仮説:「浅野家再興運動」を強調したのは室鳩巣である

田中光郎

(1)

 拙稿「いわゆる浅野家再興運動の性格について」(ろんがいび0014)では、大石の運動の趣旨が、浅野大学の閉門が許された時に浅野家の名誉回復がなされることを願うというところにあることを論じた。浅野家再興運動という名称がまったく不適当とは言えないまでも、実状に相応しいとは言えない。
 それではなぜ大石の運動が浅野家再興運動と認識されるようになったのか。はっきりしたことは言えないが、どうも堀部安兵衛と室鳩巣に原因があるように思われる。
 赤穂事件に関する言説にはおびただしいものがあるが、史料相互の関連を検証するような地道な仕事は案外少ない。ここでは『堀部武庸筆記』(日本思想体系『近世武家思想』所収)『介石記』(『赤穂義人纂書』第二所収)『赤穂鍾秀記』(同上)『赤穂義人録』(前掲『近世武家思想』所収)の四種を取り上げて、大石の「浅野家再興運動」が強調されるようになった事情を追跡してみよう。

(2)

 大石の運動は赤穂開城の事情から連続して理解されなければならない。浅野大学赦免の節に名誉回復がなされることを幕府目付に願うことによって、大石は辛うじて条件付き開城の形式を整えた(このあたりは拙稿「赤穂城の政変」=ろんがいび0009参照)。このことを堀部安兵衛らは十分に理解しなかった。だから、大学赦免の時節を待つという大石の方針に反対し、一日も早い復讐を主張したのである。いささか長い引用になるが、『堀部武庸筆記』から大石の開城時の嘆願を見ておこう。

四月十八日城内御見分之節、両御目付中へ大石内蔵助申上候口上覚
「内匠頭此度不調法仕候に付て、御法式之通被仰付候段、家中之者共一同奉畏候。松平安芸守・戸田采女正より段々下知、承知仕候。乍然大学安否之処、家中之者共今以落着不仕、心底に差含罷在候。古弾正已前従権現様御取立之家筋之儀に御座候得ば、大学一度被遊御免、罷出候ても御奉公も相勤まり候様に奉願」
之段申上候処、兎角之御挨拶不被仰候故、又重て時節を相計、
「先刻も申上候通、今以家中之者共安心不仕候。此段被聞召届被下候様」
申上候処、
御代官にて御越被成候石原新左衛門殿御取合被仰候は、
「内蔵助存念家中之心底無余儀存候」
由御挨拶之節、
御目付中被仰候は、
「委細被聞召届候。可及言上」
旨被仰聞之由。
(『近世武家思想』p185)

 大筋は『江赤見聞記』などと同じであるが、ニュアンスに異なる点がある。何より「首尾能人前も被成候様に御面目も在之」(7月22日付大石書状=熊田葦城『日本史蹟赤穂義士』p.p.143-8)という大石の嘆願の眼目が、ここからは読みとれない。堀部が大石の真意を必ずしも理解していないことに起因するであろう。
 この『武庸筆記』は『赤城盟伝』とならんで、かなり早い段階から流布していたのである。『武庸筆記』か、またはその影響下にある書物を参照したかどうかを判別する手段はいくつかある。ひとつは3月29日に大石が出したという嘆願書で、二系統のテキストが知られているが「何方へ面を向申すべき様無御座」という文言を含むものが堀部の手によることは確実で、この系統のテキストを含むものは『武庸筆記』の影響下にあると断定してよい。一件に関する著作物の中でも最初期に属するとみられる『介石記』もこの例にもれず、嘆願の場面もほとんど『武庸筆記』と同文である(『纂書』第二、p390)。
 『赤穂鍾秀記』もまた、ほとんど同文である(同p427)。ただ、その他の部分についても『介石記』と同文の箇所が多く、直接『武庸筆記』をみたというよりも『介石記』を引用した可能性が高いと思われる(これはあくまでも可能性の問題であって、両者の関係についてはなお詳細な検討を必要とする)。ところで周知のことに属するであろうが、この『鍾秀記』の著者・杉本義隣は加賀の人で室鳩巣と親交があり、当時金沢にあって情報不足だった鳩巣に『義人録』の材料の大半を提供したとされている。
 『鍾秀記』と『義人録』の関係もなお検討を要するが、間接的にせよ鳩巣が『武庸筆記』の影響を受けていることは間違いない。『義人録』の本文は、上に見た『武庸筆記』の対話の漢訳であると考えてよさそうである。かなりの修飾が施されているのは、鳩巣の文才のなせるわざであろう。

(3)

 ただし、鳩巣と堀部は志向を異にする。ひたすら「敵討」を願う堀部にとって、御家再興運動はむしろ障害であった。それを継承した『介石記』や『鍾秀記』も、御家再興運動と見なしているが故に、運動自体に積極的な意義を見出せず、「大学殿安否を見て殉死すべし」(『纂書』第二p390、p428)という大石らの志を称揚するにとどまる。
 これに対して鳩巣は、まず「主家の為に後を立てんことを請ふものは、人臣の分を尽くすに過ぎざるのみ」と、御家再興を願うのは当然であるという認識を示す。その上で、「必ず恩裁の下るありて、然る後自殺せん」という大石の語をあげて、「その命を得ざるや、敢へて徒死せざることも、また既に明らけし」と評している(『近世武家思想』pp286-7)。大石のこの言葉はもちろん『武庸筆記』には見えない。恐らくは「大学殿安否を見て殉死すべし」という『介石記』の認識を、嘆願の文言の中に取り込んだものであろう。
 これは『介石記』の読みとしても正確を欠いている。「安否を見て殉死すべし」という言い方は、御家再興が成らなかった時(つまり「否」の場合に)殉死の志をもって復讐を挙行するのだという趣旨であることは、大学処分決定後の脱盟者への非難の文言から考えて明らかである。御家再興が成った時(「安」の場合に)自殺するというのは、大石の無欲を示すことにはなるだろうが、読解としては無理がある。その無理な読みを通じて鳩巣が強調したいのは、幕府を恫喝するほどの強い意思をもって御家再興運動が行われたことであり、それが拒絶された以上復讐は当然であるという、大石らの行動の正当性の証明であろう。
 鳩巣の考えでは、御家再興に力を尽くすことが臣下の務めである。このことは、刃傷の第一報が伝わってからの最初の「大評定」の叙述にも影響を与えている。事実として「大評定」が行われなかったことは別稿(「赤穂城内『大評定』はなかった」ろんがいび0010)で論じているが、恐らく最初に「大評定」を打ち出したのが『介石記』であり、『鍾秀記』『義人録』はこれを踏襲している。
 『介石記』の伝える大石の演説はこうである。

今度主君を失ひし事、偏に吉良上野介殿の故なれば、仇は彼人にあり、公儀に対し憤り不可有といへども、主君をやみゝゝと生害させ、ゆゑなく城を明け渡し離散して、何の面目にて青天白日を見ん。何地にして多年の恩沢を報ぜんや。此城を枕として殉死するの外あるべからず。各いかゞ心得らるゝぞ(『纂書』第二p381)

 『鍾秀記』(同P423)でも字句に多少の相違はあるものの、ほぼ同趣旨である。ただ『鍾秀記』ははっきりと籠城抗戦を主張しており、『介石記』の「殉死」とは異なるが、この「殉死」を文字通りに見るか、殉死の覚悟で籠城すると見るかで解釈は分かれるだろう。いずれにしても、ここでの問題関心からすればほぼ同じと言ってよい。問題は『義人録』である。

良雄曰く「主辱めらるれば臣死す。これ誠にわが輩節に死するの秋なり。然れども死は固より難きに非ず。而して死に処すること実に難し。諸君何を以て死せんと欲するや」と。坐中の壮士みな曰く「この城を枕として以て死することあらんのみ。また何ぞ議せん」と。良雄曰く「諸君の言固より然り。ただ人臣の義、なほみづから国に効すべき者あらば、まさに力をこれに尽くすべきのみ。いま主家すでに滅び、力の以てこれを復するなし。独り介弟大学君ありて、以て先君の祀を奉ずべし。某らよろしく死を以て台〔ち〕に請ひ、先君の為に後を立つべし。しかも台〔ち〕聴さずんば、則ち城に乗りて決戦して以て死して、先君に地下に従はんこと、固よりその所なり」と。(『近世武家思想』pp278-9)
〔ち〕の字は第2水準までにないようなのでこう表記した。土へんに犀である。

 漢文になっているという以上に、内容の相違は明白である。ここでの大石は最初から主家の再興を主張している。大石が籠城の主唱者ではなく、むしろそれを押さえて再興運動を第一義としているのである。その冒頭に「主辱めらるれば臣死す」というスローガンが掲げられていることから見ても、この部分が中国古典に精通した人(鳩巣)の創作である可能性は高い。鳩巣にとっては、大石は理想的な臣下でなければならなかった。臣下の務めの第一は主家の再興である。大石にはこれを第一義として行動してもらわなければ都合が悪いのだ。
 もっとも、それは鳩巣が意図的に嘘を書いたという意味ではない。鳩巣の目に映った大石はまさにそのような人物だったのだ。そして、そう思わせたのは、恐らくは「御家再興」にかかずらわって「敵討」を延び延びにした大石に批判的な目を向けた堀部安兵衛の記録、またはそれを継承した諸書だったと思われる。

(4)

 本誌ではこれまでも『義人録』が必ずしも事実を伝えていないことを述べてきた。今まで論じていない部分でも、かなり問題になる箇所があり、いずれまとめてみようと思って、「『義人録』は史学に益なし」という題名だけは決めてある。いうまでもなく「太平記は史学に益なし」という名言の剽窃。本当に無益だと考えている訳ではなく、用心して使わなければならないという警告である。
 『義人録』は研究書でなく、いわばノンフィクションノベルである。叙述の都合で多少の創作が入り込むのは必然なのだ。そういう事情に無批判・無警戒な読者の側にこそ問題があるというべきだろう。司馬遼太郎の歴史小説を史実とみなすような過誤を、案外研究者もしがちだということである。
 赤穂事件の場合、史実そのもの以上に伝説が重要な役割を果たすことがままある。史実と伝説の区分、伝説の発生過程などを明らかにしていく必要がある。そのためには、史料間の異同、継承関係などについての研究を深化させなければならない。本稿の論証がはなはだ不十分なものであることは承知している(表題に「仮説」を付けておいた所以である)けれども、その一歩をしるすものになればと念じている。