使命を辱むと謂うべきか

田中光郎

 元禄14年3月、浅野長矩の刃傷事件の処理として赤穂の城地が収公されることになるが、大石内蔵助を中心とする家臣団は吉良存命のうえはそのままに明け渡しがたいとして、収城目付に嘆願書を提出しようとした。この使者になったのが、多川九左衛門・月岡治右衛門の二人である。よく知られているとおり、彼らが江戸に着いたのは既に両目付は出発した後で、結局嘆願書を提出できず、戸田氏定(長矩の従兄弟)の輸告書をもって帰穂することになる。室鳩巣は『赤穂義人録』で、江戸家老には知らせるなと大石が両使に命じていたにも関わらず家老に相談した二人を「使命を辱むと謂ふべし」と非難しており、今も多数説がこれに従う。しかし、この批判は妥当なものであろうか。

 この通説にはっきりと異を唱えているのは斎藤茂氏(『赤穂義士実纂』)くらいであるが、戸田氏定に伝えることは大石も承知のことであり江戸家老に知らせるなと言う指示も疑わしいことは、既に内海定治郎氏が指摘していた(『真説赤穂義士録』)。
 多川・月岡が赤穂を発ったのは3月29日の昼(『赤穂城引渡一件』)、江戸に着いたのは4月4日丑の刻(『江赤見聞記』所収の両使の復命口上書)現代的な表記なら5日の午前2時頃のことである。この年の3月は30日まであるから、約5日半で到着している。刃傷事件の第1報が4日半で着いたことから考えれば時間はかかっているようだが、堀部安兵衛らが大急ぎに急いで江戸から赤穂まで10日を要したことを思えば、大変なスピードである。こんなに早く着けるのは公用ルートを用いているからであり、江戸家老に秘密で着くことができるとは想定しがたいし、江戸に着くことが知られずにいられないとすれば、用件を秘密にすることは考えづらい。
 また、真夜中に着いた二人が目付の出発を確認することができたとは思えない。すぐに安井彦右衛門・藤井又左衛門の両家老ならびに粕谷勘太(用人の勘左衛門か)・早川宗助(大目付)と会っていることから考えて、これは予定の行動であり、江戸の重役達も到着を待ち構えていたとするのが妥当と思われる。大石の訓令に違反して江戸家老に相談したのであれば、謝罪か弁明が必要になるはずだが、両使の復命口上書にその気配は見られない。

 両使は、江戸のどこに着いたのだろうか。通常ならば赤穂藩邸になるはずだが、既に藩邸は収公されている。復命書では確認できないが、大垣藩邸に臨時事務所を設置して両家老らが詰めていた可能性が高いように思われる(脇坂家の記録では安井等は築地飯田町居住とある。事件以前からの安井宅であろうか。このあたりの事情は、内海氏の紹介する戸田家記録を精査すれば明らかになるように思われるのだが、残念ながら未見である)。真夜中であるにもかかわらず、すぐに戸田家の家臣・中川甚五兵衛(ちなみに中川と大石はかねてから親交があったという話もある=伊東成郎『忠臣蔵101の謎』)に連絡し、中川もすぐに駆けつけて相談している。
 どこに着いたかは今後の課題に残すとしても、まず戸田家に連絡し、その上で目付に嘆願することにしていたことは、大石自身が井上団右衛門(本家からの使者)に語っている(『浅野綱長伝』)。後述の通り江戸家老に知らせないことにしていたと主張する堀部安兵衛も、戸田氏定へは届けることにしていたと書いている(『堀部武庸筆記』)。戸田氏定の好意と信用がなければ、嘆願自体が成立しない話だったと思われる。そうだとすれば、江戸家老がその交渉にあたるのは当然というべきである。

 江戸家老に知らせるなという指示があったとする説の最大の根拠は、『堀部武庸筆記』である。
 刃傷事件当時江戸にあった堀部らは、吉良の生存を知り、切り込もうと同志を募ったが応ずる者もなく、国元には同志もあろうかと聞き耳を立てていたが「家老共秘して不通に不申聞」じりじりしていた。その堀部らが江戸を発って赤穂に向かうのが4月5日、つまり多川・月岡が江戸に着いた直後である。これは偶然ではあるまい。家老らは情報を秘匿しているが、国元には自分たちと同じ不平派が多いらしいということを察知し、「敵討」でなく「籠城」でもよいと考えての行動であろう。
 私的な資格で旅行した堀部らは、公用ルートを使った多川・月岡に追い越され、赤穂に着いた時には開城に決した後であった。大石を訪ねてあれこれ不満を言った堀部らに対する大石の回答のうちに、問題の両使への指示の問題が出てくる。「両使へ兼て申付、江戸家老共へ此儀不通に沙汰致間敷旨申渡候といへども」云々というのがその文言である。同筆記中にはもう1カ所これに触れた文があるが、それはこの時の大石の弁明に基づいて書かれたものと思われる。
 ともかく『堀部武庸筆記』を信用する限り、江戸家老らには知らせるなという指示をしていたことは明白である。ただし、上述の通り、周囲の状況からはその指示のあったことは想定しがたい。そこで考えられるのが、堀部の誤解である。この筆記は赤穂事件関係の史料のなかでもトップクラスの価値をもつものであり、内容が信頼できることは間違いない。しかし、堀部安兵衛は、正義派にありがちなことだが、ともすると独善的に陥りやすい傾向をもっており、そのことが大石と江戸急進派との軋轢を生むひとつの要因になっている。ここでも、堀部が自分に都合のいい解釈をしてしまった可能性はないだろうか。そういう視点から、問題を見直してみる。
 堀部らは様々な不満を訴えたに違いなく、その中には江戸家老らが情報を秘匿していたことに対する反感も含まれていたであろう。それに対して大石が、情報を秘匿したのは大学に累を及ぼさないためで、両使を通じて江戸家老にも、広く伝わらないように命じてあった、と答えたと仮定してみよう。江戸家老嫌いの堀部は、両使に、江戸家老にも伝わらないように命じてあった、と思いこんでしまったかも知れない。これは、証拠のない仮説にすぎない。しかし、全体の状況からすれば、江戸家老にも秘密にしていたとするよりは辻褄が合うように思われる。

江戸家老に持ち込んだのは両使の手落ちではなく、当初からの計画だったと推定できる。手落ちであったかも知れないのは、帰路の途中でも目付に追いついて嘆願書を提出しなかったことである。『江赤見聞記』にも、江戸家老や戸田家に持ち込んだことを問題視する記述はないが、「責て於大坂城とも御目付中様へ差出候得ば能々に…扨々心外之至候」という文言が見られる。これについては両使の復命の中に弁解があり、諭告書には書かれなかったものの目付への嘆願は氏定により止められている。それを超えて提出しろというのは、ないものねだりというべきであろう。城中の落胆ぶりを表現するものであっても、公平な評価とは言えない。
 氏定の諭告に「筋立候御意之趣」は見えなかったが既に目付が出発していたのでやむを得ず帰ることにした二人は、臨機応変の処置には欠けていたかも知れないが、使者の役目を果たさなかったとは言えない。12日間での往復というハードスケジュールをこなしたことは誉められてもよさそうなものである。いわゆる神文返しで脱盟した結果から逆算して酷評されているようだが、この時点では使者たるに相応しい格式のある大石派のメンバーだったと思われる。

 もちろん『義人録』の記載は、室鳩巣がどのような武士のあり方を理想としていたかを示すものなのだから、これを否定する必要はない。赤穂に人材がなかった訳ではないとして挙げているメンバーのほとんどが、3月29日段階では城にいなかったとしても、それは鳩巣の理想とは無関係の話である。だが、史実を追求しようとするならば、こういう評価からは自由になっておく必要があるだろう。