) 14二十日(同) 15二十一日(同) 16十月十七日(四五二頁) 17二十二日(四五三頁) 18十一月三日(四五六頁) 19二十四日(四五九頁)
 元亀二年(C)1正月二日(四六八頁) 2三月三日(四八二頁) 3九日(四八三頁)4七月三日(五〇八頁) 5二十一日(五一四頁)

 この三十二回の内には単に「来談」したとか「礼者」の一人として挙げられているような箇所もある(A7・8、B1・4・6・7・8・9・15・16・19、C1)が、そうした箇所も信綱の動向を知る上で重要な手掛かりになるであろう。

(1)出会い

 言継の日記にはじめて「大胡武蔵守」の名が登場するのは、永禄十二年正月十五日である。但し、この時には本人は姿を見せない。耆婆宮内大輔が持込んできた平野神社の騒動、神主卜部兼興を子の長松丸が訴えた事件で、長松丸の訴状に添え状を認めたのが「叔母舅」である大胡武蔵守だった。平野神社の騒動の内容はあまりよくわからない。長松丸の訴状では「父卜兼興犯気時之儀、社頭如無之間、可有改易」との趣旨だった(A1)。「犯」は「狂」の誤りかとも考えられるが(刊本の校訂者)、兼興も後に復権しているようだから(元亀二年十一月二日条)それほど重い意味でなく、「気に入らないと社務を放棄する」程度、気に入らないことがあって髪を剃ってしまった(剃髪の事実は二十一日の項にある)ことを言っているのかも知れない。ともかくも父は不適格なので交代させてほしいという子の言い分である。言継は翌日に大典侍局に訴状・添え状の披露を依頼し(A2)、二十一日には回答を得ている。それによれば「兼興曲事之段、非一事之条、可改易」と訴えの趣旨は認められたが、長松丸についても「父髪そる之間、神職に如何」と思われるので「尚以御思案可被仰出」ということだったので、言継は先例もあろうから吉田(兼右)にお尋ねになるように、と申し入れている。
 そんな経緯でこの騒動が無事おさまり、二月二日には長松丸が耆婆宮内大輔・大胡武蔵守とともに挨拶に来て、言継は三人と同道して吉田兼右を訪ねている(A3)。どうやら信綱と言継はこれが初対面であるらしい。もちろん、これ以前の日記に名が見えないというだけでそう考えている訳ではない。四月になってまた吉田方へ同道してほしいと考えた信綱は、耆婆宮内大輔を通じて内々願っている(A4)。身分の違いはともかくも、親しく付き合ってからなら、直接頼むであろう。そうしなかった点から、この時点では両者はさほど親しくなかったことを推測するのである。幸か不幸か、四月二十八日に兼右は不在(A4)、翌日も同道するが不在(A5)、五月七日に出かけた時もいなかった(A6)が、こうして何度も供をしているうちに親しみがわいてきたものと思われる。五月七日には兼右不在を知ったあと、上乗院から知恩院へと連れまわるまでになっている。
 「来談」の記事が見られるのはその後(A7・8)。もちろん対等な友人関係ではないが、大して用事がなくてもやって来るだけの親しさが生じたのであろう。

(2)軍敗伝授と四品勅許

 永禄十二年五月十六日から翌元亀元年五月二十二日までの一年間、『言継卿記』に信綱の記事は、年頭のあいさつに来たというだけの一箇所しかない(B1)。この間信綱が何をしていたかは不明である。そして五月二十三日、いきなり重要な記事になる(B2)。

上泉武蔵守信綱来。軍敗取向総捲等、令相伝之。勧一盞。中御門・雲松軒相伴了。一巻写之。又調子占一巻写之。各将棋双六等有之。

 これによれば、山科言継は軍敗(軍配)を上泉信綱から伝授されている。軍配とは戦陣における占呪の術で、のちの兵学の母体になるものである(小和田哲男『軍師・参謀』など参照)。岡本半助宣就が信綱の子秀胤(または孫の義郷)から受け継いでその系統が後世に伝えられたと言うが、信綱以降の話の真偽はこの際措いておこう。当面重要なのはそのような占呪の術を信綱が言継に伝えたということである。五月二十六日にも言継と息子の言経(『言継卿記』には倉部と書かれている)が伝授を受けている(B3)。  そして、一月ほどの空白を経て六月二十六日に来談した(B4)信綱は、翌々日には「四品勅許忝」いと言継に語っている。この間六月二十七日に従四位下に叙せられたということで、信綱伝の中でも最も重要な出来事である。しかしながら、これを正親町天皇に剣技を披露して云々というのは、どうも信用できない。というのは、後述する言継から結城晴朝にあてた紹介状(C5)には「公方以下悉兵法軍敗被相伝」とはあるが、天覧のことには触れられていない。もし事実があれば、きっと書いたと思うのである。もちろんなかったのだと断定はできないが、怪しいと思っていたほうがよかろう。
 また、この叙位を山科言継の尽力によるとするのも如何か。事実としてそういうことがあれば、やはり日記の中から伺えそうに思われるが、そういう記事はない。もちろん大納言である言継がなんら関係しなかったとも思われないが、特別な関与はなく、なればこそ信綱も特別に謝礼の品々など持参せず(平野神社一件では錫を持って礼に来たことが書かれている…A3)、会話の中で触れたにとどまったのであろう。むしろ上の紹介状に見えるように、在京中の信綱の業績の最大のものが「公方以下」に「兵法軍敗」を伝授したことだとすれば、足利義昭あたりから話は出たと考えた方が自然であろう。室町幕府の先例として、弓馬の師範を勤めた小笠原氏が将軍の近臣だったこと(二木謙一『中世武家儀礼の研究』一九六頁)を思えば、義昭が信綱を側近として待遇しようとしても不思議はない。それに大館氏の所伝では(必ずしも事実といえないとしても)近習の中でも申次衆には四品になっているものがあり(大館尚氏「長享二年以来申次記」)、信綱の叙位がその例に倣ったものと考えられる。
 仮定の上に仮定を重ねるようだが、可能性の指摘という意味で付言しておく。信綱の叙位があったとされる六月二十七日は、姉川合戦の当日である。まさに当日になったのは偶然としても、その時期を狙っているのには意味がないだろうか。すでに信長と義昭の間には不協和音が聞こえている。義昭が自分の直属家臣団の強化を目指し、信長が多忙で細かいことを気にしていられない時に行動を起こしたと考えるのは如何…。あくまでも可能性の問題ではある。

(3)兵法披露

 四位になった信綱は、七月中には五回も来談している(B6〜10)。特に最後の七月十九日には二人の公家に調子占まで教えている。意外なことに、ここまで剣術に関する記事は一度もない。『言継卿記』中、信綱が「兵法」=剣術をしたという記録はこの年の八月に二回あるだけである。しかも、いずれも京の町中ではなかった。
 ともかくも、その二回を見てみよう。元亀元年八月五日、明後日勅使とともに比叡山に登るように、と烏丸光宣の使者が伝えて来た。老齢といい、供の不足といい、一度は断るものの、重ねての使者に登山を決意する。七日に登山して、十日に下山することになるのだが、その最終日、言継は梨本宮門跡へ暇乞いに訪れた。そこへ、千秋刑部少輔と大胡武蔵守が参り「へいはう被御覧了」(B11)というのである。千秋は幕府奉公衆の家柄らしく、一説には塚原卜伝の門人(諸田政治『剣聖上泉信綱詳伝』)という。この二人がなぜここに現われたかは分らないが、後述の真珠院のケースから考えれば言継が連れていった可能性もありそうではある。
 二回目は、太秦の真珠院でのことになる。八月十六日、月見の宴のために太秦真珠院にでかけた言継は二晩泊った。十八日には大勢客がやってきて、その中には千秋刑部少輔・大胡武蔵守・鈴木(これは信綱門人の神後伊豆守の変名鈴木意伯だという…諸田前掲書)らがいた(B12)。大勢を引き連れて葉室へでかけた言継、その晩は葉室に泊り、翌日帰京するがその途中でもう一度真珠院に立ち寄った。そこで「千秋、大胡、鈴木等兵法有之、各見物了」(B13)というのである。
 もちろんこの二回以外に剣術の実演をしなかったとは言えない。たまたま言継が記録をしたのがここだけだったというだけの事かも知れない。しかし、上述の義昭と信長の不協和を考えると、姉川合戦後の比叡山にキナ臭いものを感じないでもない。いずれにしても、結論を出すには材料が不足している。

(4)信綱の身辺と帰郷

 その後元亀元年中の記事からはあまり知れるところがない。十月二十二日には山城の一揆に際して奉公衆や木下秀吉が出陣したことを語っている(B17)。両者に直接関係ない談話の内容が知られるのはここだけであるが、政治問題にも話題が及ぶような交際であったことは確認できる。十一月三日には信綱が転宿したことが告げられているが(B18)、具体的な宿所はわからない(諸田前掲書は西福寺としている)。
 年改まって、元亀二年になると信綱の身辺も少し慌ただしくなってきたようである。正月二日には年始に来たようだが(C1)、三月には二度にわたって薬を貰っている(C23)。その時の話で「近日在国」する予定だ(C2)ということだったが、七月二日には大和から再上洛している(C4)ところから見れば、その「国」とは大和であったらしい。この時点で信綱が拠点としているのは柳生但馬守宗厳(石舟斎)の所である。しかし、その大和が不穏なのだ。大和を支配していたのは松永弾正久秀であるが、この時期に武田信玄に通じた久秀は信長を裏切って、宿敵・三好三人衆と協同した。義昭はまだ態度を鮮明にしてはいないが、実質的には反信長の盟主であろう。松永と三好一族、そして筒井氏と柳生宗厳の関係があまりはっきりしないが、ともかくも複雑な様相になっていったことは間違いない。信綱が七月二十一日に関東にもどるために言継に別れを告げに来る(C5)のは、そのような状況下でのことである。政治的なごたごたに巻き込まれるのを避けたと見るべきであろう。
 言継は別れに臨んで親王筆の短冊二枚を与えている。さらに、信綱の乞いに応じて「下野国結城方」への書状を渡した。これは引用しておこう。

雖未申通候、幸便之間令啓候。仍上泉武蔵守被上洛、公方以下悉兵法軍敗被相伝、無比類発名之事候。又貴殿拙者同流一家之儀候間、無御等閑候者可満足候。尚委曲武州可有演説候也。恐々謹言。
 七月二十二日                    言継裏判
   結城殿

 手紙の相手の結城晴朝はいうまでもなく関東下総の名族である。京都における信綱の活躍はこの手紙に詳しい。が、重要なことはそれだけではない。関東は信綱の出身地である。言継よりもはるかに豊富な人脈があってもよさそうなのに、信綱はこの紹介状をねだっているのだ。つまり、この当時信綱は関東に戻っても身のおきどころのない状態だったのであり、それにも拘らず京都を去らねばならぬほどの情勢だったのだ。
 その後の信綱の消息は知られていない。