新参・算勘・不忠者
大野九郎兵衛のイメージ

田中光郎

 新参者ながら経済的手腕を発揮して家老にまでのし上がった人物。しかし主家の大変に自分の保身を第一に考えた不忠者。これが、大野九郎兵衛に対する一般的なイメージであろう。しかしながら、どうもこれは事実に反するらしい。これは私一人がそう思っているのではなく、当代一の義士研究家・飯尾精氏がそう言っている(『大石内蔵助の素顔』など)。飯尾氏の著書に学びながら、私見もまじえて考えてみたい。

(1)大野九郎兵衛は新参者か

『赤穂義士史料』下巻の最初に収載された文書は、浅野家が赤穂に入封した正保2(1645)年のもので、「浅野内匠頭内 大野九郎兵衛」が他の重臣とともに署名している。『史料』の校訂者は、ここに知房と注記しているが、その根拠は必ずしも明確ではない。元禄時代の大野九郎兵衛の名乗りが「知房」であることは、菊屋太夫あての書状に見える(『大石家義士文書』)。この二人を同一人物であると考えるのは無理がある。大野九郎兵衛知房の生没年は不詳であるが、大石より年長だったのは確かで、刃傷事件当時60くらいというのが有力である。元禄14年に60歳だったと仮定すれば、正保2年には4歳である。正保2年の大野九郎兵衛は知房の父(又は祖父)と考えるのが、常識的というものだろう。
大野九郎兵衛は新参者とは言えない。もちろん大石と違い必ず家老になる家柄ではないが、天和ごろの史料で番頭になっている(飯尾氏のほか、廣山堯道「浅野家と赤穂藩」=『徹底検証元禄赤穂事件』=など参照)ことから考えても、相応の家格にあったと思われる。

(2)大野九郎兵衛は経済官僚か

 大野九郎兵衛の経済手腕を記録的に立証するものは何もない、と飯尾氏は断言する。恐らく誰にも立証できないだろう。

 大野九郎兵衛を敏腕の経済家とするのは、「昼行灯」の大石と対比するためである。しかし、大石に「昼行灯」の渾名があったという根拠も明確でない。
 この種の情報として、一番有名なのは『閑田次筆』の記事であろう。これによれば、赤穂藩政は大野が実験を握って収斂していたので、浅野家の断絶の際に領民は喜んだが、大石の事後処理がよかったのにみな驚いた、ということになっている。良質な史料でないことは言うまでもない。浅野家の民政に問題がなかったとは言えず、断絶の際に大庄屋の不正が発覚している(『江赤見聞記』)が、取り立てて問題にするほどの秕政があったとも言えないし、大石または大野に直接の関係があるとも思われない。

 確実な証拠はないものの、事件の経緯を見る限り、大野の赤穂退去に関係した岡島八十右衛門、開城事務に尽力した矢頭長助(病死して子息・右衛門七が志を継ぐ)、また物頭のうちで民政官である郡代を兼ねた吉田忠左衛門・佐々小左衛門(後に脱盟したものの)など、経済官僚と目される家臣はむしろ大石の方に従っている。大石の無私清廉を示す『預置候金銀請払帳』も、観点を変えれば、彼がそういう事務処理に習熟していたことを物語るであろう。

 ただし、それは必ずしも大石が藩政を掌握していたことを意味するものではない。大野と大石の間に事件以前から確執があったことは否定できないようで、元禄7年に大石の妻・リクが実家の父に送った書状に大野の悪口が書かれていること、同年の大石の書状に見える大野への隔意など、両者がしっくりいっていない様子を窺わせる材料はある。また、大石の親戚が次第に重役からはずされている状況を見れば、大野の政治力が大石を上回っていた可能性がある。経済を掌握している方が力があるというのは近代的な見方であり、地味な仕事を引き受けていたという解釈が成立するかも知れない。

(3)あるまじき武士

 どちらが忠義であったかという議論は、我々にとってあまり意味がない。主君の仇を討った大石は忠義の士であり、開城前に逃げ出した大野は不忠者である、という評価は、いわばア・プリオリだった。
 “不忠者の大野は新参の成り上がり者であり、強欲な算勘侍だった。”これは赤穂事件の歴史的事実ではないが、「忠臣蔵」世界にとって必要な真実だった。武士のあるべき姿を示す大石に対し、大野は武士のあるまじき姿を示す「理想型」だったのである。ここに当時の価値観が反映されていると考えられる。古川哲史氏は『甲陽軍鑑』の武士道概念を「形式的には町人根性・女人根性に対立し、内容的には譜代を重んじ、正義公正を旨とし、武勇を尚んでしかも粗暴無知に走らない、素朴な男性的精神」とまとめている(『武士道の思想とその周辺』)。古川氏の理解に問題はあるのだが、少なくともこうした価値観が近世において広範に成立していたことは首肯できるであろう。
 民政をめぐる評価についてまで、善玉・大石と悪玉・大野の対比は続けられる。良いことはすべて大石に、悪いことはすべて大野に、付属させられたのである。この視点から物語が再生産され続けてきた。大野の再評価を行おうとする場合でも、作られた物語はそのままにして現代的な価値観を持ち込もうとする傾向が強い。本当の意味での評価をしなおすためには、作られた物語から自由になって、史実を確定するところから始めなければならないであろう。